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強風恐怖症

今住んでいるマンションは、風が吹くと普通より大袈裟に軋む気がする。寝ていても、メキメキとか、ビューッという音で起きてしまう。台風なんて来た時には怖くて怖くて、ずっとトイレにいたいとさえ思う。

なぜか。

それは、私が小3の時に我が家が竜巻で全壊したというトラウマがあるからだと思っている。

あれは、30数年前の12月中旬。時刻は午後7時15分ごろ。

兄は2階で、母にめちゃくちゃ怒鳴られながら宿題をしていた。その母の声がうるさくて、私は1階のダイニングで1人、サザエさんを見ていた。すると、バッと停電になった。怖くなって、部屋を飛び出すと、ドアを出て左側は玄関なのにも関わらず、外が見えた。そして、聞いたこともない爆音と共に、外に稲光がバチバチ鳴っていた。今思えば、あれは電線が切れてショートかなんかしてバチバチ光っていたのだろう。
とにかく、火事なのか、地震なのか、ロケットが来たのか何なのか分からず怖くて怖くて階段の1番下の段に座り込んだ。すると、ドカン!と私の脚に向かって襖が飛んできた。めちゃくちゃ痛かった。そして、今でも襖が激突したところの骨は凹んでいる。
しばらくそこにいて怯えていると、母の金切声が聞こえてきた。

「みかん❗️みかん❗️生きてる⁉️どこにいるの‼️」

私は、ここだよ、と言うと、母は腰を抜かしていた。あとは、祖父を探さなければ。祖父は自分の部屋から隣の仏壇の部屋に行って右往左往していたらしい。

一同、何が起こったかのか把握出来ない。外に出ると、ご近所さんもみんな外に居た。どうやら、竜巻ではないか、と。そして、被害があったのは、ほんの少しのエリアで、道路挟んであっちは無傷、というような有り様だった。

兄は興奮して、裸足で庭を駆けずり回ったので、足をざっくりガラスの破片で怪我をした。何で裸足なんだ。私でさえ靴履いたのに。父はまだ仕事から帰ってきておらず、とりあえず兄を病院に連れて行かなければならない。ご近所さんの中で、若いサラリーマン風の男性が、率先して、とりあえず私が働いている会社に行ってみませんか。そこならきっと電気が通ってると思います、と。その会社は駅前にあるらしい。そして、ずらずら歩いている一同の中に、祖父も混じっていた。なぜ。

ともかく、母、兄、私の3人は近所の個人病院に行った。そして、母が、

「助けてください!助けてください!」と、ドアをドンドンと叩いている姿が忘れられない。私は、冷静だったから、その姿はちょっと恥ずかしかった。

しばらくして、その病院の奥様と娘さんが出てきてくれ、事情を聞いてくれたが、医者であるご主人は遠いところの歯医者に行っておりまだ帰ってきてないとのこと。応急処置だけしてくれて、また新たに病院探しだ。もちろん、救急車はパンク状態。しばらく彷徨っていると、パトロールカーを発見。母がまた、体を張ってクルマを止め、事情を説明すると、大きな病院まで送ってくれた。

兄は無事、何針か縫って処置が終わった。そして、再び倒壊した家に戻った。どうしたものか
、と思っていると、父が帰ってきて、

「こんな夜に何で外にいるんだ!」と言ってきた。

おいおい。状況を見たまえ。好きで外にいるんじゃない。なんで怒られなきゃいけないんだ。

私は、「なんか家壊れたよ。」と答えた。

父は、確かに電車が不通になり、途中からタクシーで帰ってきたらしいのだが、まさか竜巻で我が家が倒壊してただなんて思ってもみなかった。と言った。

父が帰って来たところで、近所の市民体育館に行ってみた。そこが、緊急避難先として開放されていたのだ。そこに沢山の人が集まり、しばらくすると、毛布とか、食べ物とか、支援物資がその日のうちに届いた。たしか、毛布や靴下など大量の衣類系を、セシールという企業が支援してくれたと記憶している。迅速にそんなことをしてくれるだなんて、一生感謝します。あの時はありがとうございました。食べ物はどこからだったのだろう??

その日は、そこで一夜を過ごしたのだが、父の隣で寝ていたら、父のイビキなのに私のイビキが凄かった、と同じ学校の男の子にしばらく言われ続けることになる。まじで男子勘弁。

次の日、やっと祖父にも再開して、みんな家の惨状を昼間にまじまじと見ることになるのだが、うちの屋根は蓋を外したかのようにポンとそのまま隣の畑に落ちていたり、2階の私と兄の部屋が1番被害が酷く、それぞれ部屋に居たら命はなかったろうと言われゾッとした。ちなみに、出窓にコレクションしていた私のジェニーちゃんとシルバニアファミリーはどこか吹き飛ばされてしまったことも合わせてとても悲しかった。

竜巻が来たとき、パニックにはなるが、なるべく狭い空間にいることが大事らしい。ものがたくさん飛んでくるからだ。お風呂場の湯船の中とか、トイレとか。そして、私が逃げ込んだ階段もなかなかいい選択だったらしい。是非みなさんもご参考にされるとよい。

その後、市がプレハブを作ってくれて、みんな自分の家を直す期間そこで過ごしていたが、我が家は祖父の知り合いの、建て壊し寸前のものすごく年季の入った家を1年ほど貸していただけることになった。そこでの濃い思い出も、また次回書けたらいいなと思う。

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