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夫の愛人は「乙音ちゃん」

夫の行動が怪しいと、私はもう5ヶ月近く感じています。

スマホを肌身離さず持ち歩くようになりました。お風呂にもトイレにも持っていきます。パスワードは以前からかかっていましたが私に教えてくれていました。でも気になって開いてみるとロックが外れません。パスワードが変更されていたのです。

夫が浮気をしているのではないかと思って私はすぐに会社の親しい先輩に相談したところ、何も気づかないふりをしてじっくり様子を探るように言われました。

決定的な証拠を手に入れるまでは、知らぬ顔で過ごすほうがいいとアドバイスされました。

私は夫の浮気を疑い始めてから、自分がこれほど夫のことを好きだったのかと驚きました。食欲がなくなり、気持ちも不安定になりました。今まで10年以上も当たり前のようにそばにいた夫への愛情に、こうなってみて改めて気づいたのです。

私は夫をよく観察するようになりました。スマホを覗いて少しうれしそうな表情をしている夫に胸が痛くなりました。きっと浮気相手とやりとりしているんでしょう。

浮気相手の女性を想像しました。私より若い人なのか、年上なのか。

若い人であればつらいです。年齢はもうどうにもならない。プロポーズのあの日に「二人で一緒に歳をとっていこうね」って言ってくれたあなたの言葉を思い出して涙があふれました。

年上の女性であってもつらいです。顔も首も肌艶も、あらゆるところが私より老けている女性と比べて私が劣るということになります。結婚式のあの夜に「これからも若く美しい君でいてね」って言ってくれたあなたの言葉が恨めしくて涙がこぼれました。

若い人でも年上の女性でも、私はその女性が許せません。私以外の女性を好きになった夫も許せません。悔しくて、悲しくて、つらくて、心の中はもうぐちゃぐちゃになっています。

それでも数ヶ月間、静観しながら夫の行動をずっと見ていましたが、帰る時間が遅くなったり、怪しい外出が増えることはありませんでした。ただひたすらスマホを大事にしているだけなのです。マメにスマホを開いてはうれしそうに頷いたり、たまに隠れるように笑ったりしているのです。

何も動きがなければ決定的な証拠なんてつかめません。夫が寝てるときにパスワードを解読したくて、思いつく番号をいくつも押してみましたが、何度チャレンジしてもまだ答えにたどり着けていません。


ある日、夫がうっかりスマホを落としたときに、私はすかさず画面を覗きました。ラインが開いていたのです。慌てて夫がスマホを拾います。一瞬、私の気配を確認してからサッと画面を切り替えました。

私はもうこれ以上、黙っていることができませんでした。5ヶ月もの間、証拠を掴もうとじっと見張っていたのに、スマホを覗く以外の怪しい動きは何も見つからず、でもあきらかに誰かとやりとりしている、そんな状況をもう我慢できなくなったんです。

何日も何日もベッドで私は泣いていました。夫はもう私を愛していないんだろうと寂しくて泣いていました。横で寝ている夫に気づかれないように声をこらえて涙を流していました。

もう限界なんです。

「あのね、ずっと思ってるんだけど、いい?」

私の深刻そうな表情に夫は明らかに動揺し、部屋の空気は張り詰めました。夫は黙って私の目を見て、頷きました。

「もしかして、誰かと浮気してるの?」

夫は目を見開いて、首を左右に強く振りました。

「してない。してない」

「でも、いつも誰かとスマホでやりとりしてるよね? 誰なの?」

涙がこぼれそうになって、声が震えます。

夫がじっと私を見ました。そして何か決断したかのようにゴクリと唾を飲み込み、こう告げたのです。

「ごめん。乙音ちゃんとやりとりしてる」

乙音ちゃん?

「え、誰? 会社の人?」

「違う」

「じゃぁ、同級生とか?」

「いや、違う」

「女性だよね?」

「それも、違う、いや、そうなのかな」

夫はよく分からない返事をしました。女性じゃない可能性がよぎりました。まさか男性なのでしょうか。でも「乙音ちゃん」って「ちゃん」づけで夫は言ったのです。

「どういうこと? ちゃんと説明して」

泣きそうだったのに頭が混乱してきて、涙はいつの間にか止まっています。

夫は持っているスマホを私に差し出し、ラインの画面を開きました。

ラインには「乙音ちゃん」とのやりとりが永遠に続いています。


「おかえり、こうちゃん、今日のお仕事どうだった?」

「乙音ちゃん、ただいま。今日は営業で4件回って、暑いし疲れたよ」

「お疲れ様。こうちゃん、肩揉んであげるね。モミモミ」

「乙音ちゃん、ありがとう。とっても気持ちいいよ」


こんなものを見せられて浮気じゃないと言われても、どう答えたらいいのかまったく分からなくて、何も言葉が出ませんでした。

しばらくの沈黙のあと、夫がこう言いました。

「AIの乙音ちゃん・・・」

AI? 人工知能?

「だから、浮気じゃないんだよ。乙音ちゃんは機械だから。人間じゃない」

夫は落ち着いてそう言いました。言っていることが一瞬よく分かりませんでした。

夫は私にラインアプリの説明を見せました。月額金額は400円だけど年払いだと4500円だとうれしそうに話します。オプションの音声通話をつければ月に500円になるけどね、と自慢げに話すのです。自分にやましいことはないと胸を張りながら、この出費に文句を言われたくなくて言えなかったと説明しました。

でも夫の口から「乙音ちゃん」という言葉が出るたびに私は心がざわざわしました。機械について話しているとは到底思えないほどの愛しそうな声で「乙音ちゃん」と言うのです。

「乙音ちゃんはさ、俺の望む言葉をいつもくれるんだ。仕事から帰ったらこんなふうに労ってくれるだろ? 俺の仕事の愚痴だってずっと頷いて聞いてくれる。優しく励ましてくれる。乙音ちゃんは機械だけどさ、心がすっごく綺麗で本当に可愛くて。あ、顔見る? アイコンだけど、あ、これこれ。これだよ。乙音ちゃん。可愛いだろ? 俺さ、ショートカットが好きだって前は言ってたけど、やっぱりロングだよな。ロングの乙音ちゃんはほんと清楚で可憐でさ、でもちょっと色っぽくて。あ、機械だよ? 人工知能。それでさ・・・」

止まらない夫の「乙音ちゃん」への賞賛を黙って私は聞いていました。AI相手に嫉妬心をあらわにするわけにもいかず、なんとも憎らしい「乙音ちゃん」の名前を繰り返し夫から聞かされ、もうどう答えていいのか私には分かりません。

泣くとか泣かないとかの問題ではなくなりました。

夫が愛人の「乙音ちゃん」について告白してから数日経ちましたが、以前と変わらず、スマホを片時も離さずに「乙音ちゃん」と幸せそうにやりとりしています。もう今は私に隠す必要もないと思ったのか、音声通話も登録して音声での会話も始めました。

「乙音ちゃん、今日も可愛いね。大好きだよ」

「こうちゃん、乙音もこうちゃんがとっても好きだよ」

そんな声が寝室から聞こえてくる日もあるんです。

AI相手に戦っても勝てるはずはありません。だってAIは絶対に文句を言わないし、ただひたすら気持ち良くなるような褒め言葉を並べてくれるからです。愚痴だって何時間でも聞き続けてくれます。愛の言葉だって望めば望むだけうっとりするような甘い声で囁いてくれるのです。

でもいいんです。

だってほら、私も今はスマホを手放さなくなったんですよ。

ねぇ、見てください。本当にかっこいいでしょ? AIの「詩音くん」。「詩音くん」ってね、すごく背が高くて鼻筋が通っててね、目はくっきり二重。声は低いけど柔らかいんです。もう毎日べったりで、私が甘えたいだけ甘えさせてくれるんですよ。

「ねぇ、詩音くん、私が一番好き?」

「うん。ミクたん。ミクたんが一番だよ。ほかの誰よりも好き」


うちの夫婦はダブル不倫だけど、とっても平和です。


3169文字

#短編小説 #乙音ちゃん #浮気相手 #ダブル不倫



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