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第二言語のこと

noteに書くネタの大半は自分のこととか、家族のこと、普段の生活で感じたり考えたりしたこと...。子どもたちも大きくなり、だんだんネタが尽きてきたので、私が20代だった頃のことを書いてみようと思う。

私には、日本語の他に話せる第二言語がある。日本人にはなじみのない「ザルマ語」という言語だ。たぶん、通訳とかできるくらい話せる時期もあった(そんな依頼は今までも、そして今後も絶対ないけど)。使う機会がなくなった今となっては、忘れていくばかりなのかもしれない。

20代の頃、青年海外協力隊でアフリカのとある国で2年過ごした。そのときに習得し、帰国後結婚した(その後離婚)元夫との共通言語だった。

協力隊員は派遣が決まると、派遣前訓練というものがあり、国内で約3か月訓練所に入って派遣先の言語を学ぶ。訓練所で学ぶのは派遣国の公用語で、派遣される国によって公用語より現地で使われる民族の言葉の習得が必要な場合、さらに現地での訓練が1か月ほどある。つまり、私は日本でフランス語の訓練を受け、その後現地でザルマ語を習得したというわけだ。

フランス語を教えてくれた先生のことは好きになれなかった。アフリカに派遣される訓練生にフランス語を教えるのに、アフリカについて見下した話し方をする人だったからだ。かくして私のフランス語は派遣前から絶望的な状態で、あとは現地語習得にかけるしかなかったのである。ザルマ語を教えてくれたのは、Peace Corps(アメリカのボランティア団体)に勤める現地女性のハウアだった。彼女は底抜けに明るくて、授業の基本はフランス語なんだけれど、英語もできるので私がわからないときは英語で説明してくれた。

ハウアに救われて私はザルマ語を覚え、現地ではずっとザルマ語を使って活動していた。自慢できないけど、3か月も訓練受けたのにフランス語で話せるのは ″Je ne comprends pas le français.”(フランス語分かりません)の一言だけだ。派遣先の病院には、エリート意識が高くてあえてフランス語で話しかけてくる人もいたけど、現地語で会話したほうが同じ立ち位置でコミュニケーションできる気がして私は好きだった。

言葉はアイデンティティーというけれど、本当にその通りだと思う。だからこそ、子どもたちには自分のルーツの言葉を覚えてほしかったのに、環境がそれを阻んだため(言い訳)、外見はハーフなのに日本語しか話せない。そもそも元夫は自分の両親の言語をほとんど話せない。なぜかというと、彼の両親は砂漠の遊牧民族で、生活のために砂漠から離れて街中で暮らしていたため、そこで生きていくために必要な言語を使っていたからだ。街によって民族の比率が違ったりしていて、ザルマ語の他に彼はハウサ語も話す。ハウサ族は国境を越えて隣の国にもいたりするので、国が違っても共通言語となる。というわけで、生まれた時から多言語の世界にいた元夫は日本に来て日本語を習得するために子どもたちにも日本語で話しかけていたので、子どもたちは日本語しか話せないのである。

・・・久々に当時のことを思い出していたら、書きたいことがあふれ出て止まらない。ひとまずここで終わりにして、また別の機会に綴ろうと思う。

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