後書きのようなもの
6月に個展を行った。
2020年に携帯で撮った写真の展示だ。
会場であるmahoramaの店主が書いてくれた文章がある。
もう彼女とは14年くらいの仲になるだろうか。
本当によく「人」を見ていると思う。
彼女の書いてくれた文章には「わたし」がいるのだ。
Yuki Edamura個展“no matter what”開催に寄せて
なんだか色々とよく見ている人だな、と思っていた。
答えが出るまでじっとそこにあるものを見ている。
実際、鑑賞に耐えうる精神を彼女は持っていて、そうして「見てきたもの」で枝村ゆきという人は構成されている。
彼女は手を挙げない。
大きな声を出さない。
多くを語らない。
だけど物怖じをしない。
長らく友人関係にあるがいつの頃からか何かになろうとしていて、何になるんだろうと思っていたら随分と時間をかけて水辺を中心としたいくつかの写真を見せてくれた日のことを覚えている。
写真とはつまり「どう見たか」ということで、なるほどこんな風に世界を見ていたのか、と小さく驚いた。
近頃の彼女は何かになる、というよりも自身が何者であるかを知るために時々深いところに潜ってはひっそりとその輪郭を濃くしていっているようだ。
「no matter what=たとえ何があろうとも」と小さな祈りを心に秘めながら日々を歩んでいくための仄めく希望であったのであろう写真たちを、分けてくれてありがとう、と私は今日も光の波を泳ぐ気持ちで橋を渡る。
2023.6.13 sacaiaco/mahorama店主
モヤモヤとした晴れない霧。
逃れられないその霧の中、感情の声を小さく小さくして
どんどんと沈んでいく自分。息ができない。
目の前の風景は、そんな私のことなんて知らん顔で
キラキラと瞬間を刻んでいる。
ああ、そっか。
私の見ている世界は美しいんだ。
そう思えた時、浮き上がって息ができた気がした。
ポケットから携帯を取り出して目に映る瞬間を撮る。息をする。
カメラロールに残されていく記録。
その行いは、いつの間にか、
霧の中にいても自分を自分に留めてくれる手段になっていた。
美しいものを知っている。息をする。
ああ、そっか。
私はきっと大丈夫。
泣いていても、笑っていても、どんな時でも。
私の見ている世界の美しさを知っていれば。
これは2020年に見た光。
no matter what
枝村ゆき
私たちはよく天気の良い日に川で合流して、ベンチに座って、ビールやコーヒーをお供にくだらない事や悩み事や、いろんなことを話した。
写真を見せたのは2020年。
後日、彼女が曲を作ってくれて、キラキラとした水面の光のようなピアノが自分の写真とシンクロする。
曲名は「no matter what」。
私がくじけそうな時に拾った言葉は彼女が好きな言葉でもあった。
音楽も、お料理も、遊ぶ時も、
彼女は自分を表現しながら生きていて、そういった表現を生み出す力を持っている彼女に、私はいつも憧れている。
2023年1月に彼女はお店をオープンした。
mahorama まほらま=古い日本語で「良い場所」「素敵なところ」という意味を持つお店だ。
個展をやろうと背中を押してくれ、初めてのことで右も左も分からない私をサポートして見守ってくれたこと。
クロージングパーティーで彼女が曲を弾き語りしてくれたこと。
この場所でできたこと。
いろんなことが繋ぎ合わさって、今に繋がって、
それはちょっとした私たちの奇跡みたいだなぁと、
勝手に思っているけど、どうだろう。
個展は終わって、日常に戻る。
ときどき彼女の作ってくれた曲を聴く。
あの個展の数日と日常を織り交ぜながら、
今日という日に一歩を踏み出す。
以前より、ほんの少しだけだけど、
強くなれなんじゃないかなという気がしている。
あこちゃん、ありがとう。
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