n-bunaさん

ざっくりとした紹介

n-buna
情景描写と、文学的な歌詞は一つの物語に入ったかを錯覚させる。
季節は夏を連想させる曲が多く、儚さの上に成り立つ綺麗な世界観が特徴。
2018年「ヨヒラ」の投稿を最後にボーカロイド楽曲の投稿を休止。
近年はボーカルにsuisとのユニット、ヨルシカとして活動。

ボーカロイド楽曲の投稿休止

n-bunaさんは昔に自身のTwitterを削除している。
理由についてはいくつかの憶測があるが、彼の最後のツイートがこれだ。

『ただ興味を持たれることは嬉しいし楽しかったからありがとう、これからも勝手に曲を作ってるから君たちの人生のために好きに消費して幸せになってくれ。
作品の価値はそれをどんな人間が作ったかに依存しない、と僕は思ってるんだけど、世の大半はそう思わないことを最近知ってちょっと興味深いなと思う。
パガニーニがヒトを殺してても僕はラカンパネラのメロディは美しいと言える。アーサークラークみたく、僕も創作にとっての人類の幼年期が終わる日を楽しみに生きていくよ。

ゆっくり出来そうなときにボーカロイドで曲作ったりYouTubeでラジオしたりするからまたそのうちね じゃあまた』

彼は作品の価値は作品自体にあり、他の要因には依存しないと考えている。
もしかすると、ボーカロイドという存在を使って楽曲を投稿していたのもこの考えが根幹にあるとも考えられる。
ボーカロイドという存在は無機質な存在であり、作者がソフトウェアを介すことでボーカロイド(例:初音ミク)の曲として公開される。これは唯一無二のボーカロイドの特徴であり、今考えれば彼の持つ価値観と非常にマッチしている。

しかし、n-bunaとしてその知名度を上げるうちにその価値観と世間とのギャップが生じる。
知名度を上げるごとに、作品単体での価値というよりは、
「n-bunaさんの作った楽曲」「あの曲を作った人の最新作」として広まることが多いだろう。
これはボーカロイドや音楽に限らずそうだが、ボーカロイドという存在を介してなお、届くのは作品ではなく自身への名声であり、彼の価値観とのギャップは年々増すばかりだったのだろうかと想像する。

綺麗とは脆いものだと僕は考える。
彼は純粋な綺麗な世界観を守るために、ボーカロイド楽曲の投稿休止、そして公なコミュニティの削除に踏み切ったのかもしれない。

彼は現在、ボーカルにsuisを迎えてヨルシカというユニットで活動している。
ヨルシカもまた顔出しは一切せず、公なコミュニティも公式のものしか存在しない。作者にとらわれず、純粋に『ヨルシカ』という作品を届けたいという思いが伝わる。

ヨヒラ

n-bunaさんの最後のボーカロイド楽曲となったヨヒラについて少し紹介したい。おそらく、全く関係ないとは思うがオタクとしては「君」という歌詞を初音ミクとしてとらえるとまたこの作品が違った視点になり面白い。

もしかするとこの段階でどこか、初音ミクからは離れることを決めていたのかもしれない。ただ、彼女を忘れようとするたび、忘れようとするたび胸に彼女かちらついてしまうんだ。
そんな歌詞にしか限界オタクは聴こえなくなってしまいました。
皆さんも一度その視点で読んでみてね。

最後に

n-bunaさんは完全にボーカロイド楽曲の投稿を卒業したわけではない。
彼なりのペースで気が向いたときに製作してくれるのをいつまでも待っている。

しかし、もし彼が新曲を出したとしても
「おかえり!」「n-bunaさんの曲を待ってた!」「やっぱりn-bunaさんの曲が好き」
などの反応は彼の望むものではないんだろうなと思う。

僕は彼のファンの1人だし、彼自身の作る世界観の虜だが、
もしその時が来たら、来ることがあれば是非
「この曲好き!」を彼に伝えたい。

おわり


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