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第四十八話 風流之士

もくじ

 広場に戻ったが、久寿彦はまだ着いていなかった。

 黄色っぽい楠の花屑を払ってベンチに腰を下ろす。トレーナーは丸めて隣に置いた。

 向かいのセンダンの木に、淡い紫色の花が咲いている。楠の木と同じく、どこか南方の雰囲気を感じさせる木だ。センダンには子供にまつわる諺があり、学校に植えられていることが多い。真一が通っていた小学校にも、校門のそばに植えてあった。

 センダンは児童公園と水場広場の境を成し、背後に回転式ジャングルジム、箱型ブランコ、回旋塔、ぶら下がりシーソー、と懐かしい遊具の数々が見える。この手の遊具は、相次ぐ事故のため、近年学校や公園から次々と撤去されているらしいが、ここでは現役で活躍中だ。ただ、どれも塗装が剥げたり、錆びついたりで、やはり撤去は時間の問題かもしれない。

「シン」

 ポケットから煙草を取り出そうとしたら、背中に声がかかった。振り返ると、せせらぎ沿いの小道を、背の高い若者が歩いていた。紺色のジャージにモスグリーンのカーゴパンツ。腕に入った白い二本のラインが、薄暗い雑木林の中でもよく目立つ。

「早かったな」

 久寿彦は短い橋を渡ってベンチの前にきた。

「ちょっと……走ってきたから……」

 息が上がり、顔は紅潮している。髪の先端も、汗に濡れて尖っている。

「べつに急ぐ必要はないだろ」

 ふっと笑った真一に、久寿彦も苦笑いを浮かべて、いやいや、と手を振った。さっきの電話で、真一に嫌味っぽい言い方をされたことを気にしているのだろうか。

「どうしたんだ、それ」

 視線を下げたら、両手の持ち物が目に留まった。右手にサイダー、左手は蚊取り線香の缶の取っ手を握っている。

「ああ、これか……。もう、蚊が出る頃だと思って」

 真一が顎でしゃくった蚊取り線香の缶を、ほんの少し持ち上げる。弟に車を貸したことや、工事中の道のことを忘れたくせに、変なところで気が利く奴だ。手軽な虫よけスプレーではなく、蚊取り線香を持ってくるところが、久寿彦らしいといえば久寿彦らしい。

 久寿彦はサイダーをベンチに置くと、しゃがんで蚊取り線香の缶の上蓋を外した。半分ほど消費された緑色の渦巻きにジッポーで火をつけ、ヤニで汚れた上蓋を閉め直す。いくつも開いた円い穴から懐かしい匂いが立ち昇ってきた。一年ぶりに嗅いだ夏の匂い。

「こりゃあまた、ずいぶんと……」

 ベンチに腰を下ろすと、ひょいと首を伸ばして真一のズボンを覗き込んできた。灰色と黄土色を混ぜ合わせたような色合いのワークパンツには、牛の模様みたいな濡れ跡がいくつも残っている。

「おかげさまでな」

 真一は憮然と言った。まだ乾かない生地の感触が不快だ。

「おっ、恨んでるな。ほら、これ、お詫びのしるし」

 久寿彦はベンチのサイダーをつかんで差し出す。
 しょうがないな、と受け取った真一だったが、プルタブを引こうとしたところで指が止まった。

 小さくため息をつく。

「お前、走って来たんだよな」

 きょとんと首を傾げる久寿彦。やはり、気づいていない。

「今、これ開けたらどうなると思う?」

 束の間の空白を挟んで久寿彦の口が、あっ、と開いた。
 おっちょこちょいなのだ、やはり。

「わかるよな。プシャーだよ、プシャー。俺の顔面に」

 右手でサイダーの缶を突き出しつつ、左手で泡が噴き出す様を表現する。

 自分は何か悪いことをしただろうか? 久寿彦が弟に車を貸したと言ったから、出向いてやっただけなのだ。それのどこがいけなかったのか。むしろ、感謝されるべきことだろう。浜辺でいじめられている亀を助けてやったようなものだ……。

 なのに、プシャー。
 道理に合わない。
 そういう遊びは、一人でやってもらいたい。友人を巻き込まないでほしい。
 爆弾みたいな手土産を、ゴン、とわざと大きな音を立ててベンチに置いた。

「あはは。ま、まあ、こういうこともたまにはあるわな。そ、そうだ、顔洗ってくる。汗かいちゃったし」

 白々しく笑って立ち上がる久寿彦。そそくさと水場へ向かう背中を、真一は吐息とともに見送った。

 ともあれ、これで一服できる。近くにある赤い鉄缶の吸い殻入れの脚をつかんで引きずってきた。どうせ久寿彦も煙草を吸うだろう。交差する細い脚を、ベンチ正面の蚊取り線香の缶に跨がせ、煙草に火をつけた。

 初めて久寿彦に会ったのは、バイトの面接に行ったとき。レジに立っていた久寿彦は背が高く、目鼻立ちが整っていて、カジュアルな制服なのに、貴公子みたいな雰囲気を湛えていた。一瞬、入る店を間違えてしまったのではないかと思ったほどだ。

 店で働く前は、「太陰流珠」 というバンドのボーカルをやっていた。メンバー全員メイクをしていたというから、バンドは、のちにそう呼ばれるようになった 「ヴィジュアル系」 の範疇に入るだろう。清都を中心に活動し、そこそこ人気があったらしいが、メンバー同士の意見の対立が原因で、結成から二年と経たずに解散してしまった。久寿彦が高校を卒業して、まだ一年も経っていない頃のことだった。

 店の仲間は、からかい気味に久寿彦のことを 「風流之士」 と呼ぶことがある。これは久寿彦のバンド時代のステージネーム。字面の通り、みやびな男のことだ。「風流之士と書いても、国家資格ではありません」、とは、ライブのメンバー紹介でたまに言っていたジョークだそうだ (あまりウケなかったそうだが)。

 一方、「太陰流珠」 というバンド名も、一見何を意味しているかわからない。久寿彦によれば、「太陰流珠」 とは、「水銀」 の隠語なのだとか。なぜ水銀に隠語があるのかといえば、それが怪しくも魅惑的な秘法にかかわるからで、ヨーロッパやアラブ世界の錬金術でも、中国の錬丹術でも、水銀は黄金と不死の仙薬 (もしくは、エリクサー、賢者の石) を作り出すために必要不可欠な物質と考えられてきた。水銀自体も仙薬とされ、中国では何人もの皇帝が服用して命を落としている。

 「太陰」 は、太陽の反対だから 「月」。「流珠」 は 「流れ落ちる玉」 で、「しずく」 と解していいのだろうか。満ち欠けを繰り返す月は、若返りや不死の観念と結び付けられやすく、「竹取物語」 にも、月へ帰ろうとするかぐや姫が、帝の配下の者に不死の妙薬が入った壺を渡す場面がある (結局、薬は富士山頂で焼かれてしまうが)。

 今の久寿彦に、バンド時代の面影は残っていない。髪型も服装もいたって普通、音楽も流行りのブリットポップなどを聴いている。店の仲間に、風流之士、とからかわれても怒ることはないから、喧嘩別れに終わった過去を引きずってもいないだろう。

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