《950文字》 北海道大雪山のとある山での出来事だ。 それは山肌にも登山道にも雪渓がびっしり着いた残雪期だった。 下山時、本当は良くないのだけれど私はルートをショートカットしようと思って登山道がある付近から外れて雪渓を下り始めた。 そこそこの急斜面で、登山靴でスキーをするように滑り下りる事ができる。 これを登山用語でグリセードと言う。 とても楽しいしラクチンだ。 その時、斜面の下の方を小さな丸い黒い影が横切った。 仔熊だ。ヒグマの仔だ。 やばい。やばいぞ。 心臓が早鐘を打つ
ぜんまいが伸びきってしまった。 わたしは非力。どうしようもなく非力。 このまま錆びつき軋んできっと永遠にうたえない。 埃をかぶって誰からも忘れ去られるんだ。 ふいに小さな子がやってきて、小さな小さな手でぜんまいを巻く。 そんな小さな手で巻けるの? わたしはうたった。 古い古い恋のうた。 遠い遠い異国のメロディ。 小さな子は小さな手をぱちぱち。 きみが生まれる遥か昔の、遥か遥か昔のうたできみはたのしそうに踊る。 わたしもたのしい。とてもたのしい。 でも小さな子はすぐにどこか
私は家にいる時は自分で編んだウールの靴下を愛用している。 ウールは洗濯を重ねる度に繊維が絡み目が詰まり、最終的にはフエルトのような質感になる。 そうなると長年共に暮らす老犬のような愛しさが湧いてくるのだ。 子供の頃、祖母が編み物をする時の棒針同士がぶつかるカチカチというリズミカルな音に憧れて編み方を教わった。 母は私の覚えが悪いとキーッとなるが祖母はどんなに時間がかかってもニコニコと待ってくれたので、祖母にべったりくっついて裁縫のいろはを教えてもらった。 とにかく手仕事
私はしょっちゅう熱を出して学校を休む子だった。 日中は母とふたりで過ごす。 母は静寂を好む人でテレビのつけっぱなしを非常に嫌い、家事のBGMで音楽を流すこともしなかった。 ある時私が音楽を聴いているとカッコーの声の邪魔だと言う。 音楽を止めると初夏の風に揺れるレースのカーテンの向こうからカッコーの声が聴こえた。 テーブルの上の便箋には青いインクの文字が並んでいるのが見える。 母はよく誰かに手紙を書いていた。 時には私の塗り絵を知らないうちに完成させていることがあった。 ご
地元にいた頃よく行っていた温泉がある。 そこは山奥にあるひなびた温泉宿で日帰り入浴料金も安かったし、そもそも私はうら寂しいひなびた宿や温泉が大好きだ。 ある日仕事帰りに友人を誘い一緒にその温泉に入りに行くことにした。何せ山奥の温泉宿だからいつ行っても空いている。 その日は私たちの他には、登山帰りのワンゲル部女子大生3人と60代と思われるおばちゃんだけ。 女子大生のキャッキャした声と、おばちゃんの咳を聞きながら友人と二人温泉を堪能して上がってみると、脱衣かごの中が荒らされ