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国鉄チャレンジ2万キロ 「雨との戦い」

  7.雨との戦い
 日本は暑さ寒さも厳しいが、地形も複雑で自然災害も多い。年中どこかで災害が発生している。全線踏破中。地震台風こそ遭遇しなかったものの、大雨大雪には何度か見舞われた。
 夏休みを利用して出かけた、1981年北海道、1982年九州、1983年山陰といずれも豪雨に襲われた。それぞれ北海道豪雨、長崎水害、山陰豪雨で、長崎と山陰は豪雨後、鉄道の復旧状況をみて踏破に出かけた。消毒の臭いに充満した長崎市街や泥水痕が点在する益田駅(山陰本線)構内など、豪雨の爪痕は至る所に残っていた。そして、北海道では踏破最終日に大雨とぶつかった。
 1981年8月3日夜、網走から札幌行の夜行列車「大雪」に乗り込んだ。車中はガラガラに空いており、ボックス席を独占することができた。午後9時網走を出発した列車が北見を通過するころから雨が降り出した。夜行列車は雨中進行したが、まさかこの雨が大雨に発達するとは夢にも思っていなかった。 翌日午前6時16分「大雪」は札幌に到着した。札幌もやはり雨だった。この日は北海道踏破最終日で、岩内線、胆振線、瀬棚線を踏破する予定だった。札幌から函館本線で小沢へ向かう。小樽までは通勤時間帯のため、混雑していたが、小樽を過ぎると空席が目立つようになった。列車は雨中山道を力強く進み、午前9時に小沢に到着。ここから岩内線14.9kmを踏破する。
 岩内線の終着岩内駅は日本海に面し、潮の香りがした。岩内線を往復し、小沢から函館本線で隣の倶知安へ行く。ここで、胆振線の列車に乗り換える。昼過ぎの胆振線は高校生でごった返し、車中に若々しい声が響きわたっていた。京極付近では、羊蹄山がコニーデの美しい山容を見せていた。その後、1時間半夜行列車の疲れでぐっすり眠り、昭和新山、有珠山にめぐりあうことはなかった。
 胆振線終点伊達紋別では雨が止んでいたものの、ここで初めて大雨の影響で列車ダイヤが乱れていることを知った。集中豪雨のため、美唄付近の函館本線は不通になっていた。もし一日計画がずれていたら、たいへんなことになっていた。それにしても予定の列車は中々来なかった。30分遅れてやっと来たものの、臨時のお座敷列車で、満員の混みようだった。
 長万部で道内最後の瀬棚線に乗車。瀬棚線の起点は国縫だが、ほとんどの列車が長万部発である。太平洋側の国縫から日本海側の瀬棚まで50km、渡島半島を横断する。今金付近で日もとっぷりと暮れ、雨足が強くなってきた。果たして不通になるのではと不安が募ってきたが、列車は無事瀬棚まで走った。雨の瀬棚で証明写真を撮り、これで北海道内の証明写真はすべて終了した。しかし、長万部まで戻れるのだろうか。一泊するには軍資金も底をついている。列車は激しい雨の中長万部に向けて出発した。
 何とか長万部までたどりつく着くことができたが、今度は函館までの列車ダイヤが乱れに乱れていた。長万部以南の函館本線は、不通箇所はなかったものの、以北は不通箇所が増え、あちらこちらで寸断されていた。函館行の列車は待てども全く来なかった。長万部で待ちぼうけを食わされた。果たして北海道から脱出できるのだろうか。不安になった。
 待つこと1時間、函館行特急「北斗」がやってきた。予定よりも2時間も遅れていたが、救世主のように見えた。間引き運転のため、車中は混んでいて、函館までの1時間ずっと立ち通しだった。やっとの思いで函館に到着し、深夜の青函連絡船に乗船する。これで豪雨の北海道から脱出できると思うと、ホッとした。
 帰宅後、北海道の豪雨渦を知った。石狩川は氾濫し、多くの家屋が浸水し、家畜や農作物の被害は甚大だった。函館本線の他、十数本の国鉄線が打撃を受け、復旧の見通しも立たない様子だった。被害を受けた方には本当に申し訳ないが、一日違いで北海道を全踏破できてよかった、と胸を撫で下ろした。



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