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国鉄チャレンジ2万キロ 9.カメラとの戦い

 9.カメラとの戦い
 これまで、「時間」「健康」「暑さ」「寒さ」「雨」「雪」との戦いと続き、なぜ「カメラ」と続くのか、疑問に思われるかもしれない。しかし、チャレンジ2万キロの会員になると、踏破した証拠として、各線の起点、終点、途中地点の駅名と踏破者の証明写真が必要になってくる。よって、証明写真をとるカメラは必需品となる。ところで、「カメラとの戦い」になってしまったのは、カメラのトラブルで何度も泣かされてきたからだ。
 カメラに関するミスは様々あるが、最初のミスは二重取りで、これはフィルムがきちんと巻けてなく、気づかずにシャタ―を押していた時に起きた。写真をみると、二重写しになっており、奇妙な写真になっていた。浜川崎(南武線)丸森(丸森線)糸魚川(北陸本線)がそうだった。

 それから、フィルムが空回りして、写したつもりの写真が全く写っていなかったというミスもあった。近畿地方の伊勢線、草津線踏破の時で、すぐに異常に気づき、大事に至らなかったが、再び踏破に行くことになってしまった。また、帰宅して、写真ができるまで全くミスに気づかなかったこともあった。北海道の倶知安(胆振線)でのことで、前後の写真は写っていたが、倶知安だけは写っていなかった。遠路だが、石勝線を撮りに行く都合もあり、再び倶知安へ写真を撮りに行った。だが、これらはまだ序の口で、さらに悲惨な出来事が起こった。それは、もとはいえば私自身の不注意だが、途中踏破を投げ出してしまおうと思った程、ショッキングな出来事だった。 
1981年7月30日北海道踏破も後半を迎えていた。この日の踏破計画は、「歌志内線」「函館支線・砂川―上砂川」「幌内線」「万字線」「夕張線

(現石勝線)」「千歳線」で、主に炭鉱地帯を巡るコースであった。時間の都合で、北海道唯一の私鉄三菱炭鉱会社線も組み入れた。
ちょうど前日にフィルムが終了し、この日新しいフィルムを入れ替えたばかりであった。釧路発夜行列車は「狩勝」は、この日早朝出発点砂川に到着した。砂川から歌志内線、函館本線支線を踏破するのだが、効率良く列車が繋いでいた。車中では、眠気でほとんどシートに横になっていたが、車窓から炭鉱地域独特の炭住群、貨物車が見られた。
 2線を踏破すると、函館本線のクラシックな客車に揺られ、岩見沢まで進む。ここから幌内線、万字線の乗るわけだが、通勤時間帯のダイヤから外れ、繋ぎはよくない。8時を過ぎると、北海道といえども30度を越す猛暑となる。暑さの中、幌内炭鉱で有名な幌内線を往復する。この沿線は、新しい団地が建ち並び、砂川の炭鉱地域よりも近代的に見えた。次に

万字線に乗る。万字線は岩見沢の隣志文が起点だが、ほとんどが岩見沢から発着する。この線は、今までの炭鉱地域を走る路線と比べて距離があり、片道1時間もかかる。夜行列車の疲れと暑さのため、ほとんどボックス席で寝ていた。終点万字炭山の駅舎は、ホームから100mも離れており、5分間の滞在時間に証明写真、駅スタンプを終わらせた。

 万字線踏破後、岩見沢から室蘭本線を南下し、夕張線(石勝線)起点追分へ向かう。追分では室蘭本線と夕張線の連絡は悪く、1時間も待たされた。追分はこの秋に千歳空港から石勝線が開通するため、新しい駅舎であった。
 追分から夕張線に乗車。この夕張線は秋には石勝線と名前を変え、新得(根室本線)へつながり、札幌と帯広・釧路を結ぶ幹線ルートに変わる。そのため、ポイントごとに凍結防止のシェルターが作られていた。追分から紅葉山(現新夕張)まで40分、さらに紅葉山から夕張まで30分かかった。夕張は石炭産業で栄えた町だが、斜陽化に伴い、人口は年々減少している。夕張沿線では、ごちゃごちゃとして街並みと無人の炭住群が印象に残った。
 夕張からUターンして1つ目の清水沢で降りる。ここから北海道唯一の私鉄三菱石炭鉱業会社線に乗り換える。2両編成の古い客車に足を踏みいれると、ムッとした熱気が肌に伝わった。列車は灰色のジュウパロ湖畔をゆっくり進み、20分後に終点南大夕張に到着した。南大夕張も炭鉱の街だが、山奥にしてはかなりの家並みがあり、わりと活気に溢れているよ

うだ。

 清水沢から夕張線で紅葉山(現新夕張)まで戻ってくる。ここで、7月1日に廃止されたばかりの夕張線支線(紅葉山―登川)の様子が気になり、下車することにした。旧紅葉山構内には線路が残り、今にも列車が来そうな雰囲気がある。次に使用されていない登川へ行くことにした。幸いなことにバスが登川の近くまでに走っていて、そのバスに乗り込んだ。終点登川小学校では12分間しか滞在時間はなく、この短い時間を利用して登川へ向かった。しかし、停留所から登川まで500mも離れていて、必死に走って行った。すると意外なことに私と同じような行動をとる若者が2人いた。私は彼らよりも年上だが、競争心を煽られ、負けてなるものかと懸命に走り、登川に1番にたどり着いた。若者に勝った満足感に浸りながら、登川を見学。廃止されたばかりで、駅舎もホームも線路も残されていたが、無人でひっそりとしていた。何枚もカメラにおさめると、再び登川小学校の停留所まで走っていく。ぎりぎり紅葉山行のバスに間に合い、息を弾ませながら座席についた。
 夕闇の紅葉山から夕張線で追分に戻り、さらに室蘭本線を南下し、苫小牧へ行く。ここから千歳線に乗り換えて、この日の宿泊地札幌へ向かう。午後10時札幌に到着。駅前の札幌ラーメン屋でお腹を満たすと、予約してホテルに直行した。この時はまだ、この日の踏破を無にする程の事態に気づいていなかった。
 翌朝ホテルをチェックアウトするため、荷物をまとめていた時、あれ、何度も何度も物を調べた。カメラがない。そういえば、昨夜カメラは鞄の中ではなく、手に持っていた。どこへ置き忘れたのだろうか。ホテルのフロント、駅の遺失物の窓口、ラーメン屋と自分が行ったあらゆるところに聞いてみたが、返事は皆「ノー」だった。ついにカメラは出てこなかった。苦労して撮った炭鉱地域の写真、走って撮りに行った登川、すべてパアになってしまった。せめてフィルムを抜いておけばと悔やんだが、後の祭りだった。
 しばらく大通公園でがっくり肩をおとしていたが、気を取り戻して、少ない資金でポケットカメラを購入して、翌8月1日炭鉱地域を再挑戦することにした。しかし、三菱炭鉱鉱業会社線、登川には、ついに寄ることはなく、灰色のシュウパロ湖、無人の登川のショットは幻の写真となってしまった。
 それ以後、国鉄踏破に出かける時には、カメラを2台用意し、撮るときはフィルムがきちんと巻けているか必ず確認し、慎重に撮るようになった。もちろん常にカメラを持っていることをチェックしたのは、いうまでもない。 9.カメラとの戦い
 これまで、「時間」「健康」「暑さ」「寒さ」「雨」「雪」との戦いと続き、なぜ「カメラ」と続くのか、疑問に思われるかもしれない。しかし、チャレンジ2万キロの会員になると、踏破した証拠として、各線の起点、終点、途中地点の駅名と踏破者の証明写真が必要になってくる。よって、証明写真をとるカメラは必需品となる。ところで、「カメラとの戦い」になってしまったのは、カメラのトラブルで何度も泣かされてきたからだ。
 カメラに関するミスは様々あるが、最初のミスは二重取りで、これはフィルムがきちんと巻けてなく、気づかずにシャタ―を押していた時に起きた。写真をみると、二重写しになっており、奇妙な写真になっていた。浜川崎(南武線)丸森(丸森線)糸魚川(北陸本線)がそうだった。

 それから、フィルムが空回りして、写したつもりの写真が全く写っていなかったというミスもあった。近畿地方の伊勢線、草津線踏破の時で、すぐに異常に気づき、大事に至らなかったが、再び踏破に行くことになってしまった。また、帰宅して、写真ができるまで全くミスに気づかなかったこともあった。北海道の倶知安(胆振線)でのことで、前後の写真は写っていたが、倶知安だけは写っていなかった。遠路だが、石勝線を撮りに行く都合もあり、再び倶知安へ写真を撮りに行った。だが、これらはまだ序の口で、さらに悲惨な出来事が起こった。それは、もとはいえば私自身の不注意だが、途中踏破を投げ出してしまおうと思った程、ショッキングな出来事だった。 
1981年7月30日北海道踏破も後半を迎えていた。この日の踏破計画は、「歌志内線」「函館支線・砂川―上砂川」「幌内線」「万字線」「夕張線

(現石勝線)」「千歳線」で、主に炭鉱地帯を巡るコースであった。時間の都合で、北海道唯一の私鉄三菱炭鉱会社線も組み入れた。
ちょうど前日にフィルムが終了し、この日新しいフィルムを入れ替えたばかりであった。釧路発夜行列車は「狩勝」は、この日早朝出発点砂川に到着した。砂川から歌志内線、函館本線支線を踏破するのだが、効率良く列車が繋いでいた。車中では、眠気でほとんどシートに横になっていたが、車窓から炭鉱地域独特の炭住群、貨物車が見られた。
 2線を踏破すると、函館本線のクラシックな客車に揺られ、岩見沢まで進む。ここから幌内線、万字線の乗るわけだが、通勤時間帯のダイヤから外れ、繋ぎはよくない。8時を過ぎると、北海道といえども30度を越す猛暑となる。暑さの中、幌内炭鉱で有名な幌内線を往復する。この沿線は、新しい団地が建ち並び、砂川の炭鉱地域よりも近代的に見えた。次に

万字線に乗る。万字線は岩見沢の隣志文が起点だが、ほとんどが岩見沢から発着する。この線は、今までの炭鉱地域を走る路線と比べて距離があり、片道1時間もかかる。夜行列車の疲れと暑さのため、ほとんどボックス席で寝ていた。終点万字炭山の駅舎は、ホームから100mも離れており、5分間の滞在時間に証明写真、駅スタンプを終わらせた。

 万字線踏破後、岩見沢から室蘭本線を南下し、夕張線(石勝線)起点追分へ向かう。追分では室蘭本線と夕張線の連絡は悪く、1時間も待たされた。追分はこの秋に千歳空港から石勝線が開通するため、新しい駅舎であった。
 追分から夕張線に乗車。この夕張線は秋には石勝線と名前を変え、新得(根室本線)へつながり、札幌と帯広・釧路を結ぶ幹線ルートに変わる。そのため、ポイントごとに凍結防止のシェルターが作られていた。追分から紅葉山(現新夕張)まで40分、さらに紅葉山から夕張まで30分かかった。夕張は石炭産業で栄えた町だが、斜陽化に伴い、人口は年々減少している。夕張沿線では、ごちゃごちゃとして街並みと無人の炭住群が印象に残った。
 夕張からUターンして1つ目の清水沢で降りる。ここから北海道唯一の私鉄三菱石炭鉱業会社線に乗り換える。2両編成の古い客車に足を踏みいれると、ムッとした熱気が肌に伝わった。列車は灰色のジュウパロ湖畔をゆっくり進み、20分後に終点南大夕張に到着した。南大夕張も炭鉱の街だが、山奥にしてはかなりの家並みがあり、わりと活気に溢れているよ

うだ。

 清水沢から夕張線で紅葉山(現新夕張)まで戻ってくる。ここで、7月1日に廃止されたばかりの夕張線支線(紅葉山―登川)の様子が気になり、下車することにした。旧紅葉山構内には線路が残り、今にも列車が来そうな雰囲気がある。次に使用されていない登川へ行くことにした。幸いなことにバスが登川の近くまでに走っていて、そのバスに乗り込んだ。終点登川小学校では12分間しか滞在時間はなく、この短い時間を利用して登川へ向かった。しかし、停留所から登川まで500mも離れていて、必死に走って行った。すると意外なことに私と同じような行動をとる若者が2人いた。私は彼らよりも年上だが、競争心を煽られ、負けてなるものかと懸命に走り、登川に1番にたどり着いた。若者に勝った満足感に浸りながら、登川を見学。廃止されたばかりで、駅舎もホームも線路も残されていたが、無人でひっそりとしていた。何枚もカメラにおさめると、再び登川小学校の停留所まで走っていく。ぎりぎり紅葉山行のバスに間に合い、息を弾ませながら座席についた。
 夕闇の紅葉山から夕張線で追分に戻り、さらに室蘭本線を南下し、苫小牧へ行く。ここから千歳線に乗り換えて、この日の宿泊地札幌へ向かう。午後10時札幌に到着。駅前の札幌ラーメン屋でお腹を満たすと、予約してホテルに直行した。この時はまだ、この日の踏破を無にする程の事態に気づいていなかった。
 翌朝ホテルをチェックアウトするため、荷物をまとめていた時、あれ、何度も何度も物を調べた。カメラがない。そういえば、昨夜カメラは鞄の中ではなく、手に持っていた。どこへ置き忘れたのだろうか。ホテルのフロント、駅の遺失物の窓口、ラーメン屋と自分が行ったあらゆるところに聞いてみたが、返事は皆「ノー」だった。ついにカメラは出てこなかった。苦労して撮った炭鉱地域の写真、走って撮りに行った登川、すべてパアになってしまった。せめてフィルムを抜いておけばと悔やんだが、後の祭りだった。
 しばらく大通公園でがっくり肩をおとしていたが、気を取り戻して、少ない資金でポケットカメラを購入して、翌8月1日炭鉱地域を再挑戦することにした。しかし、三菱炭鉱鉱業会社線、登川には、ついに寄ることはなく、灰色のシュウパロ湖、無人の登川のショットは幻の写真となってしまった。
 それ以後、国鉄踏破に出かける時には、カメラを2台用意し、撮るときはフィルムがきちんと巻けているか必ず確認し、慎重に撮るようになった。もちろん常にカメラを持っていることをチェックしたのは、いうまでもない。 9.カメラとの戦い
 これまで、「時間」「健康」「暑さ」「寒さ」「雨」「雪」との戦いと続き、なぜ「カメラ」と続くのか、疑問に思われるかもしれない。しかし、チャレンジ2万キロの会員になると、踏破した証拠として、各線の起点、終点、途中地点の駅名と踏破者の証明写真が必要になってくる。よって、証明写真をとるカメラは必需品となる。ところで、「カメラとの戦い」になってしまったのは、カメラのトラブルで何度も泣かされてきたからだ。
 カメラに関するミスは様々あるが、最初のミスは二重取りで、これはフィルムがきちんと巻けてなく、気づかずにシャタ―を押していた時に起きた。写真をみると、二重写しになっており、奇妙な写真になっていた。浜川崎(南武線)丸森(丸森線)糸魚川(北陸本線)がそうだった。

 それから、フィルムが空回りして、写したつもりの写真が全く写っていなかったというミスもあった。近畿地方の伊勢線、草津線踏破の時で、すぐに異常に気づき、大事に至らなかったが、再び踏破に行くことになってしまった。また、帰宅して、写真ができるまで全くミスに気づかなかったこともあった。北海道の倶知安(胆振線)でのことで、前後の写真は写っていたが、倶知安だけは写っていなかった。遠路だが、石勝線を撮りに行く都合もあり、再び倶知安へ写真を撮りに行った。だが、これらはまだ序の口で、さらに悲惨な出来事が起こった。それは、もとはいえば私自身の不注意だが、途中踏破を投げ出してしまおうと思った程、ショッキングな出来事だった。 
1981年7月30日北海道踏破も後半を迎えていた。この日の踏破計画は、「歌志内線」「函館支線・砂川―上砂川」「幌内線」「万字線」「夕張線

(現石勝線)」「千歳線」で、主に炭鉱地帯を巡るコースであった。時間の都合で、北海道唯一の私鉄三菱炭鉱会社線も組み入れた。
ちょうど前日にフィルムが終了し、この日新しいフィルムを入れ替えたばかりであった。釧路発夜行列車は「狩勝」は、この日早朝出発点砂川に到着した。砂川から歌志内線、函館本線支線を踏破するのだが、効率良く列車が繋いでいた。車中では、眠気でほとんどシートに横になっていたが、車窓から炭鉱地域独特の炭住群、貨物車が見られた。
 2線を踏破すると、函館本線のクラシックな客車に揺られ、岩見沢まで進む。ここから幌内線、万字線の乗るわけだが、通勤時間帯のダイヤから外れ、繋ぎはよくない。8時を過ぎると、北海道といえども30度を越す猛暑となる。暑さの中、幌内炭鉱で有名な幌内線を往復する。この沿線は、新しい団地が建ち並び、砂川の炭鉱地域よりも近代的に見えた。次に

万字線に乗る。万字線は岩見沢の隣志文が起点だが、ほとんどが岩見沢から発着する。この線は、今までの炭鉱地域を走る路線と比べて距離があり、片道1時間もかかる。夜行列車の疲れと暑さのため、ほとんどボックス席で寝ていた。終点万字炭山の駅舎は、ホームから100mも離れており、5分間の滞在時間に証明写真、駅スタンプを終わらせた。

 万字線踏破後、岩見沢から室蘭本線を南下し、夕張線(石勝線)起点追分へ向かう。追分では室蘭本線と夕張線の連絡は悪く、1時間も待たされた。追分はこの秋に千歳空港から石勝線が開通するため、新しい駅舎であった。
 追分から夕張線に乗車。この夕張線は秋には石勝線と名前を変え、新得(根室本線)へつながり、札幌と帯広・釧路を結ぶ幹線ルートに変わる。そのため、ポイントごとに凍結防止のシェルターが作られていた。追分から紅葉山(現新夕張)まで40分、さらに紅葉山から夕張まで30分かかった。夕張は石炭産業で栄えた町だが、斜陽化に伴い、人口は年々減少している。夕張沿線では、ごちゃごちゃとして街並みと無人の炭住群が印象に残った。
 夕張からUターンして1つ目の清水沢で降りる。ここから北海道唯一の私鉄三菱石炭鉱業会社線に乗り換える。2両編成の古い客車に足を踏みいれると、ムッとした熱気が肌に伝わった。列車は灰色のジュウパロ湖畔をゆっくり進み、20分後に終点南大夕張に到着した。南大夕張も炭鉱の街だが、山奥にしてはかなりの家並みがあり、わりと活気に溢れているよ

うだ。

 清水沢から夕張線で紅葉山(現新夕張)まで戻ってくる。ここで、7月1日に廃止されたばかりの夕張線支線(紅葉山―登川)の様子が気になり、下車することにした。旧紅葉山構内には線路が残り、今にも列車が来そうな雰囲気がある。次に使用されていない登川へ行くことにした。幸いなことにバスが登川の近くまでに走っていて、そのバスに乗り込んだ。終点登川小学校では12分間しか滞在時間はなく、この短い時間を利用して登川へ向かった。しかし、停留所から登川まで500mも離れていて、必死に走って行った。すると意外なことに私と同じような行動をとる若者が2人いた。私は彼らよりも年上だが、競争心を煽られ、負けてなるものかと懸命に走り、登川に1番にたどり着いた。若者に勝った満足感に浸りながら、登川を見学。廃止されたばかりで、駅舎もホームも線路も残されていたが、無人でひっそりとしていた。何枚もカメラにおさめると、再び登川小学校の停留所まで走っていく。ぎりぎり紅葉山行のバスに間に合い、息を弾ませながら座席についた。
 夕闇の紅葉山から夕張線で追分に戻り、さらに室蘭本線を南下し、苫小牧へ行く。ここから千歳線に乗り換えて、この日の宿泊地札幌へ向かう。午後10時札幌に到着。駅前の札幌ラーメン屋でお腹を満たすと、予約してホテルに直行した。この時はまだ、この日の踏破を無にする程の事態に気づいていなかった。
 翌朝ホテルをチェックアウトするため、荷物をまとめていた時、あれ、何度も何度も物を調べた。カメラがない。そういえば、昨夜カメラは鞄の中ではなく、手に持っていた。どこへ置き忘れたのだろうか。ホテルのフロント、駅の遺失物の窓口、ラーメン屋と自分が行ったあらゆるところに聞いてみたが、返事は皆「ノー」だった。ついにカメラは出てこなかった。苦労して撮った炭鉱地域の写真、走って撮りに行った登川、すべてパアになってしまった。せめてフィルムを抜いておけばと悔やんだが、後の祭りだった。
 しばらく大通公園でがっくり肩をおとしていたが、気を取り戻して、少ない資金でポケットカメラを購入して、翌8月1日炭鉱地域を再挑戦することにした。しかし、三菱炭鉱鉱業会社線、登川には、ついに寄ることはなく、灰色のシュウパロ湖、無人の登川のショットは幻の写真となってしまった。
 それ以後、国鉄踏破に出かける時には、カメラを2台用意し、撮るときはフィルムがきちんと巻けているか必ず確認し、慎重に撮るようになった。もちろん常にカメラを持っていることをチェックしたのは、いうまでもない。


万字炭山駅
夕張炭鉱跡

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