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家族がバラバラ 1

今、思えば本家の方々父方の祖父母の考え方や家を存続させるやり方が正しいことを実母、兄に想い知られた。
   お金は人を簡単に変える力があることや家督相続時に争いが世間では当たり前のことはわかっていたが、他人事と信じていた。親の事を嫌う気持ちも理解できなかった。戦国時代は長男を中心に家督相続し弟などは家臣になるか養子、出家が当たり前だった。  
      私は次男なので、そのつもりだった。妻も私が次男なんで安心して結婚したと思う。何ら柵にとらわれないからだ。どこから話をすればいい良いのかわからないが…。

私の家は、徳川紀州藩 上士  御目見以上だった。戦時でも祖父は何の不自由もなく豊かに育ててもらった。

 父は、国立大学を卒業後に東京の会社に勤めてロケットエンジンを製造していた部門に居たが、嫌になったのか長男なので家督を継がないといけないためなのかわからなかったが来年度から名前が変わる東証一部の化学プラントの製造会社に転職。円高の影響で会社が傾き、世間ではバブル全盛期だったが父の月給は働き盛りの40代で手取り20万を切ったと聞いた。
  母は、短大を卒業後に大阪市立の幼稚園で勤めて幼稚園の先生をしていた。また、小原流と言う生花の先生でもあった。

  父母は見合い結婚で、恋をしたと思えない半ば親同士の行き詰まりに感じる。その後、一年後には兄が生まれた男子かどうかお互いの親同士もめたそうな。兄と私は誕生日が同じ日で丁度八つ離れている。
   私が三歳くらいに父が海外赴任中に祖父が鬼の形相で母の髪の毛を鷲掴みにし玄関、門を超えて引きづりながら『出て行け❗️』などと言い追い出していたので、私は母を守ろうとして間に泣きながら立ったのを思い出す。
    その時の兄は祖父に対して怖い存在だと思っていたのか二階から降りようとしなかった。何故か私は怖いと思っていなかった。むしろ、おじちゃん子だった。

母、兄から聞くと父母とも共働きだったので、兄が私にご飯を作り食べさせていた。

和歌山城
鉄砲



  母と兄は祖父母に強い憎しみを抱き、母は実家に戻り母方の祖父母は、兄と私の面倒を見るから帰って来いと言い。その祖父母も父方の祖父母に母のことで土下座したくらい…。父方の祖父母や父の兄妹が母の嫌う意味がわからなかった。兄を祖父は柱にロープでくくり付けていた。

しかし、祖父は私が幼かったのか何もしなかった。私は何故か祖父や本家の方々に可愛がってもらえた。
  
  その祖父も昭和58年に亡くなってしまった。祖母は二階で一人で落ち込んでいた。
    理由を聞くと母にいじめられると言う。
母もまた、祖母は黙って二階に上がるとか生活費を少しでも出して欲しいとか祖父が亡くなったことを寂しく何ら感じていないといいだと祖母は言いだしたと罵り合いが始まった。


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