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元オウム真理教2世としていま伝えたいこと #創作大賞2023 #エッセイ部門

『ガチャ』といったら、コインを入れてハンドルを回すと出てくるカプセル玩具と、スマートフォンのソーシャルゲームを思い浮かぶ方が多いだろう。私も推しキャラ欲しさに、結果に一喜一憂することがある。
ゲーム会社各社、確率などが設定されておりレアなモノほど出にくい。私の人生は、奇しくも超級レアを引き当ててしまった。

我が家に出たガチャの中身は「カルト宗教」。

このエッセイの主人公である、「私」志文まひろは、現在40代になる女性だ。
我が家はある「宗教」により崩壊した。

――宗教の名は、オウム真理教。

オウム真理教
1995年地下鉄サリン事件を起こし、2018年教祖や幹部が死刑執行され、教科書にも載る世間を騒がせたカルト教団だ。
私の場合は、近しい親族が入信し、勧誘を受けた母がオウムに入信。私は1桁の年齢で信者となった。

当時の私は「分数の割り算がなんでひっくり変えるの?」と不思議に思っていたどこにでもいる普通の小学生だった。

2022年世間にその存在を広く知られ、流行語大賞にノミネートされた「宗教2世」それもオウム真理教の。

――待ってください!

ここまで読んで画面を閉じようとした方が、何人かいらっしゃるのでないでしょうか?
この告白の後、受ける拒絶は、私たち元信者たちが長年受けてきた扱いに他ならない。それは子供の2世も同様だった。そのため、いままで必死に息を潜めて生きてきました。

私は電車や職場など、あなたの隣に座っているような、どこにでもいるただの人です。
仕事をし、友達と遊び、食事をし、泣き、好きな事に熱狂する。ただ宗教を選択した家庭に生まれてしまっただけなのだ。
ただ皆さんに私たちの存在と、経験した事を知ってもらいたい。
オウムの記憶が風化する昨今、私の経験したオウムを後世に残しておきたいと常々考えていた。そして宗教は違くとも、いま現在苦しむ2世にアドバイスになればと筆を取った次第です。

……だけど、正直気が重い。

なぜなら私はいまだにオウムのトラウマを抱え、戦っているからだ。勇気を振り絞ってこの記事を書いている。

どうか、このページを閉じる前に、この記事を一読していただけないでしょうか?

◆発信のきっかけ

私が表に出てきて、宗教2世であることを発信しはじめたのは、2022年7月の安倍元首相銃撃事件の翌月からです。犯人のバックグラウンドがあらわになり、山上容疑者が「宗教2世」であると報道を見て私は凍りついた。

――もしかしたら、私もそちら側にいたかもしれない。

そんな考えが自分の中に湧き出てきた。

――いやいや、そんな事はあり得ない。

今は普通の生活を営めているし、金銭的にも困っていない。しかしここまで一言では語れない苦労を重ねてきたのは確かだ。未成年でゼロではなくマイナスのスタート。親も親族も頼れない。世間からバッシングの嵐、学校・勉強はオウムにより取り上げられた。

――それでも、私は幸運だったのでは?

細い淵を渡りきり、社会に戻り崖には落ちなかった。
オウムの子は、親と共に切り捨てられた。学校に入ることも反対運動が起き、医療へ受診することを拒否していた医院もあったと、当時から支援者をしていた方の口から聞いた。
その様々な重圧に耐えかね、精神を壊し自死した友人もいる。彼とは死ぬ数日前も電話で会話をしていました。
そういう私も心を病み自死が頭をよぎった時期がありあったが、どうにか踏みとどまることができ、現在がある。
実は自死を踏み留まったのはオウムの教義で禁止されていたからなので、本当に何とも言い難い。そして、少なからず助けてくれる人がいてくれたからだ。
もし歯車がひとつ抜け落ちていたら、今の私は居なかったかもしれない。それに気づいた時、20年以上の歳月が過ぎていましたが、恐怖に身が震えた。

◆このタイトルをつけたわけ

この記事のタイトルをご覧になると、私が無類のゲーム好きが分かっていただけたと思う。
正直、オウムの関連書は内部にいた私でも小難しくて、何を読んでいるか分からない。これでは知識のない方には知ってもらえないと常々思っていた。
私の記事は、面白く&分かりやすく、日常に沿った事を書くことを目標にしている。
そして、ゲームや漫画といった私の得意フィールドで勝負しようとこのタイトルを選択した。

現在私は、コンシューマーゲームからソーシャルゲームまで幅広く遊んでいる。ここまでしつこくゲームについて書いて、勘のいいかたなら気づかれたと思うが、オウムではゲームは厳禁!

「イメージの中で殺生をするためイメージの世界が穢れる。殺生のカルマを積む」
とこじ付けのような理由。笑ってしまう。

我が家は宗教に出会う前、両親がファミコンを購入しており、家族で熱狂的に遊んでいた。しかしある日ゲームは良くないものにされてしまう。親族や友人の家で某配管工カートゲームで遊ぶこともあったが、家ではスーパーファミコンからゲーム機本体を購入してもらえなかったため、多くのタイトルは未修になってしまった。
オウムを抜けてからゲーム機本体を買い、取り戻すかのように遊び尽くしました。中古のゲームソフトを買いに秋葉原に通ったことも。ゲームに熱中しすぎて首を痛め全治2週間の負傷をした恥ずかしいエピソードもあります。
でも、取り戻せない時間は回収出来ない。

ゲーム好きの友人がたまに無邪気に聞いてくる。
「まひろ、何でこのゲームやってなかったの? 絶対好きな内容だと思うよ」
「親が買ってくれなくて……。」
その瞬間は言葉を濁すしかない。
嘘ではないが背景は語れない。私は苦笑してその話題を流す。

この本当の理由は友人に2世である過去を打ち明けるまで、言えないだろう。

ゲームを例えにしたが、普通の家庭には当たり前のものが宗教2世の家庭では禁止されている。
そして、宗教2世は幼い頃から宗教の常識と外の世界の常識、2重生活を強いられる。成人し社会性の基盤のある大人と、社会を知らない子供とでは難易度が違うのは理解していただけるだろうか?!

一般生活と宗教生活、2つの常識と禁止事項を理解し、その場その場の大人や周囲の顔色を伺うしかない。そして当時私の場合は、宗教を信じてしまっていたため、毎日学校の校門をくぐるとストレスから蕁麻や頭部に神経痛を引き起こしていました。誰にも相談できず一人で耐える学校生活。
しかし、オウムではさらに過酷な生活が待っている。どこにも安住地はない。
そして当時は、危険な教義に教育されていたため、陰謀論を信じ悪業を積む前に死ぬことを望んでいた。20歳以上の自分を想像さえしていなかったほど。年端もいかない子供にこんな思想をさせる団体は狂っている。
もう自分と同じ被害と苦労を受ける子供が出てきてはいけない。そう強く思うのです。

◆ふとした瞬間に宗教の影

2022年秋、私は手術を経験した。
命に係わる病気ではなかったけれど、長年抱えていた不具合で生活に支障が出てしまい決断したものだ。準備期間は大学病院の初診からだと半年強、全身麻酔をかけ腹腔鏡で臓器にメスを入れる。入院は4泊5日、職場復帰までひと月かかる、それなりに大変な手術だった。

当時受診していた街の主治医より「そろそろ症状が重くなってきたので、手術を視野に入れませんか?」と言われました。それがコロナの緊急事態宣言が出る少し前、2020年の初頭。
そう私がこの手術を受けるまで約2年以上かかっている。
手術と言われて「はい、分かりました。そうします」とすぐ答えられる人は少ないだろう。
私は違う意味で手術をする決意が出来なかった。
周囲には「コロナが落ち着くまで待ちたい」と言い訳していたが、理由は……。

そう、私はオウムの教義が脳裏にチラついて手術に踏み切れなかった!
あれから何十年も経ったのに!

――尊師(教祖)が言っていた世界があったらどうしよう。地獄に落ちるかもしれない。

それは条件反射的のように私の中に沸いて出てきた考えだった。

――そんなものはない!

否定しても否定しても、こびりつく汚れのように拭いきれない。
オウムでは西洋医学の治療は良くないとされ(せっかくカルマが落ちているのに治療するのはよくない自然治癒を推奨)、薬を飲むことも禁止され、修行中高熱が出て立ち上がることが出来なくなっても、幹部から「浄化が起きて良かったですね、修行で治しましょう」と休むことも許してもらえない。
ましてや、手術は最大の禁忌だった。魂の器を傷つけるなど許されない。

私がその教義を信じていたのは、過去の話だ。
いまは普通に病院かかり薬を飲む。しかし手術と薬では事の重大さが違かった。
すでに捨て去ったと自分では思っていた教義が、まさかここにきて足かせとなり『手術』という札を取れないとは思いもしなかった。これが洗脳なのだろうか?!
私は自分に沁み込んでしまっていた教義と一人戦うため、自分を繰り返し説得させるのに約2年の期間を必要とした。

実はこんな事を書いていますが、私は結局教義と戦って決断を下すことは出来ないまま手術に臨んでいます。症状が重くなり手術を選ばざるをえなかったのです。

結果、手術は何てことはなかった。
私は何も変わっていない。
術後の痛みや不快感はあったけれど、心は晴れ晴れしていた。
病院のベッドの上で、これからはいま以上に自分の人生を生きていこうと、回復した後の生活が待ち遠しいほど。私を縛っていたオウムがどうでもよくなっていた。

奇しくも手術前後が2世問題について大々的にクローズアップされていた時期で、私はメディアの取材や本の出版などに協力していたため、その対応を追われ、嫌でもこの問題と向き合わなくてはならなかった。それもありがたいことに私の中で言葉にすることで整理をすることができたのだろう。

何十年経ったいまも何か行動を起こそうとした時、自分の意図していない瞬間、足かせとなって現れる宗教。これが2世が抱えるトラウマです。

私は手術でオウムと宗教2世としての過去に少し踏ん切りをつけることができたように思えます。
私のような大きなイベントがきっかけではなく、2世たちに小出しに吐き出せる場があればと願ってやまない。そんな場所の必要性を感じています。

◆透明な存在

私たち2世は、脱退し通常の生活に戻っても宗教に足元を掬われ、心は簡単に解説できないほどこんがらがったままだ。
土台を築く未成年時代を奪われ、治療も受けられず、そして世間から見て見ぬふりをされ、透明な存在として扱われる。

『透明な存在』この言葉は、アニメ『輪るピングドラム』から引用している。この作品は宗教2世や地下鉄サリンを嫌でも思い越す内容だ。アニメ内で「誰にも必要とされない子供」が「こどもブロイラー」に連れて行かれ巨大なシュレッダーで粉々にされ「透明な存在」にされるシーンがある。その描写なら「死」を連想するかもしれない。
いや、生きたまま透明な存在にされると私は解釈した。
私たちがそうだったように……。

◆オウムの教義

一言で言えば『ごった煮』だ。
ヒンドゥー教のシヴァ神を祀り、体はヨガを基礎とし、仏教の釈迦の逸話を語り、チベット仏教の曼荼羅が飾られ聖人を招待する。終いにはキリスト教のヨハネの黙示録を解説していた。宗教の良いところ取りやー!!

私はこの文を書いてみて、オウムは非常に日本人らしいと思った。正月は神社で初詣、結婚式はチャペル、ハロウィンとクリスマスで盛り上がり、死ぬ時な仏式。オウムは典型的な日本人だ。信者はそれになんの違和感の抱かず信仰をしている。当時は欧米の方が日本をイメージすると他国のアジア文化が混じるのと同じで、私は遠い地の宗教の違いが分からなかった。しかし今になって見ると、非常におかしいことに気づく。

この宗教知識ごちゃまぜの私ですが、唯一の特典があったりしする。
漫画「聖☆おにいさん」の元ネタが調べずとも分かり大笑い出来るのだ。コミック映画ドラマと楽しく拝見している。中でもペトロとアンデレが好きです。

オウムのもう一つの特徴として、信者たちは『死』を語るのが得意だ。
「人は死ぬ必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」
教祖が説法でよく言う言葉だ。信者なら知っていないとおかしいほど有名なフレーズだ。今世でカルマを精算しないと悪趣に転生してしまう、高い世界に生まれるため徳を積まなくてはいけない。死後の世界がどんなに恐ろしいか、しつこくしつこく説法される。

新たにカルマを積まないため、戒律を遵守した生活や行動を求められます。これがやたら細かくて結構ハードなのだ。
「尊師のご命令です」ですぐ追加される。
「アイスクリームは修行を3か月遅らせます」と幹部に言われ、私はアイスクリームを脱退するまで口に出来なかった。子供の頃にこれは酷だ。

◆『オウムに在籍していてだけで加害者』と言われた過去

この言葉は当時の警察に言われた。
「オウムに在籍しただけで加害者」この言葉は最近まで私に重くのしかかっていた。
周囲から受ける拒絶は恐怖でしかなく、最近まで自分は加害者だと思っていた。

――あなたは、加害者ではない、被害者。

支援者の方に何度も言われ、2世が加害者なわけがないと、最近ようやくその考えになれた。そして私は『加害者』を隠れ蓑に使っていた人生を反省した。オウムの2世である私がオウム事件の被害者の方々に顔向けできない生き方をしてはいけない。きちんと生き社会生活を送る。そして発信すること。それが精一杯の役目だと思って襟を正した。

私は最近1つ思うことがある。
人生を立て直した過去と、現在を宗教の批判をせず「志文まひろ」という人間を見て欲しい。それは承認欲求なのかもしれません。
私は宗教に強制された人生の20年分を語れず、薄っぺらな自己紹介しかできない。語ったら最後「アリーヴェデルチ!」よろしく、9割が縁を切られて「さよなら」だった。
語らない期間は無かった、又はサボっていたと取られてしまう。
私にだってプライドがある!
細い道を落ちず、歯を食いしばって渡りきった道は輝かしい勲章だ!
全ての自分を1つに表現出来たら最強なのに……。

しかし、誰もがこの過酷な道を通過できたわけではないのは、痛いほどわかっている。

――私に出来たから、あなたも頑張ろう。

これは同じオウム2世で自死した友人に、数日前に私がかけてしまった言葉た。あのときは、一緒に頑張ろうと励ましたつもりだった。
浅はかな私は、彼の気持ちを読み取れなかった。
あんな言葉をかけるんじゃなかった。いまでも後悔しています。
弱者に優しい世界が少しでも広まることを願ってやまない。

◆カルト・宗教にいた子供も『悪』なのでしょうか?


年を重ねても、彼らは幼少期・思春期・青年期に獲得しなくてはいけない、『土台』を奪われている。

自己責任として切り捨てていいのでしょうか?
嫌ならば逃げればいい。と、言いますか?

――私はどうやっても逃げられなかった。

まだ未成年で経済力もない私を、近しい人間や血の繋がった親族は切り捨て見ないふりをした。
そしてそれは政府側もだ。

しかし、手を差し伸べてくれた少数の方がいて、私はいまこうして生きている。
感謝しかない。
ありがとうございます。

私の経験を社会にエッセイとして公表するのは、もう同じ過ちを繰り返さないための訴えだ。同じようにカルトに苦しむ人が一人でも減り、2世が生きるヒントになってくれればと願います。

そして、宗教とは関係のない皆様に、この問題に少しでも目を向けていただきたい。
偏見の目を少し緩めていただきたい。
いま苦しむ人と、将来のある子供たちのために。

告白を聞いて、話しを聞くところからでいいのです。
「大変だったのね」の言葉ひとつで救われる心があるのです。

そのため私は自分の経験を曝け出します。
自分の救いと共に。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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