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ガチャを引いたらカルト出た③オウムの2世で辛かったことは?その2

※「オウムの2世で辛かったことは?その1」の続きです。
お読みでない方は、その1をお読みください。

――どこか違えば結果は変わっていただろうか?

と非生産的な事をたまに考えてしまいます。

父が磯野家のマスオさんにならかったら?
母がワカメの勧誘を断っていたら?
入会金を払うお金が無かったら?
波平が生きていたら、フネがしっかりしていたら
ワカメがカルトにハマらなかったら……いや我が家の諸悪根源がワカメが居なかったら!

私の家はガチャが全て悪い目が出てしまったのだ。

◆出家から帰ってきた


私は着の身着のままワカメ宅にやってきて、そのまま居ついた。
もうオウムには帰りたくなくなっていた。
持ち帰った荷物は貴重品が入ったリュックと寝袋。
着替えもなく着たきり雀だったので、服を何枚か買ってもらった。

帰ってきたはいいが、何もすることがない。
初期の頃は、外出も極力しないようにしていた。
いまさら家にも帰れないし、母はオウムに居たままだ。
父も他の親族も迎えにこない。
私に誰も「次」を教えてくれる人はいなかった。それはワカメ家族も同様だ。

ワカメの子供と遊んだりしていたが、暇だった。
報道が加熱しているためテレビを見ることが出来ず(ワカメたちも見せようとはしなかった)そのため、ワカメの子供が当時好きだったアニメ録画を一緒に見ていた。セーラームーン・レイアース・ふしぎ遊戯、女子向けアニメや漫画一色。OP曲を全て覚えてしまうほどだ。
私はどちらかと言うと少年ジャンプなどが好きだったのだが、背に腹は何とやら、暇だったので家にあった漫画を読みつくしてしまった。なので当時の少女漫画にやたら詳しい。

その後、母を説得してオウムから戻ってきてもらったが、それでも事態は動かず、半月ほど私はぼんやり過ごした。

その頃、カツオやその嫁に手紙を出したが、今思うと完全に洗脳されていた内容だ。しかし彼らへの恨み言も書いたと思う。
あの当時、磯野家は母のサザエをいいように使っていたのだから。そのため親族の子の中で私だけが小学生低学年から鍵っ子で様々な我慢を強いられてきた。オウムをやっている時だけは母を独占でき、私だけを見てくれたのが大変気分が良かった。今思うと、私は幼少期から磯野家に不満も抱えていたのだ。それを手紙にぶつけたような記憶がある。あとはいとこへの苦情。

ある日、私はこっそり自分の家に帰ってみることにした。
母が近所のおばさんに胸倉を掴まれているのを目撃し、私は逃げてしまった。
近所のおばさんは母の手により勝手にオウムに入信させられ、警察が来て事情聴取されたのだ。母を見つけ怒り狂って襲い掛かってきたのだ。私が入会金の数万円のお金を出せるわけがなく、もちろん母やワカメが行ったことだ。

オウム用語で本人の意思ではなく内緒で入信させることを『黒入信』と言う。入信させてオウムとの縁をつけることで、カルマが良くなり真理への縁ができるとかなんとかだったと思う。率先してやれと言われていたのだ。

私の住んでいいた場所は、周囲に親族が集まって暮らしていた。曽祖父を頼って集まった親族だ。
犬も歩けば「親戚」に当たる。
親族だらけの地域だったため、私と母の噂はあっという間に広まり、私と母は犯罪者を見るような目線を向けられ、昼間は外を歩けなくなった。

そんな目を搔い潜り、こっそり帰った自宅に入ると、中はガランとしていた。
父が家財を処分してしまったのだ。
磯野家は父のいた部門の家業を撤退し、父は磯野家を辞めていたのだ。そして家を引き払う準備をしていた。

私の私物もベッドや本棚の大型家具と文房教科書を残し、処分されていた。ぬいぐるみやおもちゃ、子供の頃の思い出は全て捨てられていた。

そして父は長期の海外旅行に出てしまう。私は出家から帰ってきたあと、父に会った記憶がない。

――私は父に捨てられたのか?!

いま現在、父はそうは思っていないようだが、皆さまはこの状況をどう思うだろうか?私と母も父に酷いことをしたとは思っているが、再三浮気をし、私たちに背を向けはじめたのは父が先である。

私と母を別にした国民健康保険証を渡し、長期の海外旅行に旅立つ父を。
そして親族だ!

私たちの住んでいた住居は磯野家の持ち物だったため、娘のサザエが居ても問題は無い。しかしカツオの嫁が

――マスオさんが磯野を辞めたから、もう社宅として住んでもらっては困る。

と言い出したのだ。それは祖母の日記に書いてあるので事実だろう。カツオも何も言ってこず、母は磯野家で働いていたので、この状況で再び勤めることは出来ない。

オウムに黙って出家した私たちが悪いのだが、ワカメ一家が出家から帰ってきた時との待遇は雲泥の差だった。事件と警察が大きすぎた。まさかこんな事になるなど予想もしなかった。末端の信者は寝耳に水。そして元凶のワカメ一家は生活に支障がなかった。なんという差だ?!

そして私は出家が嫌で嫌で、何度も未遂で逃げ帰っていたので、今回の出家も本意ではない。周囲に地固めされ母と私は動けなくなっただけだ。
私と母はトカゲの尻尾切りよろしく、家を追い出された。

こうして、私の人生は10代半ばで詰んでしまっていた。

◆住む家も財産も全て失った生活


私の手元に残った物は、少しの文具と数枚の服、そして自分のお年玉を貯めて買ったブラウン管のテレビが家に残っていた。それは私のモノにしていいらしい。小さな衣装ケースがカラカラ音がするほどの少なさだ。

母はすぐ派遣登録し仕事に出たが、その職場に警察が事情聴取にきてすぐクビになってしまう。当初働き口もなく、家を出て行く資金も作れなかった。

あの頃の警察は縦割りでいろんな地域の警察がひっきりなしに来訪し、私の家以外に近所や親族をかき回していった。
「踏み絵をすれば信じてもらえるだろう?」
「家の中を見せたら?」
などTwitterでつぶやきを見かけたが、部屋の中を警察に見せて逃亡犯を匿っていないことを何度も何度も証明したが、また違う所属の警察がやってくるのだ。できる限りの協力をしたが、それ以上はどうすることも出来なった。

困り果てた時、私から見たら大叔母の助けでボロアパートを借りられた。
深夜、軽トラックに荷物を積んで夜逃げするように引っ越しをした。
借りたアパートは最低限の物しか持ち込めなかった。お皿が2枚、コップは2個、箸とスプーンも2本ずつと言ったような必要最低限の物。
エアコンはなく、布団もない。真夏は扇風機の前に冷えた麦茶を置き、涼をとる。真冬は寝袋に毛布をかけるだけ。
母が私に小鳥を1羽飼ってくれた。その子が唯一の話し相手だった。
ひとりと1羽は、アパートの籠の中で息を潜めて生活するのが半年以上続いた。

母は大叔母の店で働くことになり、働き口を得られた。しかししばらくしてこの大叔母は様々な約束を破り母を裏切り始める。

父が海外から帰ってきて、両親は離婚した。私が離婚を頼んだのだ。
父から手切れ金として100万渡され、母はこれ以上お金を要求しないという念書を書かされたそうだ。その100万は私の高校入学など必要なものに消えた。それ以降、父から養育費は一切もらっていない。どんなに困って頼んでもだ。

私は残念ながら公立には行けないと言われた。当時パソコンやスマホはなく、情報を収集する方法が紙媒体だったため、真相は分からない。唯一助け船を出してくれた母のいとこの紹介で、ある高校に通うことになる。学校は私のような訳ありの子を引き受けてくれる高校だと言われる。私はそれを信じて、入学の準備をする。

富士総本部から帰ってきて1年弱が経っていた。
しかし、1年近く学校にも外出もできない状態で、母のいとこ以外誰も動いてはくれなかった。こんな状態に子供をおいても周囲は無視だ。
以前の記事で透明な存在と書いたのはコレだ。この時期の私は完全に『透明な存在』だった。

この頃、大叔母はまだ本性を表していなかったので、母の営業成績が上がり給料が上がった。フネが月10万円を支援してくれたお金と、母の稼ぎで私は学校に行く段取りがついたのだ。
生きるのに必要最低限しかなかった家具が少し増える。勉強のためのテーブルを買ってもらえたり、本も買ってもらえた。そして母のいとこがプレイステーションをプレゼントしてくれたのだ。その後念願のスーパーファミコン(中古)を手に入れ、秋葉原に中古ソフトを探しに行くのが楽しみになっていた。小さい変化だったが、大変嬉しかった。

◆当時の学力

私は前の記事に書いたように、オウムの道場に頻繁に通っていた。そのため中学2年から勉強が分からなくなってしまっていた。
長期修行やノルマ、過酷な環境下にいるため度々体調を崩す。頻繁に学校を休む必要があり、授業について行けなくなってしまったのが原因だ。

因数分解や不定詞を習った記憶がない。数学の問題が解けなくなり、慌てて先生に質問に行った。しかし何を質問をしたらいいのか、何が分からないのかも分からず、質問しに行った人たちの解き方を覗き見て理解した。

英語は補習に出て文法が抜け落ちていたことに気づくほど。そのためテストは常に赤点だった。唯一点数が取れたのは暗記科目で、勉強を積み上げる系は全滅だった。

その状態から学歴を取り戻すため、高校に通いだすのだが、毎日深夜3時まで予習を取り組んでも授業にギリギリついてゆけるかどうかだった。

家にこもっている間に勉強をすればよかったのでは?
と思われるかもしれないが、参考書1冊買う余裕が出来てから勉強を開始したが、高校編入まで間に合わなかったのだ。
学習塾に通うまでの金銭的余裕はない。誰かに勉強を習うことも、支援も受けられないため、独学だったため非常に効率が悪かったのだ。参考書を中身を吟味して購入するが、それでも半分以上が難しくて分からない。

母はこの頃、私が勉強が分からなく苦しんでいる理由がいまいち理解できなかった節がある。「1世」と「2世」の言葉もない時代。私の土台が抜け落ちていることを自分基準で忘れていたのだ。

勉強には悩んだ。
あの時、勉強を見てもらえる場所があったらと……。


◆無事高校に編入することができた

勉強が分からないが、なんとか編入試験はパスして高校生に戻ることができた。
私は要領の良いところがある。学校見学の際、事前に教師から試験傾向を聞いていたので、そこだけピンポイントで猛勉強をしたのだ。

学校生活はバラ色……ではなく、いつも緊張していた。

私の過去がバレてはいけない。
絶対言ってはいけない。
また近所や親族から受けた扱いを受ける。
普通に、普通に振るまわなくてはいけない。

オウムの悪口や替え歌、教師まで授業中にオウムの批判をする。
面談で私の過去を話した教師までだ。

それを笑って受け流すしかなかった。
無頓着を貫く。「無頓着」はそれはオウムで習った教義だ。
何も感じず、心も動かない。そう暗示をかけていた。

高校生活、勉強の他に苦しかったのは、同級生たちの眩しい姿を目の当たりにしたことだ。
バレエ、英語、絵画、皆何かしらの才能を育ている。

――私には何かある?
――命をかけたモノは、
オウム……。

両手をじっと見るが、その努力を語ることは絶対に許されない。

――私は何も(言え)ないじゃないか。

そのため周囲から受ける評価はマイナスだ。

今まで何の努力もしてこなかった人として見られる。私の必死に耐えていた心とプライドがズタズタになる音がした。 

◆高校での友人関係

その頃から、在家や出家信者たちがコンタクトがあった。私はオウムの人間と接触し始めた。

ある日、高校でできた友人が

――何か隠しているでしょう。話してよ。

としつこく言い続け、私は泣きながらオウムの過去を打ち明けてしまった。
彼女なら、と気を許したのだ。
そして彼女をオウムの同世代の友人に紹介してしまう。それが彼女の親の耳に入ってしまった。

――目を見て話さないから何かある子だと思った。

親子で私を可愛がってくれていたのに。一瞬で関係が壊れた。
勧誘をしたかったわけではない。私の世界を知ってもらいかった。いや、この頃はまだオウムを信じていたので、全く無いとは言えないだろう。彼女に誕生日プレゼントを送っても、もう返事もこない。完全に関係を断たれた。同じクラスだったが会話もない。

それまで歯を食いしばって必死に学校生活を送っていても、どこか楽観的に考えていた私だった。
何とかなるさ。オウムに居た頃に比べれば楽だもの。
しかし、私の精神に亀裂が入りはじめていたのに、気づくの数か月後だった。

少し話を前後する。
この少し前、警察に取り囲まねる事件が起きた。

その友人と母の友人、その席に突然遊びに行きたいと在家信者の友人が合流し、ファミレスで夕飯を食べることになった。すると私服警官にファミレス内外で囲まれた。
みるみる人数が増えてゆく。最大で20人くらいいただろうか。話しかけられたわけではないが、当時の刑事ドラマよろしく、耳からイヤフォンをたらし、こちらを伺う不審な人々。在家信者がつけられてきたのか、私、母、友人2人もオウムに席は置いていない。なぜ?!

在家信者がお世話になっている警察の方に連絡して、急遽その場に来てもらう。その方が到着し、取り囲んでいた警察と話しをつけて帰ってもらうまで生きた心地がしなかった。

集会だと思われたのだろうか?!
その後、分かるのだが。その頃、生活に困っていた元1世信者たちを家に招いて母は家庭料理をご馳走していた。その方の1人が家族が幹部だったため、自宅に家宅捜査が入り、私の住所が載った手帳を押収され、警察に居住地がバレてしまったのだ。また警察に生活を脅かされる日々が始まってしまった。
夜逃げするように引っ越してきたため、警察に居所がバレておらず、突然身を隠したため執拗にマークされることになってしまった。

ここに出てきた2人を少し覚えておいて欲しい。

助けてくれた警察は、この後私たち母娘の身元を保証し、オウムと縁がないと証明してくれることになるが、後々私を苦しめる人と変貌する。
そして、アドレス手帳を押収された元1世信者は、未来の私を助けてくれる存在となる。
これは次の記事で語らせていただく。


◆学校に行けなくなっていた

家を出るが、公園で時間を潰して家に帰ってくる。
母はアパートに昼ご飯を食べに帰ってきていたので、その時間が過ぎてから家に帰るようにしていた。気づかれないように。
先延ばしにしても意味はないのだが、それ以外出来なかった。3学期の単位を落とし、三者面談に呼ばれ母がようやく私の事態に気づいた。

その頃になると私は声が出なくなっていた。

話そうと口を開くと、涙と嗚咽で声が遮られる。それでも話そうとすると呼吸困難を起こしてしまうほど涙が溢れる。

教師からは
――あなたなら大丈夫と思ったのに。
と言われる。目の前で悪口を言っていた教師たちだ。全然大丈夫ではない。

話すことが出来なくなっていた。学校をやめる理由も教師に告げられず高校から荷物を持って逃げた。
そして、母にしがみついて泣き叫んだ。

――どうしてこうなったの!私が何をしたの!!私の何が悪かったの!!

話せないなか、吐き出せた言葉だ。

母は『ごめん』としか言えない。母も働いて努力しているのだ。しかし思いをぶつける相手は母しかいたなかった。

私は高校を辞めた。
留年してまたあの苦労を一からやる自信が、私にはない。
そしてこの頃、母の働き口のオーナーの大叔母が母を裏切り始めて、収入が安定しなくなっていた。
バイト代は歩合がつく約束を反故にされ、家賃を補助する約束も数回しか守られなかった。母が稼ぎ始めたため歩合の賃金を払うのが勿体なくなったのだ。大叔母は税理士の言うことも聞かなくなり、暴走しはじめた。
こんな状況では、もう通えるかどうか分からない学校の学費を払ってもらうわけにはいかない。
オウムでも耐え抜いた私の精神は、こうして折れてしまった。

それから家に引きこもる。
自死が頭をよぎるが、オウムの教義に自死は禁止されていた。
将来、解脱する魂を傷つけることは殺生の行為になりゆるされない。私は自分の生を終わらせる選択も許されていなかった。
その頃はよく夜空を見上げていた。
そして、違う自分になる空想をしてやり過ごす。それが数か月続いた。

私は、オウムの信者の誘いで教団に戻ってしまった。
居場所がない。外で暮らす努力を放棄した存在を受け入れてくれる場所は、もうそこしかなかった。

活動するため、1世信者に教わりアルバイトをはじめた。
なんと、私は働く方に適性があった。
オウムに通うための活動資金だが、順調にアルバイトを重ね、自分で自由になるお金を手に入れることができた。
最初は平日毎日、4時間程度のアルバイト。
安い時給だったが、毎月7万円弱のお金が手に入る。

少しずつ自信を取り戻せていった。

私は、このお金を稼ぐことで道が開けたのだ。
経済力が全て解決する。

◆オウムとの決別

オウムでの活動は別記事にでも書かせていただくので、ここでは割愛する。オウム真理教がアレフに変わる頃、内部はかなり分裂しており、部署の対抗意識が酷く悪口が飛び交っていた。

――あたなはどちらの所属なの?道場?それともあちらの部署?

んんー、この会話女子グループでよく聞くやつ。
こんなことを出家修行者の口から聞いたら、もうオウムは終わりだなと思った。

そしてオウムの道場に知らない出家信者が出入りするようになった。嫌な感じがする人々だ。

風の噂で候補に上がっている人を無理やり出家させ、幹部の嫁候補にするというとんでもない話が耳に入ってきた、その中に私もいると。
同世代の2世女性が、逮捕された幹部と獄中結婚して支援していた。そういう時期だったのだ。

前記事を読んだ方は分かっていると思うが、私は絶対出家が嫌だった。もう2度と嫌だ。在家で細々とやっていこうと思ったのに。
ふざけるな!
この噂は、私だけが聞いたわけではない。
現に仲の良かった在家信者の男性たちが、私が道場に滞在しているときは、順番に護衛に傍にいてくれた。
本人の意思と関係なく勝手に連れてゆくなんてダメだと真剣に怒ってくれたのだ。

私は怖くなってオウムの道場に通うのもやめた。
この出来事がきっかけで成人する頃、私はオウムと決別する。

私はここから自分の力で人生を立て直す道に入る。
これは、たった5年程度の出来事だが、私にとっては長い長い日々であった。

Twitterで他宗教の現役さんたちが
「現2世は幸せで過去のような被害は受けていない。被害を受けた人たちが声を上げるせいで、自分たちが信じている世界を否定されたり、非難される。苦しいと。被害の声を上げるな。」

といった内容の声をたまに見かける。
私はこの時の自分と重ねられるため、彼らの言い分も痛いほどわかる。
私はオウムを信じ、オウムが全てだったから。
この5年間はまだオウムと教祖を信じており、オウムの生活が嫌であったが在籍し続けた。
いまはそんな自分を哀れに思う。

その世界が全てではなく、被害を受けた人が存在することを忘れないでほしい。そして、私たちは神の道を歩けなかった可哀そうな人でもない。

この記事に出てきた、警官に取り囲まれたのを助けてくれた警察(変な言い回しだが事実だ)に『オウムに在籍していてだけで加害者』と言われた。

その言葉は最近まで私に重くのしかかった。
私は被害者ではなく加害者であるのだと思っていた。

私は加害者ではない、被害者である。

支援者の方に何度も言われ、最近ようやくその考えになれた。
そして、オウムの2世である私がオウムの被害者の方々に顔向けできない生き方をしてはいけない。きちんと生き社会生活を送る。そして発信すること。それが精一杯の役目だと思っている。

カルト宗教にいた子供も『悪』なのでしょうか?
年を重ねても、彼らはその時期時期に獲得しなくてはいけない、『土台』を奪われている。
自己責任として切り捨てでいいのでしょうか?
嫌ならば逃げればいい。と、言いますか?
――私はどうやっても逃げられなかった。

まだ未成年で経済力もない私を、近しい人間は切り捨て見ないふりをした。
しかし、手を差し伸べてくれた方もいたため、私はいまこうして生きている。感謝しかない。

私の経験を社会にエッセイとして公表するのは、もう同じ過ちや繰り返さないための訴えです。
同じようにカルトに苦しむ人が一人でも減り、2世が生きるヒントになってくれればと願います。

次回

ガチャをひいたらカルト出た③オウムの2世で辛かったことは?その3
③成人後人生回復のための期間から現在まで。(2000~)

を連作ラストを書かせていただきます。

これは今に近いので正直絞り出すには相当覚悟が入ります。またあのワカメがいろいろやらかすので、ご期待(?)ください。


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