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ガチャを引いたらカルトでた。③オウムの2世で辛かったことは?その1

私は2022年にマスコミの取材をいくつか受けている。ご縁があり書籍や全国紙の新聞などにもインタビュー記事が載った。その席で質問者の方々は必ず似た質問をされる。

――辛かったことは何ですか?

「ぶっちゃけこれまでの人生ハードモードで全部辛かったわ!(怒)そろそろイージーモードに切り替えられないの?最近のゲームだって途中で難易度変更出来るよね?!?!?」

と、ブチ切れたいが、これだから2世は常識がないと言われかねないため、ぐっと堪えて丁寧にお答えをしている。

私は現在マスコミなどで取り上げられている、ステレオタイプの宗教2世ではなく、レア中のレアタイプの宗教2世だという自覚がある。

私の場合は、辛かった時期は大きく分けて3つに分かれます。

①幼少期から強制捜査までのオウム真理教所属時代。(1988~1995)

②出家から帰ってきて後、完全脱退までの期間。(1995-2000)

③成人後人生回復のための期間から現在まで。(2000~)

 
年齢、信仰の深さ、周囲の環境・人生のステージの変化から苦しさが変わっているためだ。
グラデーションしているのだ。

そして③で現在と書いたのは

こちらの記事に書いたが、手術を目前にして教義が頭をチラつき、決断まで2年の時間を必要としたからだ。これが昨年の出来事で近々に起きている。
私は自分でも気づかない後遺症という時限爆弾を抱えているのだ。
それが2世の抱える心の闇でもある。

さて、今回は①を書かせていただこうと思う。

①  幼少期から強制捜査までのオウム真理教所属時代。


 私が育った家庭は、神様事にアレルギーがない家だった。

 
我が家は国民的アニメ「サザエさん」を例にすると分かりやすい家族構成なので、使わせていただいている。
母方の一族は3代続く商家で、家族経営をしていた。
そのため裕福な家であった。
父は母と結婚を期に経営に参加、一族はスープが全く冷めない距離に住居を構え、毎日顔を合わせる。母はサザエ、父はマスオさん、私はタラちゃんであった。母たちきょうだいは、数学年ずつ年が離れていた。
波平は早くに他界し、フネが一家を取り仕切る。カツオはまだ若かったが家業を継ぎ、そしてカルトにハマったのはワカメだった。(以下ワカメと書かせていただく)
 
母方の本家は神職で、彼らを家に招待することもある。商家の最盛期はお手伝いさんや、従業員、下宿する親族など人の出入りが多く、他の宗教に入信している方もいたそうだ。そのため、神事をするのを良しとし、神様にアレルギーがない家だったのだ。
 
それが不幸にも「カルト」を呼び込んでしまった。ワカメがオウム真理教の前身「オウム神仙の会」に入会し、母を勧誘した。

ワカメが入信した詳しい日付を確認することは残念ながら出来ない。相互絶縁しているため、もう会うことはない。(私の方が先に関係を切った)
母が1987年、私が1988年入信なのは確実なので、それ以前となると逆算した。ワカメは初期の入信のため特殊な事もしていたと思う。布施も大量にしていたのだろうが、私は小学校低学年の子供だったため、その辺りは知る由もなかった。
 
母は当初オウムのことを、カルチャースクール程度にしか思っていなかった。特に信じているわけではなく、ワカメの勧誘ノルマのために入ったようなものだ。ワカメがノルマのある会社に勤め、姉さんは点数のため入ってあげたくらいの心持ちだったのだろう。
専業主婦だった母は、「今月お金の融通が出来ないから、来月ね」とワカメに伝えたそうだ。そして、せっかく入会金を払ったのだからとヨガをはじめたのが、最初の一歩であった。
 
その当時マスオの父は浮気をしていた。
サザエさんのような環境でマスオが浮気をすればどうなるか想像していただきたい。

地獄だ。

フネとカツオはマスオの恨み悪口を言い、タラオの私に同意を求める。

私も地獄だ。

母は酒の力を借りなくては眠れなくなり、そこにオウムが入りこんだのだ。
 
――マスオさんが浮気をしたのは、サザエさんの前世のカルマが返ってきただけですよ。
 
幹部のその言葉に母は肩の荷が降り、熱心にオウムに通うことになる。
私はというと、サザエに着いてゆくしか選択肢がなかった。磯野家のような環境で、マスオ側についてゆくのは無理である。
そして、生まれた頃からそばに住み、遊んでいてくれたワカメ一家をオウムに取られ、私は大人たちに隠れて泣いていた。本当に彼ら家族が大好きだったのだ。
 
ワカメ一家は、私の記憶だと1990年の第39回衆議院議員総選挙前に一家で出家をしている。

 出家
[名](スル)世俗の生活を捨て、僧となって仏道を修行すること。また、その人。「俗世を厭い―する」⇔在家 (ざいけ) 。

goo辞書

オウムでは在家信者と出家信者の2パターンが存在する。在家信者は、通常の生活をしながらオウムの信仰をし、出家は本当に全てを捨て、身ひとつでオウムに尽くし生活をする信者だ。

その際、財産などはオウムに布施をする。 ワカメも配偶者も子供も出家信者となったため、会うことはできない。

幼児だったワカメの子は熊本県の阿蘇にある子ども班に送られ、親たちはオウムの施設ないで、無償奉仕をする。配属先はわからない。

 ――私がオウムに行けば、きっとワカメ一家に会える日があるに違ない。

 幼い私は、自分をそう説得していたのを覚えている。ワカメが長期修行に入った時も自分でカレンダーを作り、祈るように毎日日付を数えていた。今となってみると、私は親族への情が人一倍強かったのだ。

最近になりサザエ母の口から
「ワカメ会いたさに道場や長期修行に通っていた」と教えられた。

ああ、この母も私と変わらないではないか。
やはり母娘思考が似ているのだ。そして家が裕福で世間知らずのお嬢さん育ちだった母と私は、それが仇となった。 私がオウムに絡め取られたのは、そんな理由からだった。 

その後、ワカメ一家は出家の過酷さに耐えられず帰ってくるのだが、在家信者として共に行動することになる。ここからが私の本当の地獄であった。

「教祖と学校どっちが大切?」

オウムの道場スタッフからそんな電話がかかってくる。そこを「学校」と答えた日には大変な騒ぎになる。
ワカメ一家からは「えーーー!!!」と驚きの声が上がり、道場スタッフ・幹部からの電話攻撃だ。周囲の大人から責められ、自分が悪いことをしている気分になる。そしてそれを聞いているマスオ父が不機嫌な顔つきになり、父と母の冷戦が勃発。
マスオは食事をひっくり返し家を出てゆくのを間近で見ていた。夫婦喧嘩をしている両親を前に心臓がドキドキしながら物陰から見ているしかできない日々。

ある日親族の食事会があったのだが、一人で夜道を移動し普通を装い宴会に出席した。

「お父さんとお母さんは後からくるよ~」

私はおどけているピエロの仮面をかぶり、笑って隠すのだ。しかし、仮面の下は苦しくて苦しくて仕方なかった。
祖母のフネが感づき、娘のサザエをを叱っているのを見てしまった。

「夜道を子供を一人で来させるなんて!二人ともいい加減にしなさい!」

祖母の声を聞き、もっと上手に隠さねばいけないと私は思ったのを覚えている。
いや、今思うと祖母が気づいていたことに、幼い自分は少し救われていた。しかし祖母はワカメを末っ子で溺愛していたため、オウムの信仰を止めることはしなかった。

私は呼び出された道場で新しいイニシエーション(特別な儀式)がはじまると説明を受ける。

それを受けるにはノルマを達成しなくてはいけないのだが、男性幹部数名にひざ詰めで取り囲まれ「はい、やります」と言うまで逃してもらえなかった。

もちろん母も側にいたが庇ってはくれない。

ノルマを達成するため母の手によってスケジュールが組まれる。学校帰り、土日徹夜の修行がはじまるのだ。そんな生活では学校授業が分からなくなり、成績はみるみる下がってゆく。

――貴女がやりたいと言ったじゃない。

あの状況で答えたのが、私の本当の気持ちだと思うのだろうか?

自分で言うのもなんだが、私は大人の言うこと聞きわける素直な子だった。人前で泣くのは恥ずかしい。駄々をこねる子供を冷たい目で見ているような子供だった。 しかし、そんな私でも小さな反抗はしていた。

「道場に行かない」選択をした日が度々あった。

――貴女のためなのよ!

サザエ母が、怒りながらドアをガチャ閉めして家を出ていく。私は渋々後を追うしかない、行かなったらそれ以上にネチネチ怒られるからだ。

オウムの道場に一歩入れば寝かせてもらえない、自由な時間に食事も、ましてや動物性の物は一切食べさせてもらえない。お風呂や洗面も許されない、服はジャージとオウムで販売されているTシャツ、そして過酷な修行は幹部や出家信者たちに監督させる。 

私の身長では標準体重は50キロ以上だ。
大人でも過酷で根を上がる修行に私は中学生の頃から放り込まれていた。
当時の私の体重は常に30キロ前半だった。自分の服の入った荷物を持ち上げることもできないほど、衰弱していたこともある。
シンデレラ体重など可愛いものだ。

そして修行中免疫力が下がり、水疱瘡を発症したこともあるが、治療を受けることはできず、富士総本部道場の深夜の極寒の中、私は死を意識した。

民家の玄関の明かりをみて、マッチ売りの少女はこういう気持ちだったのだろうかと想像した。

冷気で頬が切れそうだった。高熱と脱水、口の中にまで出来上がった水疱のせいで食事をかみ砕くことも難しい状況に置かれたが、周囲にいた信者たちに助けを求めても、誰も助けてはくれなかった。反対にさらに修行へと追い込む。

――帰りたい、なんでこんな所にいる?!帰りたい、帰りたい。足を止めたい。休みたい。教祖どうか私を引き上げてください。……お父さん、お母さん……。

運良く私は水疱瘡を薬も休養も取らず自分の力だけで治しきった。後日林郁夫氏に診察され水疱瘡だと発覚する。全身の発疹は潰れ治り始めているので、薬を塗るのも手遅れと言われた。

あの時の光景はいまもトラウマで、年末年始に人通りの少ない夜道を歩いていて、フラッシュバックを起こすことがある。

それでも私は宗教を捨てられない。本当は全力で嫌だったのにだ。

道場にいる出家信者は、私と他の同年代の子と比べられ、修行が遅れていると母やワカメ家族を焚き付けるのだ。家にも、磯野家にも逃げ場はない。
唯一の安全地帯は自分の部屋のベッドの中だけだった。
妄想の中だけが自由だったが、教祖や幹部は心を見透かすと言われ、自分に結果が出せないのはそのせいだと、その世界も捨てさせられた。

 その間、マスオ父の姿はと聞かれるが、彼は見てみぬふりだ。

実は私がこんなに頑張ったのは、ある意味父のためであった。信者ではない者でも、子供が高いステージに達せれば、悪趣に生まれる魂も1つ世界が上がると言われていた。

父には子供が私しかいない。父を助けるのは自分だと使命感に燃えていた。しかし父は私を勝手にすればいい言いたいのか、何もしてくれなかった。

1995年初頭、私と母は父を置いてオウムに出家をした。富士総本部で新人研修を受け、それが終わると母と私は別れた。

「今生の貴女のお母さんはここで終わり、バイバーイ!」

母はそう言い残し、まるでスキップを踏むように軽やかに去っていた。私は、母親に捨てられ一人になった。寂しかったが、それをおくびにも出してはいけない。周囲に悟られてもいけない。

まひろちゃんは、情の胸のハートの重い子だと幹部たちに非難されていたからだ。
愛は良いが、情は悪いモノと言われ続けていたからだ。母と縁を切ったと誇って回った。

私は配属先は決まったが、教祖の正式な辞令が降りないと移動できない配属先だったため、富士総本部道場に足止めをされた。奇しくも教祖が雲隠れいている時期で、それはあとから考えると大変運が良かったと分かる。
私は当時、10代半ばの若い女性だったため、教祖のお妾さんを選ぶ部署に配属される予定だったのだ。本当に危ないところだった。あと1年早く出家していたら……。

私は「地下鉄サリン事件」がいつどうやって起きたのかを、リアルタイムでは知らない。ニュース映像や新聞も見ていない。全て録画の映像でしか見たことがない。
それは富士総本部道場にいたためだ。中にはテレビも新聞もラジオもない。外出も許されないため、ほとんどの信者は台風の中心におり、孤立していたのだ。

幹部たちから、「毒ガスはオウムを犯人にする政府の陰謀だ」と教えこまれた、そしてとうとう強制捜査も立ち会うことになる。

ここで、少し重い話が続いたので、脱線しオウムの小話・裏話を披露したい。
これは言いたい言いたいと思っていた。

強制捜査前後オウムの中で大掃除をする。前の掃除はオウムの印象を良くするため綺麗にするのだ。それでも映像にある、あの汚いありさま。
オウムが報道などを入れる前、徹底的に掃除をして綺麗な道場を演出する努力をしているのだ。服装も1番良い物を着る。しかしそれでも内部の異様さは消せない。あれで超一流のおもてなしをしてマスコミを入れていたのだ。報道の写真の数倍汚いし、酷いと思ってほしい。

話を戻そう。

連日オウムへの強制捜査が続く、その中で「児童相談所に子供を連れて行かれた」と知らせが舞い込む。
――なんて酷いことを!

中には私の知っている子供もいた。

――親と真理から突き放すなんて、悪魔の所業でなんて悪いカルマを積むんだ!警察も政府も許せない!

私は憤慨した。
オウムの施設から、捜索願が出ている成人や未成年者を外に避難させるという案が上がった。私はそれに手を挙げた。
それより以前、捜索願が出ている成人や未成年者を車に乗せて数日離れたことがあったが、(私も同乗した)あの逃避行生活は無理があった。それならばと私は考えた。

――私ならワカメ一家など在家信者を沢山知っている。彼らの家に避難させる役を私にさせてほしい。

10代半ばの子供が大人たちに提案をした。
なんとそれは採用されたのだ!
私は自分より年上の大人や未成年を引き連れ、新幹線ではない通常電車を乗り継ぎ、都心へと避難した。その誘導も全て私がこなした。
ワカメ宅に公衆電話から連絡をする。会話には細心の注意をする。

――わたし、わたし!

オレオレ詐欺が出てきた頃じゃなくてよかった。

電話に盗聴が入っている可能性もある(陰謀をちゃんと信じていた)私はいつも使っている彼らの呼称を使うことで、気づいてもらえた。そして避難の段取りをつけてもらえた。
私は、ワカメ宅に数日滞在した後、1度富士総本部道場に戻った。そして2回目の避難を実行する。

幹部より2回目をお願いされたのだ。
私は快諾する。
「警察や児童相談所に取られないため!」

しかし、私がこの時引き受けた理由は、本当はこんな大義でも何でもないかった。
他の取材では上記の大義を答えたかもしれない、その時は嘘をついていなかった。自分の気持ちを隠しすぎて、最近まで忘れていたのだ。

私はワカメの家にまた行きたかった。
行けば米とみそ汁に、味の着いた肉や魚のおかずが食べられ、風呂に毎日入れ、布団でゆっくり眠り、綺麗なトイレで用を足すことができる。
ワカメは私を甘やかして一人の時間と空間もくれた。そのすべてが魅力的だった。

食事や睡眠を普通に取りたい人間の欲求に私は勝てなかったのだ。

追い詰められた人間の欲求など、そんなものだ。 
私は富士総本部登場を見たのはそれが最後になった。 

私はオウムの教義に洗脳されていたが、自分の欲望や望み、恐怖といつも隣り合わせで戦っていた。肉体的精神的にも辛い時期でもあった。
これが①の時期の私である。

――辛かったことは何ですか?

そう聞かれて悩み、1つを選べない理由を分かってもらえただろうか?

オウム真理教に在籍していた頃は、生きている全てが辛かった。10代前半の子供がこの生の終わりを望んでいる生活だった。

次回の記事は
②出家から帰ってきて後、完全脱退までの期間。(1995-2000)
を書かせていただこうと思います。

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