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ガチャを引いたらカルト出た③オウムの2世で辛かったことは?その3

私は何人もいる。
職場や友人に見せる社交的な私。
こことは別のペンネームで創作活動している私。
そして、宗教2世の私。

全部一つで語れたら最強なのにと最近思っている。
そんな日が来るのだろうか?
来てほしいが、誰もが好意的に迎えてくれることはないだろう。

※「オウムの2世で辛かったことは?その1「オウムの2世で辛かったことは?その2」の続きです。お読みでない方は、この2つをお読みください。


③成人後人生回復のための期間から現在まで。(2000~)


◆20代前半 ~アルバイト時代・学び直し~

20歳を過ぎたころ、私は単発のイベントコンパニオンのアルバイトをしていた。オウムからアレフに変わる頃、私はその2で書いたように、教団に出入りするのをやめ、フェードアウトした。
脱会届など出したら何が起きるか分からないので、自然消滅しかなかった。
そして私の手元にはアルバイトだけが残った。

当時2000年初頭は「パソコンを使える女性」というポジションに需要があり、コンパニオンとしては身長など外見基準が届かない私でも、次々仕事が舞い込んできた。

私はこのコンパニオン登録会社のマネージャーに気に入られ、とあるイベント会社のアルバイトをはじめることになる。はじめはパソコン入力程度の事務バイトだったが、ここでも気に入られ、フルタイム雇用となった。

事務、経理、イベントではアシスタント、事務局対応、社長についてクライアント回り、様々なことをオールラウンドにやらせてもらえた。20歳を超えた程度の小娘にだ。
イベント期間は、スーツ姿で脚立、ガムテープ、一眼カメラを担ぎ走り回る。そして人手が足りなければ何食わぬ顔で舞台にも立つ。弁当を5分でかっ込み、イベント中はほぼ徹夜。30分の仮眠で次の現場に走ってゆく。北は北海道から南は四国まで社長に付随してゆく。飲み会や接待もあり、歌舞伎町や新宿2丁目もお供した。実にバラエティに富んだ体験だった。いまならブラック判定の職場で、正直体力的にも諸々きつかったが、次は何が起きるか、自分の腕を試せるとあり楽しくもあった。そして誰も私の過去を聞いてはこない。ただの母子家庭の子だと思ってくれた。

出張中の車内で10歳以上年上の先輩と2人になる機会があり、将来のやりたいことを聞かれたんだと思う、記憶は朧げだ。
私は学校に行きたかったと泣いた。
磯野家は裕福なのに、私の学費を誰も助けてくれない、だから働くんだと。

――泣かせるつもりはなかったの。

と優しい言葉をかけてくれた先輩には今でも感謝している。
彼女の社会人としての教育のおかげで最初の基礎が出来たし、様々な場面でお祝いをしてくれた。

そして気づいた。

――ああ、私は学校に行きたかったのか。

今更気づいたのか、それとも封印していたのか?

私はまず高校中退の学歴をなんとかしないと前に進めない。高校に行き直す自信はない、ならば「大学検定試験」を取ることにした。
聞いたことがある程度の知識だったため、ネットを使いいろいろ調べはじめる。(パソコンが使えてよかった)
当時は1年に1回しか試験がなく、この時点で本年度の申し込み締め切りまで、ひと月程度しか猶予がなかった。

――自信のある科目だけ受けてみよう。

事務局に問い合わせをした理由はよく覚えていない。
おそらく全科目以外を受ける方法を知りたかったのだろうか。
大検の本に載っていた事務局の連絡先が電話番号しかなく、留守電を入れたのか、担当の男性が折り返し電話をくれた。この辺りはよく覚えていない。

――試しに全科目受けちゃいなさいよ。受かっちゃうかもよ。

私はその言葉に、コロッとその気になっていた。
その事務局の男性にも感謝している。私の背中を押してくれたのだ。

それから大急ぎで辞めた高校2つに連絡し、ダメ元で単位がつくものはないか問い合わせをかける。なんと単位認められるものがあり、全科目の2/3をパスすれば大学検定を通過できることが分かった。大急ぎで書類を用意する。
そこから私は大検数年分の過去問の参考書、各科目の参考書を買い漁り、山が3つもできるほど積み上げて勉強した。もちろんイベント会社の仕事がある。上記に書いたように忙しい時期は平日勉強など無理だ。

土日と平日帰ってから。トイレに行くのにも参考書を握りしめて勉強した。絶対間に合うと信じて。5月下旬から勉強を始めて、8月頭が試験。丸二ヶ月の勝負。7〜8教科ぐらいあっただろうか。得意科目が多く、数学の単位が認められていて、当時の大検の英語が選択制だったのが助かった。

大検試験期間中、前記事で書いた警察から助けてくれた警察が酔っ払って我が家にやってきた。(以下N氏と書く)

N氏はあの出会いがきっかけで、母と2人で飲みに行ったり、酔い潰れてうちを宿泊所がわりにしていた。私も未成年の頃から飲み屋やスナックに連れ回される。
試験中で予習をして万全の体制で挑みたいのに……。

――何で今日なの!断ってよ!

そんな怒りを母にぶつけたが、

――仕方ないでしょ。酔っ払って来ちゃったのだから、近所迷惑になる。

そう言って家にあげて、そこで飲み始め酔い潰れ泊まってゆく。

――明日試験なの。
――なら勉強見てやるよ。

N氏は酔ってて勉強を見るところじゃない。そもそも今の段階で勉強をみるとかじゃない。1年に1回しかない試験、私の人生立て直しの邪魔をしているなど思いもしていないのだろう。
この頃は、彼に身元を守られていると信じ、来訪を笑って迎え我慢していた。警察でかなり上のポジションに登りつめたため、それだけの力があると私たち母娘は信じていた。

この酔っ払いも相当だが、母も母である。なんで酔っ払いを家にあげるのだろう。私が必死に勉強をしていた姿を見ていたはずだ。部屋の参考書の量も……。
この人は娘の将来よりこの男を取るのか?!いまでも、母を恨んでしまう部分だ。その晩は布団の中で必死に涙を飲み込んで、自分の2ヶ月を信じて試験会場に急いだ。

この警察とはこのような関係が切れ切れだが、私が30歳まで続いた。
「オウム」と「警察」という複雑な2つが絡むため、誰にも言えず悔しさに蓋をしていた。親切にしてくれていたから、彼は良い人と思い込んでいた。オウムの件が無かったらこんな人に付き纏われずな済んだはずだ。

大学検定試験は、上記のような妨害やちょっとしたトラブルもあったが、一発合格した。

自分で自分を静かに祝った。誰かに大々的に伝えることもできない。周囲に高校中退したことを黙っていたからだ。中退した理由を言えるわけがない。親友にも最近まで黙っていた。
さてこの先はどうしようか。お金がない。先立つモノが。

大学受験したくても今の学力では入れるところがあるだろうか?塾に行くお金も時間も無い。入学金と授業料……。
母からは「生活費は何とかするが学費は自分で」と言われていた。母はマルチやネズミ講に騙され、我が家は借金が出来上がっていたのだ。もちろん父や磯野家は頼れない。祖母からの支援もこの頃には無くなっていた。

お金お金お金。金をくれ!
また、お金でつまずいて先に進めなかった。

――同情するなら金をくれ!

と叫んだところでオウム元信者は同情もされないだろう。自業自得。自己責任。
この頃の私は、世間と周囲の冷たさに途方に暮れ、街中ですれ違う学生に嫉妬をしていた。
何で私は日本で生きているのにあちら側に行けないのだろう?!超えられない壁がある閉塞感。
世界が狭く感じ息苦しかった。

そんな悩む日々。仕事に行く途中、電車の吊り革広告で「通信制の短大・大学」の広告を見つけたのだ。

――これだ!

すぐにインターネットで調べると、私の現在の貯金で初年度の学費が払えることが分かった。2年目の額も作れなくない。

いまも通信制といえば出てくる「産能短期大学」ここには大変お世話になった。心から母校と言える学校だ。

今現在、ネットで調べると2年間の学費は44万円だ。私の時は半期ずつなど、分割で支払えた。そして学生ローンもある。
学費で学校に困っている方、社会人の方にも優しい仕組みだ。
当時は必須のスクーリングがあったため、交通費やその日の食費などちょこちょこお金が必要になるが、仕事をしながら十分に通える。いまはオンラインなども充実しているのではないだろうか。もし同じ理由で困っている方は覗いてみてはどうだろう。

――短大に行くの!

久しぶりに中学時代の友人たちに再会し、話したことがある。

――えー、今頃短大にいくの?!

やっと掴んだ短大入学も、そう笑われ馬鹿にされた。なんでそんな言葉が飛び出るのだろうか?
私はそれ以上周囲に何も言えなくなった。
もう誰にも言うまい。
黙って学業に専念することにした。

この頃、イベント会社は業績が怪しくなり、辞めた。短大入学も許してくれ仕事と学業を両立できると思ったのだか……。
他の従業員も辞めていって私が最後の一人であった。その後廃業したと聞いた、お世話になったが残念だ。
失業保険をもらい、その後学業に支障が出ない程度のアルバイトに切り替えた。
この期間は、家にこもって勉強ばかりしていた。ネットで外の世界と繋がれる環境だったため、寂しくは無かったとは言えないが、孤独を耐えられた。
私は短大と放送大学の単位を合わせて2年を迎える前に単位を取り終わり、無事卒業することができた。
卒業の日、祖母に袴と着物のレンタル費用を出してもらい、母と写真を撮った。
式の後、祖母にその姿を見せに行った。その席にカツオもおり、私は初めて面と向かって頼んだ。

――ここまで頑張りました。まだ少し勉強がしたいから、学費を出してください。

カツオが学費を出してくれることになり、専門学校に2年通うことにした。専門学校は昼部ではなく、夜部にした。
昼間はアルバイトをして、学業に必要な活動費やパソコンなどを買う資金がいる。遊ぶお金も欲しい。全てカツオに迷惑をかけるわけにはいかない、これは私のプライドだった。

朝から晩までバイトに入り、そのまま学校へ行き、帰宅後に夕飯を取り課題を深夜まで取り組んで寝る。バイト先は学校のある繁華街を選んだ。
交通費が欲しかったからだ。夏休みや年末年始などは人手不足でシフトがぎゅうぎゅう。そんな生活が2年。
2年時の後半、体を壊しかけメンタルがやられた。完全に過労だろう。
高校を辞めた直後の追い詰められた精神状態を10とすれば、この頃は6程度と自己評価する。オウムに戻るというい選択肢は出てこなかった。
この時期はじめて心療内科の門を叩いて宗教のことを相談をしたが、無意味に終わる。
話しに相槌をうたれ、薬を出されて終わりだった。


それでも這い上がってみせる、絶対成功して周囲を見返すと私を踏ん張った。当時の私の原動力は怒りとプライドだ。例えるならば、心にドラゴンボールのベジータがいた。
クソッタレーー!!!と心の中で叫んでいた。

◆ 20代半ば ~就職~

卒業が見えてきて就職を探そうとしたが、氷河期世代生まれには簡単に正社員の雇用は見つからない。
就職氷河期世代、女性、宗教2世。もう20代後半。
足を引っ張る要素てんこ盛り。

給料の金額もアルバイト並み。求人に大人数が面接に来る。
専門学校では良い成績を取るようにしていたが、世の流れには太刀打ちできず、就活に難航していた。

ここでその2で書いた覚えておいてほしいと言った、「我が家の住所が載ったアドレス帳を警察に押収されて元信者」が登場する。
彼がとある会社に勤めており、役職者になっていたのだ。
なんと、そこの会社が求人募集をしているというのだ。その条件が奇跡的にも私にぴったりだった。
彼の紹介というのもあり、ダメ元で受けた試験もパスし、私は正社員として働きはじめることができたのだ。

――こいつ根性あるから、ガンガン使って。
と元信者は私を紹介した。
その通りガンガン使われた。長時間労働、パワハラ、おまけに未経験。

――岩の上にも3年と言うだろう。3年頑張ってみろよ。

未経験の分野で勉強が必要だったため、どんなに馬鹿にされても、怒鳴られても齧りついて粘った。

――オウムに比べれば楽だ。

徐々に仕事を覚えてゆき、手に職がついていた。
そして、それなりの貯金ができていた。
もうお金に困らない。好きな物が買えるし、ボロアパートを卒業できた。
お金様様だ!

◆ワカメ襲来

その頃、順調に社会に溶け込んでいた私にワカメがたま仕掛けてくる。

――まだオウムなんて信じているの?

祖母の家に来ていたワカメの配偶者から、そんなことを言われた。
当時の私はオウムはやめても、教義に縛られて抜け出すために足掻いていた。どうしてもグル(麻原)や教義を裏切れない部分がある。これがマインドコントロールの恐ろしさである。教団を辞めても、長く教え込まれた教えからすぐには解放されない。

――いろいろアドバイスしてあげる。慈善事業やボランティアなど社会人になったら社会のために働くべきよ。先祖や神様がオウムから守ってもらえたのだから、今後は奉仕をしなくちゃ。

とワカメ一家が次々進めてきた。それも一理あるなと、結果オウムから守ってくれたんだから、ちゃんとした宗教をやるべきだな、ボランティアをして世間に迷惑をかけた分、返さなければと思うようになった。そんな中、母がワカメ家族に陥落していた。

――あなたが大変な状態だから、ワカメたちの話しを聞いて!私、まひろがどうにかなると思うと心配なの!

――え?私はなんともないよ。

説明しても母はオロオロして人の話しを聞かず、恐怖に震えていた。
ワカメは、母と私にスピリチュアル的な事を指導しはじめてきた。
オウムを抜け出したかったため、そしてワカメ一家が好きだったので、私は短い時期だが彼らの手を掴んでしまった。

私はワカメ一家が進める宗教に次々に見学、仕事の隙間を縫うようにボランティアに出かけに行っていた。それは私の中のオウムを消す正しい道だと信じてだ。
上記で書いたように長時間労働の忙しい会社だったので、また寝る時間や自分の体力を削りまくる生活になり、もうこんな辛い人生ずっと続くのだろうか、もういっそ早く死んでしまいたいと思ってしまうところまで追い詰められた。今度はワカメとその配偶者にだ。

上記に『高校を辞めた直後の追い詰められた精神状態を10とすれば、この頃は6程度と自己評価する』と書いたが、ここで受けた精神的損害は「9」だ。

彼らと共に行動した期間の記憶から消してしまいたい。
私は彼らにマインドコントロールを受けてしまった。いやマニュピレーターの方がいいかもしれない。怒鳴り散らし、恐怖を植えつけ、「貴女だから言うのよ特別」と言い食事やお泊り会などに誘われる。鞭の後に飴を与えられていた。
しかし彼らの言うことに矛盾が生じてきて、彼らの要求に着いてゆけなくなり、私は20代最後のころ、ワカメ達と断絶を決めた。

新年などフネの家で新年会があったが、ワカメ一家が来ると分かると私は新年から泣き狂う。彼らが怖かったし、憎かった。サザエの母はまだきょうだいのワカメが好きなため、私を新年会に誘う。一向に私の苦しみを理解してくれない。

そしてワカメが共通の知り合いからの高額な借金を、自分への布施だと言い出し、金銭を返却しない事件を起こしたいた。自分で宗教のような集団と場をつくり、やりたい放題をはじめた。オウムの時と同じだ。母もワカメと付き合うのは無理だと気づく。

私はこの時期をまだ分析しきれていない。記憶から消したいと思うほどワカメ一家を恨んでいる。
カルトにハマった人は再び似たものに絡め取られる例があるそうだ。
自分は大丈夫と思わず、皆さんも十分注意してもらいたい。

◆祝 ワカメと断絶!マンション購入

私はワカメたちと断絶した後、30歳でマンションを購入した。
当時前記のワカメの件などで遊んでいる暇はなく、貯金が趣味となっていた。
職場は長時間労働だったが、きちんと残業代をつけてくれていた。気づけば駆け出しの私でも、数百万の貯金ができ、マンションの頭金が作れた。
35年ローン、女性単体だったが査定もすんなり通った。そしてカツオが諸経費と引越代・新しい家電をフネからの生前贈与という形で支援してくれた。

このマンション購入を期に、周囲が突然私も認めはじめる。
今まで、一族の恥と言っていた親族が手のひらを返す瞬間を見てしまった。

――いい会社にお勤めなのね。凄いわね。

そういった賛美が送られる。
まともになったから付き合い始めようとしたのかもしれないが、あそこまでぶっ叩いた同じ口が言う。それまで「絶対私を馬鹿にしてきた人たちを見返してやる、成功してやるんだ」と走ってきたが、その態度の変化に私は心が白けた。

――私が欲しかった「見返す」ってこんなこと?

むなしかった。しかしあの怒りの原動力がなかったら、いまの私はいないだろう。だからあの怒りも私にとって必要なものだったのだ。否定はしない。

万が一私が死んでも、保険でローン残金が支払われ、マンションが母の手元に残る、これで母の老後は守れるだろう。ローンの目途と老後の資産運用計画もぼんやり決まった。私はやっと普通の生活を取り戻せた。

しかし、この後私は過労で倒れてしまう。
これまでの人生、無茶な生活をしてきたのが体に出てしまったのだ。
心も元々傷を抱えたままなのだから……。
30歳という節目、最後のとどめは、長時間労働と上司のパワハラだった。
去年まで正常だった血液検査の全項目が、異常数値になっていた。
「要精密検査」。
体が折れて、心も折れてしまった。
3か月ほどベッドの上から動けなった。

当時、職場からは復帰は難しいと思われていた。
しかし、ご覧のように私には自分しか頼れる人はいない。マンションを購入したばかりで、貯金がほぼない生活だった。
この頃、母も仕事を引退していたので、収入源は私一人だった。過労で倒れても母以外私を心配してくれる人はいない。
母がカツオに仕事の相談したが、断られたそうだ。
運良く治療が上手くゆき、私は職場復帰をすることができた。
また体重が30キロ前半、服のサイズが3号にまでやせ細ってしまったが、そこからは自分の体と相談しながら無理をするのをやめた。
こう言うと寂しい人だと思われるかもしれなが、「頼れるのは己のみ」なのである。宙船の歌詞にある「おまえのオールをまかせるな」が私は好きだ。

まとめ

これが、宗教2世として過ごした私の人生です。
「辛かったこと」と言って簡単に語れないのを分かっていただけただろうか。
いまの私は、生活に困っていない。
被害を受けた2世がいまも悲惨な状態にいるわけでないのです。

そして私は、この1年、宗教2世の自分を真っ向から向き合った。
何度も泣き、フラッシュバックを起こし、消えてしまいたいと思ったか分からない。
いまでも母を心のどこかで恨んでいる。父を恨んでいる。まだ守ってもらわねばいけない年齢の時に、守ってほしかった。

そして、周囲に望むのは、私が人生を立て直した過去と現在を、志文まひろという人間を見て欲しい。全てをひっくるめて私なのだ。

語らない期間を湾曲させて話す自分が辛いのだ。語れない=無かった又はサボっていたと取られる。私にだってプライドがある!細い道を落ちず、歯を食いしばって渡りきった輝かしい勲章だ。私はカルトにいた自分の過去は消してしまいたいと思うが、回復のための努力は誇れるものだ。自己責任を自己責任としてやりきった。

しかし、誰もがこの茨の道を選択できないのも、痛いほどわかっている。

――私に出来たからあなたにもできるよ。

自死した友人に言ってしまったその言葉。心のどこかで思っても、もう誰かに同じことは絶対口にはしないと誓っている。
弱者に優しい世界が少しでも広まることを願ってやまない。

最近、「宗教2世」という言葉は実に不自由だと思うのです。
宗教は信仰していなくても家族が宗教にはまり、辛い子供時代を過ごした方々もいるを知った。
彼らも宗教2世のカテゴリされるはずなのだ。宗教に苦しめられた子供時代がある人たちを表現できる言葉があればいいのに。

ただ言えるのは、「宗教から離れた私たちを、宗教から解放してほしい」

私はまずは自分の救いのため、そして誰かが参考になればと、自分の経験をこれからも書き続けます。

連載3遍、最後までありがとうございました。

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