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風の吹くまま、気の向くままに 3           (伊藤左千夫『野菊の墓』から)

歌人でもあり小説家でもある伊藤左千夫の処女作『野菊の墓』を読んだことがあります。この小説は、十五歳の少年、斎藤政夫と十七歳の従姉、戸村民子の幼い二人の淡く悲しい、そして美しい恋物語ですが、大人たちの無理解により悲恋に終わります。

作者の伊藤左千夫は、1864年(元治元)の生まれで、1913年(大正2)49歳
で亡くなりました。私たちが生まれてもいない、はるかな昔の物語です。それでも時代を超えて胸に迫ってくるものがあります。それはなぜでしょうか。

その時代の価値観があります。当時は、とにかく妻が年上の夫婦はよくないというのです。そのため二人は、大人たちにより引き離されてしまいます。
ある時、二人は野辺に出て、田んぼの道端で野菊を見つけ、政夫が採ります。束の半分を民子にあげ、「民さんは野菊のようだ」と政夫は言います。「政夫さんは、野菊が好きなの」と問う民子に「大好き」と答える政男です。

その後、今度は民子が、政夫が採ったりんどうの花を手にして「りんどうが好き、政夫さんはりんどうのようだ」と返します。とにかく可哀そうな話で、読んでるうちに涙が出てきてなりませんでした。結婚相手は親が決め、男女の交際がままならぬ時代の話です。

それだけに、男女間の恋心は、純真に燃え上がったのでしょうが、それは、真情であるがゆえに、時代を超えて胸に迫るものだと思います。ただし今の時代では、もはや望んでも得ることのできない幻の感情のような気がしてなりません。

時代が変わりました。昭和の敗戦を経て、価値観が大きく変わりました。自由過ぎて、恋を思い詰めて、昇華することがなくなったような気がします。時代にかかわらず価値が認められることが本物だと思いますが、無垢で純粋な恋物語は本物だと思いました。

敗戦後は、日本的なものが否定され、文学的には、価値の先取りというか、こぞって旧弊を打破しての新しい人の在り方を求めた気がします。打破されつくした現在は、文学は何を求めていくのでしょうか。打破するものがないのですから、本物の日本の価値を求めてほしいなと夢見ているところです。

これまでの日本の価値は、人にとって良いものは残し、その上に積もった外来の文化も良いものは取り込み、本当に新しい日本の文化を創出するのが文物の役割かなと生意気にも思ったりしているところです。

参考文献:伊藤左千夫著『野菊の墓』偕成社1982年


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