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姉と姉

私には二人の姉がいる。
1番上の姉は8歳年上、2番目の姉は7歳年上だ。

1番上の姉は第一子ということで両親の期待を一身に背負ってきた。
ピアノと英語と料理が得意でテニスと運転も上手い。
社交的で友人もたくさんいる。
幼い時は姉にたくさん叱られた。
母より姉の方が厳しかった。
豚肉が苦手で残そうとする私に姉は容赦しなかった。
泣き続ければ食べずに済むだろうと思ったが、テーブルの上にはいつまでも豚肉だけ入った器が残され、私は結局固く冷たくなった豚肉を食べた。
好き嫌いなく何でも食べられるようになったのはスパルタの姉のお陰だ。
姉に叱られては大泣きし、長泣きの記録も更新していった。
しかしそんな生活もピタリと止まってしまった。

姉は自宅から遠く離れた大学に進学し、18歳で家を出た。
寂しかった。大切な家族のかけがえのない重要ピースがいなくなってしまった。そんな感じだった。
しかし姉はアルバイトで貯めたお金で誕生日に必ずプレゼントを送ってくれた。
印象に残っているのは夏目漱石の代表作が収集された大きな分厚い本だ。
当時の文庫本サイズの文字で広い紙面を埋めつくされているため、その文字数に圧倒されあまり読めてはいない。
それでも姉が伝えたかったことは私に充分伝わったと思う。
読書は一気に異なる世界に連れて行ってくれる。登場人物の内側深くに入り込むことで、人の心情が事細かにわかる。
漫画ばかり好んで読んでいた私にそれらのことと漱石の美しい知的な日本語を知ってほしいと思っていたのだと思う。
帰国後は夏目漱石の未読の作品をゆっくり読みたい。

私が中学3年生になる年に、姉は大学を卒業して実家に戻ってきた。
中学校の教師になった姉は、長期の休みによく私の受験勉強のジャマをした。
これは本人も公の場で認めている。
その頃の姉と私はトランプゲームの「ドボン」にどハマりしていた。いかに早く四則演算ができるかが勝敗の鍵となるため、過去公文式算数で暗算力を鍛えていた私は姉にとって不足ない対戦相手だったのだ。
受験生にとって大切な夏休みは、ほぼドボンで終わった。
正月元旦、目が覚めて食卓を見ると20袋くらいのポチ袋が並んでいた。しかも全部の袋にお札のような物が入っていて、一つずつ開けると当時の姉が生み出した私のキャラクターであるコミカルな犬の絵が描いてあり、スキーをする犬、食べる犬、歌う犬、、、いろいろなことをしている犬の絵とともに「残念」とか「ハズレ」などという言葉がそれぞれに書かれていた。
もちろんお年玉が入っている袋は一つきちんとあった。
その時は笑ったり、少し怒ったふりをして姉のユニークな仕掛けに反応したが、
「どれだけ妹が好きなんだよ」と正月から泣きたくなった。

姉が遠くの大学に行く時、姉が留学する時、姉が結婚して家を出た時、いつも悲しかった。
姉と離れる瞬間は耐えられない気持ちになった。
しかし姉は離れていても長女としてなのか、家族のつながりをとても大切にしてくれた。

姉は就職して2年後に結婚したが、その後もホームパーティーやバーベキュー、テニスやスキーにその都度必ず妹二人と私の彼(夫)を誘ってくれた。
私の結婚式では楽しいスピーチをして会場を笑わせてくれて、義理の兄と二人で私たち夫婦にアメリカへの新婚旅行をプレゼントしてくれた。
あまりにもすごいプレゼントに私と夫は驚いた。この時の気持ちを表す言葉は今でも見つからない。感謝という言葉ではとても足りない。

2番目の姉は私にとって姉というよりも親友のような存在だ。
2番目の姉は1番上の姉と就職した年が同じだったため、1番上の姉が実家に戻った時、2番目の姉は看護師として病院の寮に入るため実家を出た。
姉の寮は電車に乗って気軽にたずねて行ける距離だったため、たまに泊まりに行くことができた。

姉とは笑いのツボが似ていて、面白いと思ったことは繰り返しやっては二人でゲラゲラ笑っていた。
私の親友たちとも姉はすぐに仲良くなり、人気者になった。
姉は私のことをよくふざけて「ねえちゃん」と呼んでいた。
外でもこの呼び方をしていたので、しょっ中私の方が姉なのかと間違えられた。
妹を「ねえちゃん」と呼ぶ人は日本に何人いるのだろうか。
じつにおもしろい人だ。

手先が器用で歌が上手な姉は、よく歌いながら私の髪の毛を編んでくれた。
私はその時間がとても好きだった。
お給料が入るとかわいい洋服を買ってくれることもあった。
私が車の免許を取った後はよく二人でドライブもした。

その後、姉も私が通った自動車教習所に通い始めた。
教習が終わった姉をよく迎えに行ったが、姉はよく泣いていた。
教官にブレーキを踏まれてハンコがもらえなかった後に受付のとても優しい女性に「大丈夫ですか?」と聞かれて泣いてしまったと。
姉は教習所の卒業試験の時、おばあさんが出てきてブレーキを踏もうとした瞬間に教官にブレーキを踏まれてしまい不合格になった苦い経験がある。
その時は受付の女性の優しい顔を見た瞬間に号泣したらしい。
この姉が何時間で教習所を卒業するのか、そして何回で本試験を合格するのかをみんなで当てる「勝車」という新聞を1番上の姉が作成した。
これは競馬新聞「勝馬」のパロディーだ。
冗談が大好きな1番上の姉はこういうことをするのが得意だ。
結局誰も当てることができなかったと記憶している。

2番目の姉は子どものように感情がストレートだ。
悲しければ泣くし、キレると大変だ。
おもしろいことが大好きで、ツボにハマると泣きそうなくらい笑う。
そしてとても優しい。

結婚後、私が不妊治療で悩んでいる時、姉は私を京都に連れて行ってくれた。
清水寺をお参りし、鴨川を歩き、嵯峨野で豆腐料理を食べた。
素敵な陶芸家との出会いがあり、彼の作品に二人とも癒された。
帰りの新幹線に乗る前に寄ったファーストフード店に、私はお財布を入れたミニリュックを忘れてきてしまった。ホームに行く前に背中が軽いことに気がついた。すぐにお店に戻った。
ミニリュックはその場にあった。
私は泣きそうになりながら「あった!よかつた!」と言った。その瞬間、周りにいた方々から「よかったね」「よかったな」との声があふれた。
京都の最後にこんな最高な思いになれるとはなんて幸せな旅だろう。
姉と過ごした京都の美しい時間は私の宝物だ。

二人の姉は私が悩んだ時、必ず相談にのってくれた。
今でもそうだ。
姉たちから受けた恩が大きすぎて、どう返していっていいのやら。
でもその恩返しをこれからの楽しみの一つにして生きていきたい。



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