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それでも日常は続く

職場の近くにあるラーメン屋が閉店していました。
結構おいしくてまた行こうと思っていたら、いつのまにかシャッターが下りていて、気づいたのはひと月ほど経ってからでした。

そんな些細なことから、ひそやかに応援していた人が突然命を絶ったり、大きなことから小さなことまでいろんなことがありましたが、私自身は大きく変わらないいつもの日常を生きています。
思い返せば自分の世界が反転してしまうほどの劇的な出来事というものに今まで私は遭遇してこなかった人生です。

昨今の様々な出来事により、その生活が大きく変わってしまった方も多くいるという中で私がこのように変わらずの日常を生きられているのは実はかなり幸せなことなのかもしれません。
明日は我が身、とはなかなか想像できないのが私です。
中身は意外と能天気です。

嫌なことやイライラすること、悲しいことなどはあります。
仕事で失敗した、他店に売り負けた、お客さんに迷惑をかけてしまった、とか。
他人を僻んだり、非凡の天才と自分を比べ劣等感に苛まれたり、良くも知らない赤の他人に心を乱されたり。

逆に嬉しいこともあります。
朝ごはんの目玉焼きがうまく焼けたり、朝の通勤で信号に引っかからなかったり、お客さんに喜んでもらえたり、頑張ってよかったと思える瞬間に立ち会ったり。
一仕事終えた後のビールがおいしかったり、好きな人の笑った顔が見られたり、とか。

明日はなんだか仕事に行きたくないなぁなんて思う日もあります。
それでも寝て覚めればYシャツを羽織って電車に揺られ職場に着いて、掃除をして店を開ける。
やる気が出ずだらだらとしても、スイッチが入ってテキパキ仕事をしても時計の針が進むスピードは変わらず決まった時間に店を閉めて家路につく。

私を取り巻く環境は時に小さく、時に大きくその姿を変えるけれど時間が進むスピードは変わらず、ぼーっとしてても焦っても同じように時間は進み、寝て覚めれば明日が来て、そうして一週間、一か月、一年と時間は進むわけで。

残酷なことに時間は待ってはくれません。
悲しみに暮れている時も、楽しくて有頂天になっている時も、等しく各々が持つ時間の流れは変わらず、刻一刻と終わりに向かいます。

でも、だからってここで私が「一日一日を無駄に過ごさないようにしよう!」とは言いません、それが良いとも思えません。
だらだらする日も大事、頑張る日も大事。
何も手に付かなくてただただ死んだように眠る日も大事、へとへとになるまで何かに一心不乱にわき目も降らずに立ち向かう時間も大切。
綺麗ごとの様に聴こえますが、どんな時間も無駄ではなくて。
悲しみに暮れた時間は、怒りに震えた時間は、喜びに心を躍らせた時間は、楽しく過ごした夢のような時間は、全部無駄ではなくて。

総じて何が言いたいのかというと、どう過ごしても日常は進んでいくということ。
どんな過ごし方、どんな生き方をしても積み重ねていく日々に足し算も引き算も掛け算も割り算も存在せず、ただただ一日一日が積み重なっていつか迎える終わりに向かっているということ。
だから明けない夜は無いし、今はとても暗くて暗くて明日も見えないように思えるかもしれないけれど絶対に日は昇ってきてあなたを照らすということ。

そこで明日を迎えない選択をするのも一つ、歯を食いしばって朝日を浴びる選択をするのも一つ。
そこに正解も不正解も無くて、間違っていたとかそういう概念は無くて。
例えばあの時出会っていなければこんな悲しみを味わうことはなかったと今は思うかもしれないけれど、その時に出会わなかったらこれまで感じた心の震えるやときめきや、そういった今のあなたを作り上げるものに出会えなかった。

続く日常という足かせは私の体を地面に縛り付け、風の日も雨の日も雪の日も、焼き付けるようなカンカン照りの夏の日も、凍えてしまいそうな冬の日も、私を逃そうとしない。
でも、春の柔らかい風に揺れる桜を、色とりどりに染まる秋の木々を、目が覚めるような美しい光景を、余すことなくこの目に焼き付けることができるのはまた、この”足かせ”のおかげなのかもしれないとしたら。
案外憎めないやつです。

それでも日常は続く、ならば少しでも夢を見よう、おいしいものを食べよう、人に優しくしよう、大きなマイナスが待ち受けていても小さなプラスを積み重ねよう、そうして重ねた日常をいつか振り返ったときに、いろんなことがあったけどまぁ悪いもんじゃなかったかなと思えたなら。
きっと今日、明日と立ち上がって生きた私は報われるのかぁ…なんて考えながらこの頃生きている28歳の私です。

以上、ふぁむでした。


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