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故愛犬の皮膚型リンパ腫闘病に関するメモ1 ―ガン(リンパ腫)発覚までの流れ

(※リアルタイムでつけていたメモを2018年ごろに整理した下書きを少し公開してみます。治療効果を保証するものではなく、あくまで、一頭とその家族の闘病の記録としてご覧ください。)

★週一治療は最初の2か月半ほど 以降については別のメモです
★肝臓のサプリは肝機能に関する値が高くなり使用していました
★かかりつけの病院は腫瘍の治療に力を入れているが、ユキと同じ型のリンパ腫にかかるのは1、2年に1例程度とのことでした

ガン(リンパ腫)発覚までの流れ

不安の9週間、覚悟の2年間

 初めは、口元の赤みだった。2015年8月8日。動物病院にて、赤み部分の細胞を診てもらう。好中球による炎症とのことで飲み薬が処方された。1週間後、再度受診。好中球は減少しており、代わりにマラセチア菌が出現しているとのこと。マラセチアは常在菌だがふとしたことでバランスが崩れて皮膚炎を起こすことがある。ユキにも経験があった。聞き慣れた名に少しほっとすると同時に、ほんとうにそれだけなのか、どこか不安だった。飲み薬が増え、口元の赤みをマラセチア専用のシャンプーで週2回部分洗いすることになった。
 更に1週間後。マラセチアは減少しているとのことだが治療は続行。また、8日の時点から口元とともに赤みの出ていた脇について、これまで菌はいないとのことだが赤みが引かず、塗り薬が処方される。1週間後、赤みは残っているが、経過良好により口元、脇ともに治療終了。口元洗いは続けた。
 1週間後。左耳をかゆがり、赤みが生じている。皮が少し剥ける。ユキは元々アレルギー体質で皮膚の炎症も起こしやすいので、たびたび病院にかかっていた。このときもすぐ診てもらう。左耳にマラセチアが増えているがただれてはいないとのこと。点耳薬が処方される。1週間後、受診。両耳ともに状態良好。口元の赤みも続いていたので診てもらったが、菌はおらず、口元の部分洗いは頻度を下げていいとのこと。
 口元の赤みが引かないまま、10日が経過。ユキの首元にしこりがあることに気づく。母の友人宅で以前愛犬のガン闘病を長らくしており、そのとき首元のしこりがきっかけで発覚したという話を聞いていた。もしかして、という強い不安に駆られ、ただちに受診する。左側のリンパ節付近が腫れているとのこと。口元の腫れとともに細胞診(この場合針を刺して細胞を採取し、観察し診断する)をしてもらうことになった。しこりの有無は大きな指標になる。どうか、どうぶつさんとたくさんスキンシップをとって、まめに全身をチェックしてあげてほしい。
 翌日は、雨の日だった。雨の際にはたいてい散歩に出かける、高速道路の高架下の、大きな公園。不安なまま散歩を終えた。そこの駐車場で、動物病院から電話が掛かってきた。腫れからリンパ球の存在が確認され、それが慢性の炎症によるものなのか、リンパ腫、すなわちガンであるのか、病理検査での判定が必要になった。がつんと、打ちひしがれたような気持ちになる。同時に、やはりただの炎症ではなかったのだろうか、と、思う気持ちもあった。腫れの部分を外科的に採取してもらい、検査に出すことを即座に決定。
 翌日、すぐに術前検査をしてもらう。麻酔が使えるか、ほかに症状がないかの確認。9月26日。ユキの9歳の誕生日の前日だった。1週間後、病理検査のためのリンパ節切除。手術は無事終わり、入院することなく帰宅。3日後、傷口が少し腫れ固くなってきたことが気になり、状態を診てもらう。固さは治癒の課程なので問題ないが、もし水が溜まるようだったら病院で水を抜いてもらう必要があるとのこと。しばらく自宅で様子を見る。
 そして、6日後。2015年10月12日。病理検査の結果の説明を受けた日。ユキの病名が、告知された。皮膚型リンパ腫。リンパ腫のなかでもケースが少なく、治療が効きにくいということ、1年後の生存率が30%かもしかしたらもっと低いと言われているということ(※当時)。家族そろって診察室で説明を聞いていて、冷や水をかぶった心地だった。待合室に戻って、ぼろぼろと、泣いてしまった。どうして。よりにもよって。なんで。説明より前に、電話にて、リンパ腫であること自体は告知されていた。けれども、母の友人のお宅では愛犬のリンパ腫で3年半もの間闘病したという。ユキもきっと同じくらい長く生き抜いてくれると、そんな根拠のない自信を私たちは抱いていた。それがふらふら、ふらりと、足下から揺らぐ。それでも、少しでもユキが楽しい時間を積み重ねられるように。治療を、その日からスタートした。たくさんユキの好きなところに行って、ユキが楽しい思いをたくさんできるようにしようと、決めた。私はガンの告知を受けたときから毎日ユキの写真を撮ることにした。ユキのそば、ユキのいる居間から離れる時間をなるべく最小限にしようと思った。元々居間に集まっている家族ではあったのだが意識的にそうすることにした。家族で都合を合わせて、ユキのそばに誰かしらがいるようにするよう、決めた。散歩もなるべく可能なときは3人で行くように、けれども長い闘病になると信じて、決して無理はしないように。意識が変わった。それでもこのときはまだ、症例が少ないだけでユキはすごく長生きするかもしれない、治療もよく効くかもしれないと、空元気で励まし合った。そうでないと、不安で心が折れそうだった。そうして実際に、ユキは、その無根拠に、たくさんの笑顔で応えてくれたのだった。闘病生活、丸2年を超えるそれが、始まった。

初めての抗ガン剤は副作用との戦いだった

 最初の抗ガン剤治療は、念のため入院で様子を見ながらとなった。初日の面会に行くとはしゃいでケージ内で動き回るくらい元気な様子に、空元気で前日をやり過ごした私たちは心底安堵した。だが、その直後に、副作用で嘔吐下痢が出てしまった。腸内の菌が一掃され腸炎になり、白血球も減少する。発熱はしなかった。毎日面会に行ったが、徐々にぐったりしていくのが目に見える。立ち上がる元気がなくなり、それでも顔は上げてくれた。つらそうだった。見ていてつらかった。「あと数日様子を見たい」が延びた。もしかしたら副作用がひどくて今後抗ガン剤の治療ができなくなるのではないかと、初っぱなから壁にぶち当たったようで、空元気から奈落の底に突き落とされた。抜糸が済んでも下痢が治まらず、食事抜きで水のみとなった。
 便が少しずつまとまり、抗ガン剤の投与から1週間ほどを経て退院になった。この最初の1週間は、最期の1週間と同じくらい長かった。家に帰ったときに迎えてくれるユキがいない時間に不慣れな私たち。ユキの自由行動範囲である居間とダイニングとを仕切るフェンスに足を引っかけたときなどは、がしゃんと物音を立ててしまったときの癖でついつい、とっさに「ごめんユキ!」と反射的に口にしてしまう。それから、はっとした。ユキは今入院しているんだった、と。それが、帰ってきた。「ユキが家にいる~~!!」といちいち喜び合い感動した。この、ユキがいることが当たり前になっていて、今いないんだ、とはっとさせられる現象は、ユキの闘病中ずっと身近なものだったし、亡くなった今でも、続いている。
 入院前は9kgほどだった体重が、退院時7.9kgまで落ちていた。ハーネスのベルトがあまりにもゆるゆるで、泣きたくなった。これは0.2kgほどのハーネスを込みでの重量だ。2回目の抗ガン剤のときには更に7.6kgにまで落ちた。もともとコーギーという中型犬の犬種のなかでは小柄なほうで、子犬と間違われるほどだったが、このときはほんとうに、ほっそりとしてしまい見ていて切なかった。退院後、散歩中に以前から声を掛けてくださっていたかたがたが口々に「痩せたね、大丈夫?」と心配してくださった。
 体重の様子を毎日見ながら、食事量を調整していった。退院時はまだ軟便だったため、少量のふやかしたフードからのスタートだ。何日かして便の様子が安定してから、これまでの食事量のままでは体重が戻らないからと、思い切って1割増やすことになった。それでも体重は増えるどころか減ってしまい、それまではフードを1粒増やすだけですぐに体重に反映されてしまうような子だったのに、こんなに食事を増やしても体重が増えないなんて、と焦った。あんまりたくさん一気に増やしたら生活習慣病になってしまうのではないかと、そんなことも心配だった。あくまで、ユキの闘病が長くなるつもりで私たちは物事を考えた。
 また、治療の一つのステロイド剤の影響で飲水量も増え、ごくごくと水をたくさん飲むようになった。それに応じて排尿の回数と量も増える。最初、膀胱に異常があるのではと心配になり診てもらったが、飲水量に応じた尿が出ているので問題ないとのことだった。その後、排尿をしたがるが出ないこともあり、相談したところ排尿量が増えて排尿リズムが乱れていてペースが掴めないのではないか、とのことだった。
 退院から1週間後、すなわち最初の抗ガン剤投与から2週間後、2回目の投与。このときは副作用は出なかった。ようやく少し、ひといきつける心地がした。それから毎週1回、ユキを病院に朝預けて、抗ガン剤治療をしてもらって夕方迎えに行く、という生活が始まった。体調を崩さないかひやひやしながら慎重に様子を見守った。元々家ではのんびりと寝ていることが多かった大人しい子だが、静かに、爆睡していることが増えたような気がした。いつも通りなのか、疲れてぐったりしているのか、ハラハラした。足の毛を部分的に剃られて、注射痕でいっぱいになった。時にはうっ血してすら見えることもあった。それでもユキは病院が大好きで、入り口まで、小走りで向かうほどだった。病院のスタッフさんがたにほんとうによくしていただいていて、なついていた。抗ガン剤のために診察室で獣医さんに預けて家族から離れるときにはさすがにきゅうきゅうと鼻を鳴らして切なげにしていたけれども、治療を終えて再会するころにはけろっとして見えた。迎えに行くといつも消毒の香りがする。この頃は治療の翌日翌々日くらいにはもうその香りは弱まっていたのだが、シャンプーや足洗いなどで濡らすと、染み込んだ消毒の香りがする。がんばっている証だねと、私たちは口々に言った。のちに、いつしか、ユキの香りに消毒が混じっていることが当たり前になった。消毒の香りがユキの香りになった。
 体重は相変わらずだった。ステロイド剤で食欲が増進しているとのことで、朝晩2回だけの食事では昼頃におなかを空かせてとても切なそうにしていたため、昼頃に少量のフードを追加することになった。手術前と比べると食事量は3割増しだ。それでも体重は増えなかった。
 3回目の投与のあと、昼食の量を更に5g増やした。それでも体重はほとんど横ばいに近い状態で、わずかに増えていった。それを1か月続け、もう1g増やした。そこでようやく、体重が8kg台に戻った。また1か月継続し、8.2kgほどで横ばいなので、もう4g増やした。1日の食事量はガンになる前の4割増しになった。それで体重は横ばい。夕飯を更に5g増やして、そこから2か月近くかけて8.7kgまで体重を回復させた。気がつけば体重低下からは4か月と10日以上とが経過していた。
 体重と格闘している間にも、体には異変が出ていた。11月21日、当初からあった口元の赤みが濃くなり、少し腫れてきた。肉球などにも小さな赤いぽちんとした湿疹のようなものが幾つか出ていたが、それはもしリンパ腫であった場合かゆみ等の症状が出て本人が気にし、噛むなどするため、ユキの場合は気にしていないから正常の範囲内であろうとのことだった。口元の腫れはどんどん増していき、この頃には散歩中に並んで歩いていても目に付くくらいになっていた。病院で大きさを診てもらい、拡大しているとのことで、治療方針の変更を打診され、すぐに応じる。この時点では、治療方針の選択肢がまだたくさんあることはポジティブに捉えていいよねと、家族で励まし合っていた。
 12月下旬頃、安静時でも呼吸が荒くなることがある点が気になり、診てもらう。これもステロイドの影響で、パンティング(ハアハア荒い呼吸)とのことだった。その後、獣医さんは肺や胸部に異常がないかよく気にかけてくださっていた。この、呼吸がしづらそうなのはステロイドによるもの、という認識がのちのちに、最期の間際、もっと早く気づいてあげられなかったのだろうか、という悔いに繋がる。
 12月23日、口元が腫れてきているので、レスキューと呼ばれる治療を受ける。速効性のあるものだ。翌日、翌々日にすぐに赤みが大幅に減少した。28日にまた抗ガン剤の投与を受け、この時点で、赤みはかなり縮小しているので年明けまで維持できるか更に小さくなればよいとのこと。肝臓の値も問題ない(これは高値になると抗ガン剤治療が受けられなくなるというものだ。この頃はあまり実感がなかったが、治療が長期化するにつれて、その数値を意識せざるを得なくなった)。30日、31日頃が、赤みは最小だった。
 病院の年末年始の休診日明けの2016年1月5日、口元の腫れを切除する手術の日程を決める。この頃から肝臓をいたわるサプリメントを服用するようになった。8日夕方、病院にユキを預け、翌9日に手術。手術前と後とに面会に行ったが元気な様子。全身麻酔からの覚醒も良好。麻酔から醒めないケースもあると聞くので、手術のときはいつもドキドキする。このときは経過も良好で、4日後には退院できた。3日後に獣医さんから病理検査の結果の電話があり、口元の腫れもやはり同じリンパ腫で、その部分は取り切れたとのことだった。ほかの部分への転移も考えられるので抗ガン剤治療は抜糸後に継続だ。
 手術前の6日には、私はこんなメモを残していた。

 2016/1/6 18:59
なるべく寄り添いくっつき、撫でる
いとおしむ気持ち、安らぐと同時にそれを覆い隠す暗雲 あとどれだけの時間が残されているのかがわからない不安感 表示のされないカウントダウンが、それでも確実に減っていってはいるのだという確信による焦燥感 けれどそれは目に見えた疾病のない状況でも一緒なのだ 元々、歳を重ねるほど、このこはあとどれだけ生きられるのだろう、なるべく健康に長生きしてもらうためにはなにができるだろう、と考えることは増えていた でも散歩中に出会うほかのかたたちから、15や16、あるいはそれ以上の年齢のどうぶつさんの話をざらにきく。それで安心して期待を持っていた。そこにきての告知
先が見えないことがほんとうにこわい。今、まったくこれまで通りの様子で(ステロイドによる飲水や尿量の増加などはあるし、足の毛もあちこち剃られてうっ血してるし注射痕も見えるけど)元気に過ごしてくれているのがせめてもの救い
ほんとうに、土器片の接合の実習のときみたいな気分 くっつくピースがあるかもわからない状態で大量の破片の山の前に立たされて、とりあえず良さそうな(希望がありそうな)かけらを手にとってあれでもないこれでもないって右往左往する 運がよければそのピースのペアが見つかって一歩前進するけどあたらないこともあるし、あたりがあってもみおとしているのかもしれない でもひとりじゃない それにいちばんがんばっているのはユキ
毎日、たとえば散歩中に、何度も、「えらいね、ユキ」以外に「頑張ってるね」を付け加えるようになった。前からもこの子は頑張って歩いていただろうに、見えていなかったのかもしれない
家族間の会話では不安を交わすだけではなくなるべく見える希望を探して口にし合う。みんなが不安だけど、希望を持っていたい

 土器片の接合のくだりは、私が大学で考古学を専攻していたため、実習で土器のかけらの山からつなげられるものがあるか探す時間があったのだが、それが私にはとてもつらかったという体験から来ている。市販のジグソーパズルならば、つながるピースが確実にある。けれども土器片の場合、今手に持っているかけらとつながるピースが山にあるのか否かすらわからないのだ。ないかもしれない可能性のほうが高いものを大量の山から探す、その時間は精神的につらかった。正解の見えないなかで手探りで進む状態に、そのころの気持ちが重なったのだった。もちろんそのころとは私にとっては懸かっているものが違う。不安は、いつだって闘病と並行していた。
 それでもつらいだけではない。前述の通りユキの好きなところに出かけて行ったりしたし(それは治療後の様子を見守りながらだったが、幸い、いちばん最初の抗ガン剤治療のとき以外は体調は安定していた)、ステロイドの影響で水をたくさん飲むようになったことも、おなかがぽよんぽよんになってまるで子犬のころのようだねと懐かしがった。自然と、思い出話が増えた。毛の剃られた足の地肌にごく少しだけ短くうぶ毛が生えているのも、ふにふにさわると、小さい頃のピンクの肉球のようで気持ちがいい。以前から注意深く体調の変化などがないか見ているほうではあった我が家だが、ユキがガンになってみて改めて、耳のあたりの毛の生えかたなど、ここってこうなっていたっけ?と、意外と意識していなかった部分に気付いたりもする。じっくり、よくユキを見て、たくさん会話をする。そんな時間が以前より更に増えた。
 1月のユキの手術入院前、狭い庭ではレースフラワーが咲きかけだった。ユキが退院するのと咲くのとどっちが先だろうねと、そんなことを話していた。ユキが退院してきたとき、ひらりと開いた花びらは増えていたけれど、まだ咲いているとは言い切れない状態。ユキのほうが先だったねー!と、そんなささやかなことを楽しんでいた。こうした庭や植物をユキとともに楽しみ、ともに向き合うようになったのは、特に序文で紹介したご近所さん(※注:この序文は別のメモ)のAさんの影響も強い。Aさんや植物の力には、ほんとうに、励まされた。
 ユキと散歩していて、Aさんのお宅の庭に寄らせて頂くことがある。そこでは彩り豊かな植物とともにおしゃべりにも花が咲く。挿し木にするようにとAさんから頂いて我が家で育てているバラが、Aさん渾身のアーチのようになったらユキも喜ぶだろうね、だとか、庭に実のなる木を植えたらユキが喜ぶかな、だとか。私たちは当然のように、未来の話をした。
 ユキの健康管理の記録をつけているノートにしたってそうだ。これはサプリメント会社のノベルティで貰ったもので、1年分の日付と表が入っている。ユキの記録をつけるのにちょうどいいからまた来年も貰えるといいねと、そんなことを自然と話す。誰も、次の一冊が必要になるかはわからないなんてことは言わない。ただただユキがこれからもずっと家にいてくれると、そんな前提でいつも話をしていた。
 ユキのつぶらな瞳は、光に透けると特にきれいなヘーゼルナッツ色をしていた。車の窓ガラスの四角いハイライトがよく映えた。ユキを連れての移動中、私はいつも、そのきらめきの美しさを、永遠に眺めていたいと思った。

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