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自分であるように生きる

8月も31日。休学して4ヶ月がすぎ、和歌山にきてから1ヶ月が経とうとしている。

そしてもうすぐ10代が終わるので、その清算を。


2分の1成人

小学4年生のとき、学校で2分の1成人式というものをやった。

何をやったかは正直あまり覚えてないけど、歌歌って、20歳の自分に手紙でも書いたか??書いてないかも。やりそうだけど。

10歳になる時、
「わたし二桁〜!」
とか言っていたのはよく覚えている。

なんだか大人の仲間入りをしたような気持ちと、次に桁が増えるのは当分先なんだなと、少し寂しく思ったりもした。

そんな呑気な10代の始まりからは想像つかないくらい、私は濃くて飲みきれないような10年間を過ごしていたなと思う。


「達観している」

「落ち着いているね」
「大人と話してるみたい」
「人生何回目??」

誰から見てもまだまだ子供であるはずの私が何回も何回も、いろんな人に言われた言葉。

背が小さく、負けん気が強かった私は、その言葉を受け取るたびに嬉しく思っていた。

つい先日、友人にもまだ10代とは思えないと言われた。

褒め言葉として受け取っていた言葉は、たまに私の足枷となる。

年相応に、無邪気で、爆発している友達を羨ましく思うこともある。褒め言葉。

自分はこの場で落ち着いていなければならない。もっと大人に認められる行動を。一目置かれた存在になるには??

止まらない承認欲求。
できる子であらねばならないという狭い考え。
私はできるという根拠のない自信。

中学を卒業するまで、私は「できる子」をずっと模索していきていた。

人目を気にして、
周りの評価を気にして、
正しさを気にしていた。

私が周囲を気にするようになったのは小学校のある出来事から。


独りは怖いということ

小学6年生の秋だろうか。
未だにその出来事は私の中で辛く暗く、あの頃は子供だったな、と軽く流せる思い出ではない。なんなら思い出ですらない。

クラス内で授業中に手紙を回し始めた人がいた。

クラスの後ろの方で始まったことで、私の席までは回ってこなかった。

クスクスとした笑い声、よくない雰囲気。
いつまでも回ってくることのない手紙。

そこには私の悪口が書かれていたみたいで、私に回ってくるはずもなかった。

私の悪口を書いて回すように、となっていた。

私は気がつくのが早かったけど、何が悪くてそんなことになったのかわからなかった。
結局理由は大してなかったようだけど。娯楽としてのいじめだったのか。

首謀者は気が強かった。回っていく手紙で楽しくなっていったのか、クラス全員に、
「めいちゃんのこと嫌いだよね?」
と聞いて回ったらしい。

小学校は逃げ場がない。心配はかけたくなくて、親にも先生にも言わなかった。

結局数ヶ月?どのくらい続いたかは覚えてないけど、私は学校に通い続けて、いじめはなかったことのようにされていった。

そこから、誰よりもまわりを気にするようになって、落ち着いていれば目をつけられないと思うようになり、人一倍考えて、考えて動くようになったんだろうなと思っている。

人に裏切られる怖さ、独りの怖さ、違うことの怖さ。集団から切り離された時の恐怖を覚えてしまい、中学校では「集団」から外れないように、と精一杯だった。


「個」性

中学校までの縛られた思考で向かった高校は、異世界だった。

はじめこそ、みんな友達がいないから集団で動くこともあったが、徐々に分裂していき、最終的に、別に誰が1人でも、誰といてもいいような場所が出来上がっていた。

・真面目に
・規律は守って
・周りに合わせる

中学校であたり前だったことが、気がつけば知らないことのように、みんなが自由にみえた。

規律がないわけではなく、学校であることはわきまえつつ、自分であるように生きているという感じ。

校則が緩くなったとか、歳を重ねて落ち着いてきたとか、そーゆーのもあるだろうけど、1番はみんなが自然と認め合って尊重し合えている環境であったこと。

もちろん、全員が全員そうであったという訳ではないだろうし、ちょこちょこトラブルも起こっていたけど、私にはなんて居心地のいい場所なんだろうと、毎日が新鮮で楽しかった。

高校の友達との関係性はなんだか大人びていたのかもしれない。

未熟で青臭くて、思い出して恥ずかしいことも、失敗も成功も全てがそこに詰まっていた。

「できる子」だと信じていた自分も、個性の波に揉まれているうちに、いろいろとできねえやと気がついたし、できなくてもいいんだと、開き直っているわけではなく、自分を認められた気がした。

やりたいことをたくさんやった。思いつくままに体を動かしていた。

たくさんの面白く、奇妙な出会いは私の宝物だなと心から思う。


虚無

そんな高校時代を過ごして、大学生。

なんだか虚無だった。私のnoteはこんな内容ばかりだ。

高校で人生のピークを過ぎてしまったような気持ち。

やりたいことに熱を送れなくなり、私の脳みそは「楽しむ」ことを辞書から消してしまったのかもしれない。

大好きだった、得体の知れない高揚感。
未だ探し続けている。

周りと自分を比べることと、昔の自分と比べることで、自分を苦しめた。

ぶり返す承認欲求、多方面へのメンヘラ化。
自分を出していくことへの不安。

追い込みすぎだと言われても、じゃあどうしたらいいんだと、迷宮入りしてまた自分を追い込む。

休学。

楽しめないなら離れないといけないと思った。

好きで始めたことを、がんばれない自分が嫌になるというよりも、楽しめない自分が嫌だった。

そして、大学が4年しかないこと、働くこと、やりたいこと、将来を考えれば考えるほどに焦って沼から抜け出せない。

「今を楽しむこと」

これが私の大切にしていること。

休学して、何をするか迷った挙句、
今、私は和歌山にいる。

これは逃げなのか、悩んだりもしたけど、自分で出した決断を自分で実行できるのはすごいことだよ、と励ましてくれる人がいる。

だから、今を間違っているとは思わない。

10代の終わりを穏やかに迎えている。

今までの自分と切り離した環境、時間の流れ、空気、人々。

波瀾万丈の10代の幕を閉じたら、何か後悔が残るだろうか。

20代になったら歳を気にしなくなるのかな。

たぶん、大して変わらないだろうな。

10年前の自分が思い描くより、自分は泥臭くもがいていて、立派な大人であるとは言い難い。

でも、思い描くよりもずっと面白い経験をして、出会いをして、たくさんのことを吸収している。

前にも似たようなことを書いたきがする。
それくらい思い描いていた未来ではない。

10年前から変わらず、夏の終わりにヒグラシの声を聞く。

自分らしくを貫くのは辛い時もある。

だから、自分であるように生きていけたらいいよな、と私は思う。

20歳になる自分へ。

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