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「小さな当事者」が「大きな当事者性」を語れるわけではない。

今日は仕事において、あたためてきた企画をひとつ見送る決断をした。

その企画のテーマは自分のバックグラウンドと重なるもので、僕も当事者だと思って真剣に考え、練ってきた。

ところが、先日の企画会議で仲間たちからもらったフィードバックは、思いもよらないものだった。

それは簡単に言ってしまえば、「当事者の方々にとってプレッシャーになってしまう内容ではないか?」という指摘だった。そして、そのフィードバックをもとに企画を見直すと、たしかにそういう面があった。

僕自身の当事者性に何度も耳を澄ませて練ってきたはずなのに、なぜ見落としていたのだろう......?

これは2020年に入ってからの、かなり大きな衝撃だった。この気づきをもとに企画を再検討してみたけれど、懸念点が拭えず、今日見送りを決めたのだった。


あらためて振り返ってみて、「当事者"なのに"気づけなかった」という当初の思いとは別の感覚が芽生えてきた。

当事者「なのに」ではなく、むしろ当事者「だからこそ」気づけなかったのではないか?

つまり、「自身も当事者であるから、さまざまな気持ちをくめるはずだ」という慢心があったのではないか。それが、他の当事者の方々の感覚を目一杯に想像する努力を怠らせたのではないか。

そんな想像をしてみたら、ずいぶん腑に落ちた。


そもそも、「同様」はあっても「同じ」は存在しない。

カテゴリーが同じであれば「似た状況」を経験している可能性は高い。けれど、それは決して「同じ」ではない。

特に「痛み」に目を向ける場合においては、それはとても相対的な感覚であり、なおさら比較は難しい。

たとえば、同じ「右腕の骨折」をした人がいたとする。パソコンでの執筆仕事においては左腕でもカバーでき、仕事のスピードは落ちても大きな支障はないかもしれない。けれどこの人がプロ野球選手で右利きのピッチャーだったら、この怪我は致命的だ。

もっと言えば、笑い飛ばせる骨折もあれば、突き指ひとつで長い間の努力を棒に振り絶望する人もいる。

背景にある状況が大いに影響する「痛み」は、名称や絶対値だけで簡単に比較して推し量れるものではない。


「小さな当事者」が「大きな当事者性」を語れるわけではない。

それが今回の件での学びのまとめだと思う。

「当事者であること」は、近しい状況にある誰かの気持ちに寄り添うことを後押ししてくれるメリットになる。けれどそれは、寄り添うことへの「可能性」なのであって、入口に過ぎない。「だから他の当事者のことも理解できる」という結論と安直に結びつけるのは危ない。

特に「すでに困難を乗り越えた"元"当事者」は注意が必要だと思う。

そういう人は、自身の成功体験が他者にも役に立つはずだと思い込んでしまいやすい。苦しみを乗り越えてきただけに、経験値への自信はその分大きいのかもしれない。

そうして振るわれる「元」の人たちの正論は、残念ながら優しくないことも多い(それは善意から生まれる助言であることが多く、この危険性は自覚しづらい)。「自分はこうして乗り越えたのに、あなたはなぜそれをやらないの?」と、むしろ苛立ってしまうことすらあるように思う。


「当事者でもないのに安易に語るな」

この主張はよく耳にする。けれど同じくらい、「当事者であっても安易には語れない」のだと思う。

「当事者」という主語は、特別な権利を与えられているようでいて、まだまだ「大きすぎるWe(私たち)」なのではないか。

「同様」はあっても「同じ」はない。一人ひとりの唯一無二性をしっかりと抱きしめること。

その前提を肝に銘じていなければ、橋渡しになるはずだった共通項は想像力を削ぎ、むしろ分断を生んでしまうのかもしれない。

「寄り添う」とは、相手のことを分かり切ることはできないという前提を忘れず、辛抱強く不可解のなかに留まり、それでも分かろうとする途上に居続けること。僕はそう考えたい。

「当事者」という便利な言葉を、その辛抱を省略できる魔法の杖として使わないように気をつけたいと思う。


トップ画は「みんなのフォトギャラリー」より、倉敷龍馬さん作「点字ブロックB:01」をお借りしました。ありがとうございます!

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