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点と線、不可逆

あぁ、彼はどんな想いだったのだろうなぁ、と、今も考える。

考えても答えは出ないし、何よりも、「居なくなってしまった」という事実しか知らされていないのだから、「彼にとっての真実」は彼にしかわからない。仮に、うんと詳細に遺されていたとしたって、その「真実」が公開されたところで、ほんとうのところで理解や共感ってできるものなのだろうか。

生まれ持った端正な容姿に、努力を重ねられる才能もあって、将来も嘱望されていて。端から見たら「恵まれているのに」「自ら手放すなんて」とも、思う。事故や災害でふいに絶たれてしまう命もあれば、病に苦しむひともいるのに、と。

あるいは、その業界に長く身を置いているのだから、そんな選択を「今」したら、どれだけの影響があるか想像もついただろうに、「なぜ今」なのか、とか。

繊細で優しく、真面目で、配慮のできる人だとの周りの評価を聞けば聞いたで、そんな人がなぜ、「残されたひとのショックを思い浮かべられなかったのか」と。

多くのひとに囲まれ、愛されていたのなら、なぜもう少し早く「助けを求められなかったのか、そこまで病んでいたのか」と。

どうしたって、これまで生きてきた中での道徳観やら倫理観やら価値観やらと天秤に掛けて、考えてしまうはずだ。

いや、気持ちわかります、手に取るように共感できます、と云う人もいるのかもしれないけれど、でも、その人に「解説」してもらったところで、それは「そのひとの想い」であって、「彼」の真実ではないだろう。

目に見える形でちょっぴり見えている「点」を、わたしたちはどうしたって、「点と点をつなげて線として」捉えてしまう。それであたかも因果関係のすべてがわかったような気になる。過去と現在を結ぶだけではなく、現在の点をつなげて「未来」まで描けたような気になってしまう。

でも、それはほんとうに合っているのだろうか・・・

自分のことは確かに、道しるべとして、希望として、今の点を線につなげてみてもいいのかもしれないけれど。

でも、「他人」の点を、勝手につなげていいものなんだろうか。

今のこの活躍を持ってしたら、数年後にはさぞかし・・・と、勝手な期待を押しつけてはいなかったか。もしかしたら、ご本人は違う「点」を、「面」に、「層」に、したかったかもしれないのに。

優しくて努力家だからこそ、目の前におかれてしまったものに全身全霊をかけすぎて磨り減らしてしまったのか。

もうすべて、思い残すことがないと悟ってしまうほど、充足感に満ちて旅だったのか。

うん。どんなに考えてみても、わからない。


自ら逝くひとに対して、わたしはずっと、「その選択をした段階で、そのひとから『捨てられた』のと同じだ。ともに居るはずの未来を捨てて、罪悪感だけを遺してゆくのだから」と思っていた。何をどうしたって、還っては来ないし、居なくなってしまった「事実」は変えられないのだから、怒りや悲しみを抱えるわたしの想いが「わたしの真実」であって、「そのひとの真実」など知りようがない、もう直接聞けないのだから、と。思ったところでどうにもできない、と。「線」を絶たれてしまったのだ、そこでぷつりと止まってしまうのだから、その事実のみを抱えて、あるいは、そっと置いて、進むしかないのだから、と。


考え方に今も大きな違いはないけれど、それでも。

なぜか今回の「彼」を通して、「点と点=線」で、わかった気になって批判する、あるいは、切り捨てるということに強く違和感を持ったことが自分でも不思議。見えていることがすべてではないことを忘れないおとなになろうと決めていたのに、いつの間にか単純な見方しかできていないし、いつだって「こうあってほしい」と思う部分だけを比率を大きくして見ているのだと改めて感じた。

「ひと」のことなんてわからない。「自分」のことだってたまに、わからなくなるのに。「わかった気になるなんて簡単だけれど、それこそが思い込み」ではないのか。

いつもなら自然としている思考回路を、少なくとも一度は疑ってみる、わからなくても「想ってみる」、そんな一週間だった。





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