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俺の前世は、おじいちゃん(7)


おはよう、スピリチュアルネイティブのタケルです。

近所の塀に、ツバメが巣を作ってた。もうそんな季節か。毎年同じところに巣を作っているのを見ると、よほど居心地がいいんだろうな。

さて前回の続きから。

俺の前世がおじいちゃんなら、当然、俺は母の父親でもあった、ということだ。

そのことを思い出したときは、びっくりするより、ああ、だからか、という気分の方が強かった。

俺は母さんに対して、彼女の父親でもないのに、まるで父親のような保護者の気持ちがあったからだ。一応、今でも仕事をして自立している母さんに対して、面倒を見ないといけない使命感が必要以上に強かったり、贅沢をさせてあげたい願望が強かったり。

例えば、本当は懐が痛いのに、背伸びしていい飯をご馳走したりとかね。(彼女でもねえのに!)

どこの家の長男もこんなもんなのかもしれないが、俺の場合、それらが叶わないとひどく落ち込んでしまうところがあった。母さんを幸せにできない自分は、ダメな自分なのだと、必要以上に自分を卑下してしまうんだ。

これはこっぱずかしい話だが、7年前、俺はまとまったお金で母さんを旅行に連れ出した。母さんがずっと行きたがっていた、三重県の伊勢志摩だ。俺は得意になって借りたレンタカーを乗り回し、母さんが行きたがるところを案内した。なんだか胸が膨らむ思いというか、すごく気分が良かったのを覚えてる。

2日の朝だったかな。母さんが、お土産が見たいと言い出した。でも、Googleマップで見る限り近くに土産屋がない。けれど、母さんはなんとか探してくれと豪語する。そのわけは、下の妹に土産を買って送りたいから、というものだった。

その時、母さんはポツリといった。「だって、私たちばっかりこんないい思いして、あの子だけ仲間外れなの、すごく気になるんだもん」。

今思えばなんともない話なんだが、7年前の当時の俺にはこの言葉が異様に刺さってしまった。妹を誘っていないのは、彼女が忙しいのもあったし、俺に妹の旅費まで出す財力がなかったこともある。俺は、そこまでの力がないことを責められたように感じてしまって、途端に息苦しくなってしまった。自分を否定されたような悲しさと、気がつけば母親に振り回されてる苛立ちで、どうしようもなくなってしまった。

そして、あろうことか癇癪を起こしてしまったんだ。俺は母を怒鳴り、近くにあった神社に車を停めた。気の強い母は、「何よ!!」と俄然応戦してくる。俺は、せっかくの旅行が台無しになってしまった惨状に、もう消えたいような気持ちだった。

その時、俺は、自分の心の奥底にある本音に気がついた。俺は本当は、母さんに、ずっと言いたくて、言えなかったことがある。父さんが家を出て行ったときから…俺は子供の頃からずっと、頑張る母さんの背中を見て育った。甘えたがりの妹は、そんな母さんにまっすぐ手を伸ばした。だから母さんの両手はいつも塞がってた。

だからこそ言えなかったこと。

「抱きしめてほしい」

顔から火が出そうだった。何いってんだ、俺。でもいった側から、馬鹿みたいに泣けてきて、張り詰めていた背中の力がすっと抜けていくのを感じた。母さんは、驚いて、もう笑いながら、馬鹿みたいに強く俺を抱きしめた。

それからも、俺は母さんへの思いと真正面から向き合ってきた。そして本人とも何度も話し合ったり、時には喧嘩をしたり、お互いの誤解を解きあったりしてきた。そのおかげで、お互いの関係は、年相応の、親子関係としてはかなり健全な形に収まってきたなと思う。

その積み重ねのおかげだろうか。俺はようやく、俺自身の母さんへの愛情の中に、母さんを育ててやれなかった祖父の後悔が重なっていたことに、気づくことができたんだ。

つまり、
・今目の前にいる母さんと向き合い続けること
・訳のわからない心の痛みを頼りに、俺の中にあった祖父の記憶を辿り、曽祖母、祖母との和解を通して、前世である祖父自身の後悔の気持ちを成仏させること

によって、俺は「俺自身の気持ち」と、「祖父の気持ち」の境目を、ようやく見つけて、整理することができるようになった。

それが、「俺の前世はおじいちゃん(1)」の冒頭で書いた、「地元へ帰る母への寂しさは、俺自身ではなく、おじいちゃんによるものではないか?」という気づきにつながったわけだ。

もちろん、俺自身にも寂しい気持ちがないわけじゃない。けれど、自分でも「なんでこんなに?」と疑問になるほどの感情の根を辿っていったとき、そこにおじいちゃんの顔が見えたんだ。

そんなわけで、数日前の朝。俺は祖父に声をかけてみた。

タケル「じいちゃん。母さんのこと、もう十分だろ。あの人は、もう十分、幸せだよ。な。もう幸せなんだねって、じいちゃんが認めてあげなくちゃ」

祖父「そうだな。俺がいなくても、十分達者に、幸せに生きてるものな」

タケル「じいちゃんが見守ってること、母さんには伝わってるよ。だからじいちゃん。もう、ここいらでよしとしてくんねえ? これ以上じいちゃんの後悔が俺に乗っかってるとさ、俺、いつまで経っても自分の人生に集中しきれないだろ」

俺は、祖父に語りかけているとも、自分自身を諭しているとも言えるような、不思議な気持ちがした。自分がそばにいなくても、大切な人が元気でいてくれること。それは何よりの望みだ。だけど、「自分がいなくても大丈夫なんだ」と認めることは、ちょっとだけ寂しくもある。けれどそこから、俺も、祖父も、卒業するときだ。

母さんへの、じいちゃんの愛情。そして、俺の愛情が、重なる。今までよりももっと大人な、自立した愛情へと、成長していくための芽生えを感じる。

祖父「そうだな」

じいちゃんはそういって、満足した気配を膨らませた。それは軽やかに広がって、霧散していく。


そして、それから数日後の今も、俺は自分の変化を少しずつ感じている。
それはこれからもここに日記として記していく。話はいったんここで締めるが、前世から今への記憶の物語は、果てがないし、終わりもない。「はいこれで成長!完了!」っていう区切りをつけたつもりでも、しばらくしてから「全然、終わってなかった、俺は何もわかっちゃいなかった!」って気付かされるばかり。それが多分、成長していくってことだ。そんなゆるゆるした螺旋状の成長譚は、ゆるゆる続く。



終。



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