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須賀敦子(1929.1.19-1998.3.20) 編『須賀敦子が選んだ日本の名作 60年代ミラノにて 河出文庫』河出書房新社 2020年12月刊 496ページ  日記 2021年2月13日

日記
2021年2月13日

須賀敦子(1929.1.19-1998.3.20) 編
『須賀敦子が選んだ日本の名作
 60年代ミラノにて
 河出文庫』
河出書房新社 2020年12月刊
496ページ
福岡市総合図書館蔵書

https://www.amazon.co.jp/dp/4309417868
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309417868/

「須賀の編訳・解説で60年代イタリアで刊行の
『日本現代文学選』から13篇収録。
解説は日本人にも作品への見事な誘いとなっている。
須賀敦子 1929年兵庫県生まれ。著書に
『ミラノ 霧の風景』
『コルシア書店の仲間たち』
『ヴェネツィアの宿』
『トリエステの坂道』
『ユルスナールの靴』
『須賀敦子全集(全8巻・別巻1)』
など。1998年没。」

1929年1月19日生まれな
須賀敦子さん(1998年3月20日死去)が
1965年にイタリアのボンピアーニ社から刊行した
現代日本小説アンソロジー25篇」

Narratori giapponesi moderni, Bompiani, 1965
[『現代日本の語り手たち』?]
https://www.amazon.it/dp/B00GYY29V4

から13篇と
編訳者解説(中山エツコ訳)25篇
を収録。

樋口一葉(1872-1896 23歳)
「十三夜」
『文芸倶楽部』1895年11月臨時増刊「閨秀小説」号

谷崎潤一郎(1886-1966 24歳)
「刺青」
『新思潮』1910年第3号

森鴎外(1862-1922 53歳)
「高瀬川」
『中央公論』1916年第1号

横光利一(1898-1947 28歳)
「春は馬車に乗って」
『女性』1926年8月号

坪田譲治(1890-1982 44歳)
「お化けの世界」
『改造』1935年3月号

川端康成(1899-1972 40歳)
「ほくろの手紙」
『婦人公論』1940年3月号

中島敦(1909-1942 33歳)
「名人伝」
『文庫』1942年12月号

太宰治(1908-1948 38歳)
「ヴィヨンの妻」
『展望』1947年3月号

林芙美子(1903-1951 45歳)
「下町」
『別冊小説新潮』1949年4月号

三島由紀夫(1925-1970 29歳)
「志賀寺上人の恋」
『文藝春秋』1954年10月号

石川淳(1899-1987 57歳)
「紫苑物語」
『中央公論』1956年7月号

深沢七郎(1914-1987 43歳)
「東北の神武たち」
『中央公論』1957年1月号

庄野潤三(1921-2009 41歳)
「道」
『新潮』1962年4月号

ジョルジョ・アミトラーノ(1957.10.31- )
「序」p.9-22

大竹昭子(1950.9.20- )
「読んで欲しい人がすぐそばにいる」
p.472-478

池澤夏樹(1945.7.7- )
「解説、あるいはアンソロジストの苦難と栄光」
p.479-484

1957年10月31日生まれな
Giorgio Amitrano
ジョルジョ・アミトラーノさん
(ナポリ東洋大学教授 Universita degli Studi di Napoli "L'Orientale" UNIOR 元イタリア文化会館東京館長 Istituto Italiano di Cultura - Tokyo
2020年旭日中綬章)
は、学生だった1975年に原著を読み、
「専門を日本文学に変更し、
中島敦の短編小説集を訳すことにした。」p.13
Cronaca della luna sul monte e altri racconti / Marsilio Editori, 1989
[山月記 他]
https://www.amazon.it/dp/8831751735

「上智大学に通い、須賀敦子さんの教えを受けていた。」http://italiakaikan.jp/culture/publish/img/Corrente278.pdf

よしもとばなな(『キッチン』他11冊)、
村上春樹(『ノルウェイの森』他6冊)
のイタリア語翻訳者なんですねぇ。
Https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョルジョ・アミトラーノ

https://it.wikipedia.org/wiki/Giorgio_Amitrano

矢内裕子(1965- )
「萩尾望都、
ヤマザキマリ、
ジョルジョ・アミトラーノ
(イタリア文化会館館長)
少女マンガは国境を越える」
『Aera (アエラ)』
2016年12月26日号
p.35-37
朝日新聞出版
2016年11月9日(水)
イタリア文化会館
「イタリアと日本人
 文化とサブカルチャーをめぐって」抄録
https://www.facebook.com/tetsujiro.yamamoto/posts/1319486884792614
で、初めてお名前を知りました。

昨日読んだ雑誌記事。 『Aera (アエラ)』 2016年12月26日号 朝日新聞出版 2016年12月21日発売。p.35-37...

Posted by 山本 鉄二郎 on Sunday, February 5, 2017


読書メーター
須賀敦子の本棚 登録冊数8冊
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11273580

https://note.com/fe1955/n/n881bdedc3814
須賀敦子(1929.1.19-1998.3.20)
『須賀敦子エッセンス 1
 仲間たち、そして家族』
湯川豊編 水上多摩江装画
河出書房新社 2018年5月刊
263ページ

https://note.com/fe1955/n/n6a2af470d5f8
須賀敦子(1929.1.19-1998.3.20)
『須賀敦子の本棚 文藝別冊』
河出書房新社 2018年3月刊

https://note.com/fe1955/n/nab149ddbd805
『小説新潮』2020年9月号
いしいひさいち(1951.9.2- )
「剽窃新潮 第3回」
筒井ともみ(1948.7.10- )
「もういちど、あなたと食べたい 第十回
 須賀敦子さんと「フ・リ・カ・ケ」
日記 2020年10月10日

https://note.com/fe1955/n/n6a0ae45f68cf
酒井順子(1966.9.15- )
「人はなぜエッセイを書くのか
 日本エッセイ小史 第六回
 女性とエッセイ」
『小説現代』2021年2月号
「「1990年に刊行された
『ミラノ 霧の風景』は[須賀敦子]自身の著書としては
最初の作品(訳書はあり)です。この時、須賀は61歳。」

https://note.com/fe1955/n/n818f98daca0d
津野海太郎(1938.4.6- )
『おかしな時代
 『ワンダーランド』と黒テントへの日々』
本の雑誌社 2008.10
『百歳までの読書術』
本の雑誌社 2015.7
『最後の読書』
新潮社 2018.11
『かれが最後に書いた本』
新潮社 2022.3
「2018年9月5日 17 貧乏映画からさす光 その2
北原怜子[1929.8.22-1958.1.23]が
「蟻の街」の住民となった50年代初頭、
須賀敦子[1929.1.19-1998.3.20]は
慶應大学大学院(社会学)に籍をおき、
武者小路公秀[1929.10.21-2022.5.23]、
有吉佐和子[1931.1.20-1984.8.30]、
犬養道子[1921.4.20-2017.7.24]
といった他大学の若者たちと、
カトリック学生連盟の一員としての活動をはじめていた。」
https://kangaeruhito.jp/article/5326

「1953年に、須賀敦子は政府援助留学生として、カトリック左派運動やエマウス運動の本拠地であるパリにむかった。しかし、とうとう納得できる解答を得られないままに、1960年、いくつかの偶然の出会いもあってミラノ・コルシア書店の活動に加わり、その中心にいたペッピーノと結婚する。
 この間の遍歴については『ミラノ 霧の風景』や『コルシア書店の仲間たち』などの著作にくわしいので、とくには触れない。ここでの私の関心は、神戸の、きわだって知的で裕福な家庭にそだった若い女性が、鉄道員の息子ペッピーノとの結婚によって、生まれてはじめて貧困の現実をじぶんで生きることになった。その落差によって須賀がうけた衝撃の深さにある。それを知る手がかりとして、もういちど戦後イタリアのネオ・レアリズモ映画に頼ることにしたい。
 戦争が終わって10年がたち、マーシャル・プランの時代も終わって、庶民の暮らしはいくぶんか楽になっていた。そんな時期、つまりネオ・レアリズモ運動の末期につくられた映画に、ピエトロ・ジェルミ監督の『鉄道員』がある。『ミラノ 霧の風景』中の「鉄道員の家」によると、1956年製作のこの映画を、須賀はペッピーノが67年に死んで20年ほどのち、東京ではじめて見たらしい。

 〔夫が死んでまもないころに〕もしこの映画を見ていたら、おそらく私は自分が溶けてしまうほどの、もういちど立ち上がれないほどの衝撃を受けただろう。ごくはじめのところで、主人公〔ジェルミ監督がみずから演じるローマ・ミラノをむすぶ急行列車の機関手〕が夜中によっぱらって家に戻ってくる場面がある。ドアに鍵をさしこんで家に入っていくと、家族はみんな出かけていて、あたりは真っ暗だ。その瞬間、あ、スイッチは左側にある、と私のなかのだれかが言って、私を完全に打ちのめした。どの鉄道官舎も間取りが似ていて、映画に出ているアパートメントは、それほど、あのミラノ・ローマ本線の線路沿いの夫の実家そっくりだったのである。」
津野海太郎(1938.4.6- )
「2018年9月5日 17 貧乏映画からさす光 その2」https://kangaeruhito.jp/article/5326



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