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自分のマインドに気づく

「自分なんか」という心

謙遜というのは、令和の世になっても相変わらず「美徳」なのかもしれないが、本当は、「むやみに反感を買わないための技術」程度と割り切っておくのが良いのかもしれない、と最近思う。
長年会社で仕事をしていたり、年齢が上がったりすると、型に流し込んだプリンのように、モノの見方・考え方が境遇に応じた形になってしまうようだ。

かなりの覚悟で始めたデータサイエンスの勉強、1か月とすこし経って、実際の仕事に結びつくのかどうかは自分の工夫と熱意次第ではあるけれど、自分がやっても全く問題はないのではないか、なぜ自分はここまで萎縮しているのだろう、と思うようになった。うっすら気づいたのだが、縦割りの会社組織の中で、「これが自分たちの部門でやるべき仕事」と思い込んでいて、データ解析、統計は自分がやってはいけない、ということが刷り込まれている気がする。年齢的なこともそう。

根深いものがあるが、幼少期からの小さなつまづきや、誰かからの何気ない一言、親の意向、それによって自分を狭めてきたからに他ならないのでは、という考えが確信に近いものになってきた。

かつて「天才」だった私たちへ

若者の曲だから、と思って何となく距離をおいていたが(これも、年齢による先入観なのかもしれない)、「かつて天才だった俺たちへ」という曲の歌詞をよくよく味わってみた:

(引用始)
かつて天才だった俺たちへ Creepy nuts

苦手だとか怖いとか気づかなければ
俺だってボールと友達になれた
頭が悪いとか思わなけりゃ
きっとフェルマーの定理すら解けた
すれ違ったマサヤに笑われなけりゃ
ずっとコマ付きのチャリをこいでた
力が弱いとか鈍くさいとか
知らなきゃ俺が地球を守ってた
破り捨てたあの落書きや
似合わないと言われた髪型
うろ覚えの下手くそな歌が
世界を変えたかも

かつて天才だった俺たちへ
神童だったあなたへ
似たような形に整えられて
見る影もない
(引用終)

自分たちよりはるか下の世代もこの歌詞に共鳴しているところをみると、こんなふうに窮屈に自分をせばめている人が、世代を問わず大勢いるようだ。謙遜は単なる処世術にしろ、とは教わっていなくて、形から入って自己卑下につながって固定するリスクがあるので(習い性になる!)、むやみと謙遜するのはやめた方がよいのかもしれない。

課題図書の抜き書き

人間は柔軟性を身につけることによって、不幸を恥じず、幸福に感謝する姿勢を学ぶ 。

ナポレオン・ヒル. 私たちはできていないが、成功者はやっている52のこと (Kindle の位置No.664-665). KIKOSHOBO. Kindle 版.


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