タイトル

人生で2番目に痛かった穿孔性腹膜炎で胃2/3切除

突然の腹部大大激痛

私が米国留学から帰国して体調がすぐれないので(留学中のストレスとタバコ<すっぱり止めましたが>とコーヒーが原因と推測)、年単位の契約のため途中で迷惑をかけてはいけないと大手予備校との年間契約を辞退して書式契約のないマイナー予備校で英語指導をしていました。

本来、胃は丈夫で大食漢でもあったのですが、その数日間何か胃の調子がおかしく、ある日出かける前に飲んだことのない市販の胃薬を水と共に飲んだ瞬間・・・・まるでお腹を槍でどすっと刺されたような痛みに声も出ず

これはただ事ではないとすぐ分かりましたが、あいにく家の者は既に全員外出。(携帯なんかまだ普及してない時代だから)自分は2階にいるが果たして電話のある1階まで降りていけるのかそれぐらいの痛みでした。

呻きながら前かがみで何とか1階電話のところまで行き救急車要請。幸い、消防署が近くだったので救急車はすぐに来てくれましたが、ストレッチャーに寝ることもできず四つん這いのままで、救急隊に運ばれ額から汗が吹き飛ぶまま呻きながら病院へ(何故かこの時私は救急隊員に家の鍵を渡して鍵を閉めてと言ったそうです)。

余りの痛みに叫び続け手術までにどんな検査を受けたのかも全く覚えていないくらい痛かったことしか覚えていない。色々な点滴薬が効いたのか死ぬほどの痛みはなくなったが、「人が死んで行くときはこんな感じなのかな」、まさに「青菜に大塩の状態」で手術開始。

何時に始まったのかも覚えていないですが午後2時半に搬送され、おそらく始まったのは夜の9時過ぎだったと思います。(これも今なら考えられないこと)

全身麻酔から目が覚めた時、私の体には色々な管がつけられ ICUで2日過ごし3日目からはナースセンターに一番近い観察室に移る。二人の先生が来てくれて「十二指腸に穴が空き胃まで穿孔(せんこう)して腹膜炎を起こしていたので胃を2/3切除して内臓をよく洗っておきました」。

「まだ腹部から排出されるものがあるので 3、4本のドレインがお腹から出たままです。その一本は金属製なのでそのままにしておくと中の組織に引っ付いてしまうので 1日一回動かす必要があります」。

「はい、そうなんですね」、「では今から動かしますね」、「は、はい」、ぐるりと一回転動かした直後・・・ものすごい痛みで大声をあげてしまった「この馬鹿野郎ー」と。

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一般病棟へ

その後一般病棟へ移されます。6人の相部屋。この痛みの中で 6人部屋はつらいな。

60代の Aさんは肝臓がん(無口な方でしたが私は何度も話してとても好きな人でした)。

50代の B さんは大工の棟梁で胆石(まさに明るいリーダー格)、40代Cさんは急性の胆石痛で夜中に運ばれた人(大手企業のサラリーマンで胆石仲間のBさんと手術終わって落ち着いたら夜抜け出してラーメン食べに行くコンビ)。

40代の下血したDさん(職人さんで奥さんがBさんとCさんが抜け出して食べに行くラーメン店で働く)、30代の予備校講師の私、そして私と年が近い20代後半の当時難治病の若者E君(幼いころからこの病で何度も手術)の6人。

私は胃を 2/3 切除しているので術後3週間は一切飲食できないので、唯一の楽しみは食べ物に関するTV番組を見ること、苦しみは一日に1回の金属ドレイン 1回転と皆の食事風景を見る時が一番の苦痛でした。

最初は少しぎくしゃくしていた皆もすぐに打ち解け色々な話を夜中まで皆でして、まるで6人の家族のようになってました。

当時の病院設備を現在のものと比べたら原始時代のようなもので、患者の自立心は大いに養われました。私もある程度動けるようになると入院中は全部一人でやりましたね。

大工の棟梁と私が身内でもないのに40代Cさんの手術中、手術室の前で手術が終わるまでずっと待っていたり。

次に50代大工の棟梁の手術、私は緊急でしたが、やはり、皆、手術前日前夜は緊張しているのが伝わってきます(当時は腹腔鏡手術はまだなく全員開腹手術)。

今度も60代Aさん、私、20代E君3人で身内のように手術室の前に終わるまで。

手術後はしばらく動けないので尿を尿瓶に溜めますが(今では考えられないことです)、いっぱいになると別の場所の各自の尿を溜めるところに運ばないといけません。当時看護婦さんの手が足らない時は、同室で動ける者が動けない人のために夜中でも尿を運ぶのは当たり前にしてました。

その後も入院手術の経験はありますが、この時ほどの 6人の一体感はありません。つまり、他人の手術を自分の手術のように受け止め、何の躊躇もなく同室人の尿を運ぶようなそんな時代はもう存在しないのかなと思うのです。

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執刀医

私の執刀医と助手の先生は、まだ 40前の医師と30前後の医師でした。お二人とも国立大医学部出身の優秀な人たちでした。

結局、私はその年8月中旬に入院して9月下旬に一旦退院。その後も患部の内部筋肉を縫っている糸が表に出てきそうになりゴルフボールのように膨れ、そこにものすごく長い針を刺して注射器で抜き出したり退院後もすんなりとは行きませんでした。

そんな時に東京の大学同期から結婚式の招待状が。普通なら当然欠席届を出しますが、この同期にはアメリカから帰国した時にあまりに心身共に疲れ果て地元に戻る前に東京の彼の実家に1週間近く泊めてもらった大きな恩義があるのです。

そんな体で上京して結婚式に出て2次会にも出て地元に戻って再入院。

ここでも私の馬鹿さ加減がよく出ていると思います。

注射器で刺していた中の糸が出てこようとする炎症が続いていて、執刀医はその部分を少し切開してそこからピンセットを入れて糸を取り出そうとこれも毎日恐怖の時間。

結局、何回しても駄目なので、もう一度ある程度開腹して糸を取り出し縫い直すことに(泣)。

その間フリーランスの仕事は休まざるを得ず、結局、本格的に復職するのに半年以上かかるのですが、最後に執刀医からあまりに汚い腹部手術痕(独身男性だったので)の形成手術をさせてもらえないかと提案。

この時点で私は一体何針縫われているのか?

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それから12年を経て

その手術から12年後に私が経営する総合進学塾に中学三年生の生徒が入塾してきました。とても素直な子で教え甲斐のある生徒でした。

授業前の雑談で「君のお父さんはお医者さんみたいだけど、専門は何科?」と尋ねると「外科医です」、「外科医?どこの病院の?」、「◯◯病院です」

えっ、えっー、なんと私が入院手術したあの病院のまさに私の執刀医のお子さんでした!!

こんな縁というものがあるのでしょうか!!

あの時の執刀医のお子さんを12年後に私が指導することになるなんて!!!

私自身信じられなかったのですが、完全なノンフィクションです。

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半分サイボーグに

あれからあの時の入院仲間と会うことはありませんが、あの中で一番若かった難治病のE君の特効薬がその後開発されて、もう何度も手術せずに元気になったのではないかと思っています。

他の投稿で何度か書いた高校3年時に事故に遭い2年間に3回の手術に、この胃の切除でやはり大中小の3回手術。

もうこの時点で私は半分はサイボーグでしたが、辛いとはまだ感じていませんでした。

その後の人生で待ち受ける難病や人生で一番の連続激痛のことも知らずに、30代の私は英語学習と指導に明け暮れていました。


次回闘病物語に続く



※全身痛再発7年目で外部の学校には指導に行けませんので、サポートは本当に有り難いです。投稿内容にご納得の上、何らかの形で英語指導の機会を与えて頂ければ幸いです。よろしくお願いします。 HP⇒https://feedback01.webnode.jp/ 福岡県 北九州市 小倉南区