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伸び代の関係

スギ花粉は去ったのだろうか。久しぶりに散歩できる。
桜がもう咲く準備をしている。春が来るのだ。ヤッター!
このチューリップは、強風の日、道に落ちていた。かわいそうなので拾ってきて、かれこれ1週間以上経つが、まだ普通に生きている。

森見登美彦さんの小説の中で、「惚れてない男と結婚した方がいいんだ!」と主張する酔っぱらいの男が出てくる。また、
村上春樹さんの短編集「女のいない男たち」のなかに「イエスタデイ」という小説があり、そのなかに、申し分ない魅力的な彼女を持っている男が、「このまま円満な関係が順調にポンポンと進んでしまうことがこわい」というような内容の表現があって、たしかにそういう微妙な、ある視点から見れば「要領の悪い」機微のようなものは人間にあるな、と感じた。
ただ、これを「要領が悪い」と言い切るのはどうか。

私たちは、ほしいと思ったものがすぐ手に入るのはつまらないと思っている節がある。ようは、何らかの形で驚かせてほしいわけだ。
想像がつくもの、あまりに思い通りのものはちょっと不気味だし、リアリティがないとすら思っている。
だとしたら、要領が悪いのではなく、むしろ「強者の遊び」なのではないか?

わたしはこれを「要領が悪いバカな考え」や「悪趣味」ではなく、「伸び代」でとらえたい。

たとえば、人間関係も変遷をとげる。ある関係は開始直後よりも時を経て成熟し、思いもよらぬところまで成長するし、ある関係は開始直後は魅力的だったはずなのに先細る。
それは、何をゴールとしてはじめる関係かによるとおもう。
あるいは、「伸び代」を視野に入れている、もしくはこれから視野に入れるのなら、いくらでも変わるようにも思う。行先の設定は、カーナビと一緒で、その道に乗ってからでも変えられる。

ある成功者の男性が、「男を育てる女というのがいる、僕はカミさんに育てられてここまで来た」と言っていたのを思い出す。確かにそういうこともあるだろう。また、逆もあるだろう。育て合うということができる関係は、柔軟性と頑固さを疑う力があればできる。まさに伸び代まみれだし、そういう関係は素敵だ。よく、家づくりなども、最初から家具をぎちぎちに買っておくのではなくて、家族の成長や構成に合わせて、だんだん買い足していく、成長させていく家づくりのほうがいい、という話などもある。
もっともだなと思う。
やっぱり私たちは、とどまることができない生き物だ。動き続けるのなら、成長の方向に動き続けたい。まだ見ぬ可能性にむかって、常にひらけている、風通しの良い小部屋のようでいたい。そして、自分で作っておきながら、まるで自分で作っていないものを見るように、「わあ!」と喜びたいのだ。

そのためには、飛び込んでみないとわからないものもいっぱいある。飛び込んだもの勝ちかもしれない。

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