見出し画像

「奇跡のコース」ブレイクタイムその10

ガイドブック10〜特別性の終焉〜にはいります。
ここでの学びを深めるためにいくつかのトピックをみていきます。

愛と恐れ

わたしたちのあらゆる経験はこのふたつのどちらかです。

ふたつの経験

わたしたちの経験は愛が動機となっているか、恐れが動機となっているかのどちらかしかないといわれています。これは単純な解釈から導くことはできません。
例えば、大切なひとが重い病を患っている時、病気が治って元気になることを願います。助けになることならなんでも協力したいと思います。
これは愛の経験でしょうか。それとも、恐れの経験でしょうか。
また、犬が怖いと思っている人が、向こうから大きな犬が来るのをみて、心の中で怯えています。そして、なんとか通り過ぎてホッとしました。これは恐れから愛に変わったのでしょうか。

カン違いの愛

病気だけでなく、災害などの非常時も、わたしたちは恐れが優位になります。不安、焦り、緊張など、ネガティブな感覚には気づきやすいので、恐れは誰にとっても自覚しやすい感情です。一旦、それが去ると恐怖は消えますが、愛とはいえないようなどっちつかずの状態になります。
そのどっちつかずの状態は、実は恐れの中にいるということにはなかなか気づけないものです。
わたしたちは恐れの中にいることも、愛の中にいることも気づかずにいるとはナゾです・・。

選択の自由

わたしたちは、自分が愛の中にいることも、それに気づかずにいることも(実は愛されていたのだということに気づかないまま)、恐れの中にいるのにみないふりをしていることもできます。また、自分の心のうちに意識を向けて、しっかりとホーリースピリットと向き合って、正直に自分の心をみながら進むこともできます。どのようにするのかは自由であり、私たちの選択に任されています。愛を選ばずに、恐れに対処することでなんとか一息つきながら人生を歩んでいくこともできます。
恐れに対処しながら生きる人について「奇跡のコース」では、はっきりとした自分の意思で恐れを選び、非常時に向かって進んでいると伝えています。、愛を選んで、平安を生きるためにどうすればいいのでしょうか。
「奇跡のコース」はそれを知るための学びです。

優越感

わたしたちは何に対して、なぜ、優越感を感じるのでしょうか。

分離という幻想

わたしたちはみな、すべての創造主である神のエネルギーを分かち合った存在だとすれば、「ワンネス」であり同じ存在です。それが真実です。
ですが、spiritが身体を持って生まれてきたために、わたしとあなたを区別して分離を作り出し、あなたとわたしの違いを見出し、自分の欠乏感や無力感を信じました。自分が足りないのは、親に充分愛されてこなかったからだと思い込んだり、あるいは、世界や社会(親や他人も含めて)に比べて自分が未熟だと知覚したからです。身体の五感を使って知覚してその幻想を作ってきたのです。

もうひとつのカン違い

わたしたちは、自分の欠乏・無力さを投影して相手にそれをみます。これが投影というシステムでした。誰かに対して、自分を映して「あなたのここが足りない」「あなたの未熟さが見える」という代わりに、「こうした方がいいよ。」「私は、これが得意。」「これだけは負けない。」と思うようになります。それは、料理、スポーツ、勉強、などの能力かもしれません。あるいはやさしさや外見の美しさ、センスかもしれません。または、動物より人間の方が、またはホームレスよりましという存在の比較かもしれません。
このように知覚すること自体が、優越感を抱いていることになるのではないかと「奇跡のコース」は問いかけています。
わたしたちは、欠乏感・無力感が優越感と同じだということを認めなければなりません。もしかしたら、わたしたちは、自尊心から「〇〇ができる。〇〇が得意!」と優位性を味わったのではなく、その裏にある欠乏感・無力感を隠すために必死に優越感にしがみついていたのかもしれません。
「これが私の支え」だと信じて生きてきたとしても、本当は恐れが元になっている経験が愛に変わるということはありません。
「奇跡のコース」では、この支えのことを特別性と表現しています。
私を支えるもの・・恋人、家族やペット、仕事、名誉や地位、あるいはアルコール、友人、師匠など、人や物なんでも特別性の関係になり得るのです。

特別性の終焉

心に恐れを抱えているために、支えが必要なので特別な関係を築く・・。
その関係が変わった時、わたしたちは喪失感に陥ることになりかねません。
わたしたちは特別性をどのように変化させることができるのか「奇跡のコース」は教えてくれるでしょう。

心の中の思いのパワー

わたしたちは心の中で思うことのすべてが、どんな力を持っているかに気づいていないようです。自分で気づいていない思いも含めて、例えば、ちらりとかすめる思い、とりとめなく通り過ぎる思い、そのどれもが限りないエネルギーの源なのだといいます。その源のエネルギーは、必ずなんらかの結果をもたらします。どんな発言も考えなしにされることはないし、どんな知覚も源なしに体験しないのです。思っているだけで、顔に出さないようにしているとか、いざこざが起きるから言わないようにしていると人はいいますが、すべての思いは投影されます。そのような思いのパワーを信じたくないのは、わたしたちのエゴが全力でそのパワーを否定しているからです。
今まで、こころのパワーを使わずに、身体を使って思考を使って知覚してきましたが、自分のうちにある心のパワーにもっと焦点を当てることで、力強く、そして静かな平安と愛に気づくことができます。

まとめ

わたしは、大いなる創造主のパワーを認め、自分のうちにある神のエネルギーを信じることに決めました。人生の折り返し地点です。向きを変えて進むと決めました。真の自己という完璧さが備わっているとわかっている自分が進む道です。
知覚に、エゴにとらわれそうになった時、即座に注意を向けること、それを毎日、一日中行うことにしました。エゴに誘惑される時もあるでしょう。
でもきっと、同じ道を行くと決めた人がいます。旅は道連れ・・ともにいきましょう。 また、この道に気づいていない人に出会っても、「きっと自分と同じようにいつか、折り返し地点に気づくだろう。」と信頼して愛を送りたいと思います。

その動機は愛か、それとも恐れか

ここまで、お付き合いいただきありがとうございます♡

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?