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瞑想はどこからきてどこへいくのか

この記事は聞きかじったものの単なる覚書です。

一なる世界

われわれにとって受け入れることのできる唯一つの観点は、現実の持つ二つの側面の双方―定量的と定性的、物理的と心理的―を矛盾なく受け入れ、両者を同時に包含できるような種類のものであると考えられる。

C.G ユング/W.パウリ『自然現象と心の構造』

ユングのシンクロニシティは上のような図で説明されます。物理的世界の因果(Space - Time)を破るような形で、精神的世界の因果(Causality-Synchronicity)というのが厳然としてあるのだ、と。

これは例えば夢で見たことが現実に起きるとか、死の予兆としてカラスが大量に現れるとか、そういうもののことのようです。気にかけていた患者が拳銃自殺した同時刻に、遠く離れたところにいるユングは、それを知らないはずなのに、頭に強い痛みを覚えた、というエピソードもあります。

精神の世界と物質の世界との一致が、時空、物理的な原因-結果を超えた形で現れる。共時性、シンクロニシティという概念はそのように主張します。

ユングとの共著の中で、物理学者のパウリは次のように述べます。近代科学以前の科学、錬金術や占星術では、精神-物質の間には相互作用がある、という前提で世界の探求が行われていた。ケプラーの発見は、その中で三位一体という宗教的概念から直観を得てなされたが、自分の量子力学における発見もまた、元型の集合的無意識からの表れとしてなされた。全てが記録されている人類全体の無意識のデータベース、そこからイメージが浮かび上がってくることによって、科学的発見は成されるのだ。

そしてパウリは、精神の世界と物質の世界、この両者を含んだ将来の科学として、Unus Mundus(一なる世界)を、上のように夢想します。

量子力学の観測問題

シュレーディンガーの猫

スピリチュアリズムについて調べたことのある人は、彼らがなぜか量子力学が大好きなことに気づくと思います。観測によって量子の状態が確定するということは、他ならない精神が、物理現象に影響しているということであり、物質の世界とは違う精神の世界が厳然としてあるということの証明なのだ、と彼らは言います。そしてそれを土台にして、あらゆるスピリチュアルな物事を真実として扱っていきます。

これはもちろん、その因果関係がまったく証明されていない疑似科学なのですが、観測問題を始めとした量子の"奇妙な"性質が、量子力学が建設されていく最中にあった科学者たちの関心を、東洋の神秘思想へと誘ったことは事実です。

物理学者のボーアは勲章に太極図を採用しているし、陰陽の相補性(光と影のように、相反する要素がコインの裏表のように一体となっている性質)という概念は、たしかに波と粒子の二重性を持つ量子の世界とよく似ている。東洋の神秘的な思想が、なんらかの真理を指し示しているのではないか。そんな風に当時の物理学者たちは考えたようです。

神秘主義の系譜

唯一神は全ての生命に内在し、唯一神は永遠の魂(命の木)である。

神秘主義というのは、簡単に言うと神秘的な体験をその根幹に置いているような思想や宗教のことです。古代ギリシャの時代には既にエレウシスの秘儀と呼ばれる儀式があったようです。デメテルとペルセポネの神話に基づいた死と再生を擬似的に体験する儀式で、秘儀と呼ばれるだけあって、その全容がどのようなものだったかの資料は残されていません。

ユダヤ、キリスト、イスラム各宗教にも神秘主義の宗派があります。手法は様々なのですが、神との合一を儀式を通じて経験する、という最終目的は共通しています。キリスト教神秘主義は直接神を見るという性質上、教会の権威を脅かすため、弾圧されることが多かったようです。

さて、それで私は、今書いた古代の儀式や伝統宗教における神秘主義について何も知らない。なので、ここから仏教について書く。個人的に仏教が最強だと思っているからだ。さっきwikipediaを見てきたのですが、キリスト教等の神秘主義でも瞑想を手段として用いてるっぽいです。もし強そうだったら誰か詳しく教えてください。

一滴の水の衝突は、アートマンとブラフマンのたとえとしてよく用いられる。

さて、東洋においてはバラモン、ヒンドゥー教の聖典であるヴェーダに付随する奥義書として知られるウパニシャッドが、紀元前800年頃からまとめられはじめました。アートマンたる自己とブラフマンたる宇宙が本質的に一体である、という主客合一の真理を説いています。

初期のインド哲学であるこのウパニシャッドの思想は、バラモン教と分かちがたく結びつきながら、インドにおいてさまざまな形で引き継がれ、発展していくことになります。

サーンキヤ学派とヨーガ学派

サーンキヤ哲学における世界展開(二十五諦)

バラモン教、インド哲学には六の学派があります。そのうちのサーンキヤ学派とヨーガ学派は、密接に関係しています。ヨーガ学派は身体的な行によって解脱を目指しますが、その哲学的な基礎づけはサーンキヤ学派によってなされているからです。

プルシャ(真我)とプラクリティ(自性)という二つの存在があり、プルシャがプラクリティを見ることによって、全ての事象が展開されている、というのがサーンキヤ学派の主張です。見るものと見られるものがあり、見られるものが見られることによって全てが展開されている。

プルシャは、純粋観照者と訳されることもあります。この訳語は少し興味深くて、見ることと照らすことは不可分である、というニュアンスがあります。照らすことによって見ることができる、あるいは、見ることによって照らすことができる。明らかでないものを見ることはできないし、見ることのできないものは明らかでない。確かにそんな気がしてきます。

ヨーガ学派は、このようなサーンキヤ学派の世界観を継承し、私達が本来はプルシャである意識を、プラクリティから展開されているものだと錯覚していることが、輪廻から脱することのできない原因なのだと考えます。

そして、そこから脱すること、世界には純粋観照者だけがあると身体的な実践の経験を通じて理解すること、これを解脱と定義します。ヨーガには様々な種類がありますが、最終的な目的はこの一つです。

仏教は、このようなインド哲学の異端として現れます。

ブッダ

釈迦牟尼仏、ギリシャ仏教様式、c.  西暦1~2世紀、ガンダーラ

ブッダが実際どういう人物で、何を語っていたかに関して、二千年以上議論されてなお確かな結論が出ていないため、ここでは通説を中心にいい加減に書きたいと思います。要するに、私にとって都合のいいブッダ。

ブッダは、当時アツかった形而上学、世界はどのような原理で成り立っているかについての根拠のない仮説について、ほとんど何も語らなかった珍しい思想家です。彼のこの特徴は"無記"という言葉で語られます。語り得ぬものに対して、沈黙しているように見えるためです。

当時、様々な国がひしめいていたインド北部の王族として現れた彼は、主流だったインド哲学の六派を否定し、さらに六師外道と呼ばれる異端の人々すらも否定し、自らの経験を通じて理解した、精神の構造について語ります。彼の焦点は一貫して、苦はどのように生じているのか、それを滅するためにはどうすればいいか、という実践的な部分にあったようです。

ブッダは、仏教となる考えを悟る以前に苦行を積んでいることからも分かるように、ヨーガ学派の考えを部分的に受け継いでいます。

ヨーガ学派において実践されるヨーガは、サーンキヤ学派の形而上学と密接に結びついており、したがってその目的は輪廻からの解脱にありました。一方でブッダは、最終目的は解脱としながらも、苦を滅することに重点を置きます。

苦がどのように生じてくるのかを理解すれば、苦を滅することもできる。ブッダはこのことを様々な形で説明しようとします。すべての物事は移り変わるものであり、したがって確固とした自分というものは存在しない、身体を観察し、感覚を観察し、心を観察し、事物を観察し、すべては無常であることを理解せよ、と。(四法印、四念処)

ブッダがこのような苦の構造、無常の哲学について語る一方で、もう一つ重視したことがあります。ヨーガや瞑想によって入ることのできる特殊な集中状態、サマーディ(三昧)です。

ブッダの教えを忠実に守ろうとする上座部仏教において重視されている考えに、正見があります。これは八正道と呼ばれる八つの指針で最初に提示される概念なのですが、内容はシンプルで、四法印のような真理を、正しく理解すること。これだけです。

しかしながら上座部仏教は、これこそがヨーガと仏教の最大の違いであると言います。ブッダは、ただ考えを巡らせるだけで正見を実現できるとは考えていなかった。特殊な集中状態、サマーディに入り、そしてこの真理を改めて見ることによって、本当の智慧として正しく理解できるのだ。ヨーガはサマーディに入ること自体が目的だが、仏教では智慧を得るための入り口に過ぎない、と彼らは主張します。

サマーディの段階

花輪をかぶったパタンジャリ像。ヨーガ・スートラの作者

5世紀頃に成立したヨーガ学派の教典ヨーガ・スートラは、それまでのヨーガの集大成とされており、現在においても基本教典の一つとして扱われるのですが、内容は仏教の影響を強く受けています。煩悩、四無量心など仏教の概念が全くそのまま記述されている部分も多いです。

仏教とバラモン、ヒンドゥー教は、たとえばサラスヴァティというヒンドゥの神が弁財天としてそのまま仏教に輸入されていたりすることからも分かるように、相互に影響し合っています。

それにしても、他宗教の概念がそのまま入ってるのは結構びびります。ちなみにヨーガ・スートラには超能力が得られるという記述もあるのですが、すべて教えを広めるための嘘でしょう。ヨーガを極めた結果、空を飛べるようになった人間は、今のところストリートファイターの中にしかいません。

こういう何でも受け入れてしまう感じ、厳密な論理を追求していたと思ったら、唐突な飛躍が矛盾としてやってくる感じは良くも悪くもインド哲学の特徴のようです。

さて、そんなヨーガ・スートラには様々な「集中の段階」が書かれています。単純に対象に集中している状態(ダーラナー)、対象に絶え間なく集中し、対象と自分が一体化し始めるほどになった状態(ディヤーナ)、対象と自分が完全に一体化した状態(サマーディ)。集中が増せば増すほど、より深い領域に入っていくようです。

この最終段階であるサマーディにもさらに様々な段階がある、とヨーガ・スートラは言い、色々書くのですが、仏教と共通する部分が多い上に仏教のほうが細かく分類しているので、以下では上座部の経典であるパーリ仏典における四禅と九次第定を引用します。

四禅 - Wikipedia

それで私は、これらの境地について何も知らない。ともかく上の図を見ると、諸欲とかは要するに煩悩でしょう。尋と伺は色々解釈があるんですが、めちゃくちゃ大雑把にまとめて"思考"ってことにしておきます。喜と楽は強烈な歓喜、至福として感じられる何か、です。

したがって、初禅はサマーディだが思考と喜楽がある、第二禅は思考がなくなり喜楽がある、で三、四で喜び、楽の順に消えていく。そんな感じでしょうか。第四禅の段階を不苦不楽と言います。

この上にさらに空無辺処識無辺処無所有処非想非非想天、などがあり、さらにその上に滅尽定があり、さらにその上に悟りの境地である涅槃があります。どうせ誰もたどり着かないからテキトー言ってるだけでは?と思ったのですが、瞑想ガチ勢の話を聞くにそうでもないっぽいです。

仏教では不苦不楽までを色界、そこから上を無色界と言い、これはよく天界の階層性と結びつけて語られます。ここでの"色"とは色即是空とかの色だと思います。自分が感じられるこの世の全ての現象。

空は、露の滴のような比喩でよく説明される。

無色界の境地についての描写を読んでいると、一切の作為のない無限の虚空(空無辺処)、認識の果てが無い状態(識無辺処)、いかなるものもそこに存在しない(無所有処)、全てがあるのでもないのでもない(非想非非想天)、といった描写がされています。この虚空、何ものも無いという感覚と、その果てしない広がり、無限性に、無色界の特徴があるようです。そしてそれらは、あるのでもないのでもない。

大乗仏教において重視される"空(くう)"という概念があるのですが、これとこの無色界の境地は似ているように見えます。全ての事象は縁起、常に変化する関係性の中で、絶え間なく生成と消滅を繰り返しているのであって、個別の実体というものは存在しない、という考えのことです。

つまり、何かが何かとして存在しているのは、それが織り込まれている他のすべての事象との関係があるからであって、他の事象から独立した確固とした実体というのは存在しない。私は、私の周りのあらゆる事物との関係の中で、私として存在しているのであって、それらから独立した私というものはない。したがって私は、どこまでも広がっているし、あるとも言えるし無いとも言える。

フラクタル図形は、部分に全体が含まれる限りない入れ子として描かれる。

空は、般若心経や華厳経において繰り返し説かれます。華厳経では四法界という四つの段階に分けたり、重重無尽の縁起、一即一切、といった言葉を使ったりして、なんとしても理解させたいという気迫が感じられます。蝋燭を丸く囲うように置かれた十個の鏡の一つは、部分であると同時に全体を含んでいる(鏡灯のたとえ)。部分は全体、全体は部分。鏡の中の鏡の中。

さて、サマーディの話に戻るのですが、このように見てくると、サマーディにおいて重要なのは、サマーディ自体というより、集中の対象となるものを上手くコントロールすることにあるように思えます。

ゲームをやっていたらサマーディに入り悟りを開いた、と主張する人を見たことがないのはそのせいでしょう。ゲームではなく、真理に集中しなければならない。

魔境

マーラ。煩悩の化身で悪魔。解脱を果たす直前のブッダの前に現れ、それを妨害しようとした。

瞑想中に神秘的な体験をしたとき、自分は神と同じか、それ以上の特別な存在だと思い込んだり、自分の力で何でもできると錯覚したりすることがあります。これは魔境と呼ばれます。

基本的に全能感を与える啓示として現れる、とされるのですが、瞑想中の重要でない神秘体験すべてのことを言ったりもします。視界の歪みやはっきりとした声、甘い匂いや味、幽体離脱の体験、白い鳩の群れが降りてくる、金色の蓮の上に座っているブッダが見える、などなど。魔境における幻覚は多種多様なようです。

これらは魅力的であったり、恐怖を与えるものであったりするわけですが、それに囚われてはならないと常に言われます。目的はあくまで解脱、悟りであって、魅力的な幻覚ではないのだ、と。臨済宗の臨済などは、仏を見たなら仏を殺せとまで言っています。

霊感

『亡霊を見た私の目』作: アウグスト・ナッテラー

先日とある瞑想会に出たとき、そこに集まっている人たちは霊感が強い人、スピリチュアリズムに縁のある人が多かったのですが、その人たちの話を横で聞いていると、霊感や霊的現象というのは、それが現れる素質のある人にとっては、どうしようもなく現れてきてしまうもののようでした。

望まなくとも感じてしまうので、それについて考えざるをえない。生活が送れなくなるほどではないが、普段から不思議な体験をしたり、幻覚を感じたりすることを、どう捉えたらいいのか。幻だと言われても、それが見えている私にとっては確かにあるのだ。

現在の社会において、その方法論が確立されているとは言い難いと思います。そういう人たちにとって、スピリチュアリズムや宗教的な考え方は、単なる興味ではなく、生きていく上で必要なものなのだ、とそのとき理解しました。

チャクラ

クンダリーニ、チャクラ、ナディ

チャクラのルーツはヨーガ学派にあります。体内に気道、ナーディと呼ばれるエネルギーの通り道があり、そこを通るエネルギー、気をコントロールすることで、様々な効果を得ようとするこの概念は、インド、チベット、中国のような地域では一つの考え方として受け入れられています。

精神と身体は関係しあっている。チャクラや気は、そういう素朴な発想からきているようです。身体の状態が良いときは精神の状態も良い。そして悟った精神、サマーディの精神状態があるとするなら、サマーディの身体状態というのもあるだろう。そこへヨーガを通じて向かっていこう。

これは非常に重要な発見で、また同時に、この考えに基づいたヨーガは非常に強力なものとして知られています。効果は高いが、危険性もある。きちんとした知識、できれば指導者について行わなければ、身体に様々な不調をもたらす、と言われます。

インドの仏教において、チャクラや気はその修行法に取り入れられていました。日本で馴染みがないのは、最澄や空海のような仏教を輸入した高僧が、この考え方を取り入れなかったためです。あるともないとも分からない気の概念を受け入れがたかったのか、単に地域や年代の問題なのか、理由はわかりませんが、とにかく日本仏教は気を取り入れなかった。

なので、現在の私たちには「スピリチュアル系の人が言ってる怪しい概念」程度の理解しかありません。

クンダリニー・ヨーガ

ハタ・ヨーガの後期クンダリニーモデル。ハタ・ヨーガ プラディーピカで説明されている。

さて、この気の概念を導入したのがハタ・ヨーガと呼ばれる流派なのですが、その中の奥義とされる手法にクンダリニー・ヨーガがあります。これは性的エネルギー、つまり性欲をエネルギーとして昇華させて体内に上手く流して、望ましい身体の状態を作っていこう、という手法です。

このクンダリニーのエネルギーは、尾てい骨付近にあるチャクラ、ムーラダーラに眠っていると言われており、まずこれを覚醒させる必要があります。そして覚醒したクンダリニーを気道を通じて上昇させ、各チャクラに上手く流れるようにすると、様々な効果が得られます。

たとえば下腹部のあたりにあるスワディスターナにエネルギーが流れ込み、スワディスターナチャクラが開くと、異性にモテるようになるそうです。まあ、そういうことにしておきましょう。

そして様々なヨーガを行い、身体の中心を通っているスシュムナー気道の性質を理解し、気道を浄化し、気を上昇させ、気道をふさいでいる三つの結節、へその下辺りにあるブラフマ結節を破り、胸のあたりにあるヴィシュヌ結節を破り、眉間のあたりにあるシヴァ結節を破り、頭頂部の千の花弁を持つ蓮華であるサハスラーラチャクラへと十分に気を集めると、強烈な歓喜が訪れ、頭部からアムリタと呼ばれる至福、エクスタシーを与える液体状の気が体中に流れ出します。

クンダリニー・ヨーガの成就者は、このとき生じる至福と"空"は、同じものであると主張します。

チベット密教

サムイェにあるパドマサンバヴァの像。本人が「私に似ている」と言ったらしい。

インドで起こった仏教は、教義が理解しやすいヒンドゥー教におされたりしていたので、ヒンドゥー教の考え、気を取り入れたりして頑張っていたわけですが、異民族の侵攻やイスラム教の浸透もあって、7,8世紀あたりから衰退し始め、11世紀ごろには大規模に寺院が焼き払われ、13世紀にはほとんど消滅することになります。

この衰退期のはじめ頃、8世紀あたりにインドからチベットへと渡った密教行者の一人がパドマサンバヴァです。彼の持ち込んだ密教は、後にチベット密教の最も重要な経典群である無上瑜伽タントラとしてまとめられていきます。

密教というのは、簡単に言うと修行を積んだ僧侶にだけ教えられる仏教の教義、修行法のことです。インド仏教において、効率の良い修行法が求められる中で、ヒンドゥー教などと混ざり合いながら作り出されました。

パドマサンバヴァが持ち込んだ密教は気を取り入れたものであり、そして、クンダリニーの概念が全面に出たものでした。彼はタントラヨーガという男女の性交時のエネルギーを昇華させることによって解脱を得る、という修行法を導入し、かつ実践していきます。

ヤブユムという男女の性交を描いたシンボル。チベットと周辺の国々において見られる。

男女の合一は、象徴的な意味において、密教で繰り返し説かれる概念です。日本密教でも女性原理を表す胎蔵界曼荼羅、男性原理を表す金剛界曼荼羅の二つは、重要な曼荼羅であると考えられています。女性原理は智慧、男性原理は方便を表す。智慧は修行を通じて解脱へと至るための理解、方便はそれを人々に広め救済するための方法です。

チベット密教においても、観想法(イメージを心に思い浮かべる瞑想)を中心とした父タントラ、気のコントロールを中心とした母タントラ、そしてそれらの統合を図る不二タントラがあるというように、形を変え様々なところに現れます。そして常に、それらは統合されるべきものとして扱われます。あるいは、最初から一つであるというように。

パドマサンバヴァの持ち込んだタントラヨーガは実際、強力だったようなのですが、同時に僧侶の堕落を招くことになります。めちゃくちゃ大雑把に言うと、ヤバい妄想しながらヤバいセックスするわけなので、まあ必然かなという気もします。

ツォンカパ、16 世紀、ルービン美術館

その後も色々あるのですが、結局、現在もチベット仏教最大の学僧と称されるツォンカパという人が14世紀ごろに現れ、これをおさめることになります。彼の創始したゲルク派は、チベット仏教最大の宗派となり、世界で最も厳しい戒律を持つ仏教宗派と言われるようになります。

彼は無上瑜伽タントラの再解釈を通して、パドマサンバヴァが実際に行ったタントラヨーガ、性瑜伽は、あくまで象徴的意味を持っているだけであり、実際に行うものではない、として退けようとするのですが、同時にクンダリニーの重要性を認識してもいました。性的エネルギーは重要だが、安易な修行は堕落を招く。

このような中で作り出されたのが、楽空無差別という概念です。これは無上瑜伽タントラ全体を貫いているEVAMという様々な意味合いを持つ概念を、ツォンカパが再定義したものの一つです。

ここでの楽は、クンダリニー・ヨーガにおけるサハスラーラへのエネルギーの流入によって生じる至福のこと、空は瞑想において、サマーディを経て空の認識へと到達した状態を指すと思われます。そしてツォンカパは、この二つが無差別、つまり同じものであると言います。より正確には、至福の本質として"空の真意"が現れ、それらが結合する、と。

そしてこの至福は、単なる性的快感による忘我ではない、と強調します。しかしながら、ツォンカパの性瑜伽に対する態度はかなり曖昧で、はっきり言えば、単なる快感と"楽"の区別がきちんとつくのであれば実践してよい、と言外に示しているようにも見えます。

ともかくここにおいて、楽と空、ヒンドゥー的伝統の終着点と仏教的伝統の終着点は完全に結びつき、本質的に同じ、一つのものなのだと理解されたのです。

おわり

唐突ですがおわりです。チベット仏教における興味深い概念は双入とか幻身とか他にも色々あるのですが、14世紀のツォンカパが現在でも最大の人物とされていることからもわかるとおり、このあたりがとりあえずの終点に見えます。

こんな風に書いてきたわけですが、私自身は短時間の簡単な瞑想をしているだけで、なんの神秘体験もしていません。しかし、ちょっと興味が湧いてきています。

以上のようなことがらは、読むだけではわかりません。客観的事実の世界ではなく主観的経験の世界、物質の世界ではなく精神の世界の話だからです。この文章を最後まで読んでくれた人にとっても、同じだろうと思います。理解するためには、自ら経験する必要があるのです。

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