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仏教とサイケデリクス

前の記事の続きです。

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あなたは自分の心が鍵となるドアに遭遇しました。あなたに指導をしてくれる人は誰もいません。これらの試練はあなただけで克服するものです…自分自身を見つけてください。そうすれば、このページの背後に隠されているものが見つかるでしょう。この先には理想郷のようなものが広がっている。

これは蜃気楼です。

PsychonautWiki

DSMと臨床心理学

なぜDSM-5を使うのか[教養] 精神科・精神医学のWeb講義

精神疾患の診断には、身体疾患と異なり検査等で客観的な基準を定めることができないため、同じ患者でも医師ごとに全く診断が異なる、という困った側面がありました。ここから、精神医学は科学ではないといった反発を特にアメリカでは受け、根拠のない民間療法とセットになった反精神医学の台頭を招くほどになります。

DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)は、そのような状態を生じさせず、同じ患者に同じ診断をくだし、同じ治療を提供することを目的として作られました。

精神科で診察を受けた人であれば、あっさりとした問診で簡単に処方が決まっていくことに驚いたことがあるかもしれません。それはDSMが症状だけを見て、条件に何個以上当てはまったらこの病気、というような操作的診断によって成り立っているためです 。そこでは、現在の精神医学においては扱うことのできない病因や内面については、あまり考えないことになっています。

Wikipedia - 認知行動療法

カウンセリングを扱う臨床心理学においても、内面をできる限り扱わないというトレンドがあります。これは現在の臨床心理学の方法論が、精神分析への反動からきていることもあるようです。精神分析は、特に20世紀半ばのアメリカにおいて、その有効性をめぐってかなり批判的に扱われてきました。時間がかかるくせに、大して患者が良くならない。

その過程で生み出された様々な心理療法(交流分析、認知療法、来談者中心療法、ゲシュタルト療法、などなど)から、現在主流となっている認知行動療法などが作られていきました。認知行動療法において扱われるのはクライアントの認知、考え方の癖のようなもので、それに伴う感情、あるいは行動を自覚し、負担の少ない形に修正していく、ということが行われます。

これは無意識や欲望を構造的に扱い、精神全体を対象とする精神分析とは異なるアプローチです。認知行動療法は、たしかに表層しか扱っていないのですが、その有効性は様々な形で確かめられています。時間もかからないし、クライアントの助けになる。扱いようのない内面を扱うよりも、実践的だ。こうして内面を扱わない、という現在のトレンドが形成されることになります。

意識のスペクトル

意識のスペクトルの概要図。下に行くほど境界が消失し、より大きなものと意識が繋がっている。

トランスパーソナル心理学は精神を、個を越えた領域まで扱おうとする心理学の一分野です。神秘体験や変性意識などを研究対象としており、ヒッピームーブメントが盛んになった1960年代から70年代のアメリカで発展していきました。

この分野から現れたアメリカの思想家ケン・ウィルバーは、様々な意識状態を"境界の消失"という捉え方で統一的に説明する『意識のスペクトル』を、23歳で発表します。

これはざっくり言うと、人の精神というのは、たとえば精神分析的に考えると意識と無意識という二つの領域に分かれています。この両者を隔てている境界が消失すれば、統合された精神全体というものが現れてくる。これをもっと広い領域に適用していき、精神と身体という境界が消失した状態をケンタウロス、他の生命との境界が消失した状態を全有機体、宇宙全体との境界が消失した状態を統一意識、という風に定義していきます。このように二元から非二元へと至ることをウィルバーは、意識の進化である、と言います。

そして、それぞれの意識状態にはそれぞれに適した方法論があるとして、それらをマッピングしていったのが上の図です。精神分析のように狭い領域を扱うものは自我のレベルに、神や宇宙と一体となることを目的としている神秘主義は統一意識のレベルにあります。

これは賛否両論あるのですが、ばらばらに見える精神を扱う方法論を、意識のスペクトルという視点から見れば統一的に理解できる、と提示した点で、画期的だったようです。

神秘体験の分類

Psychedelic Mystical & Transpersonal Experience Tier List

さてそれで、急にTierリストになります。英語圏ではAstronaut(宇宙飛行士)になぞらえて、幻覚剤や瞑想を用いて精神を探求する人々をPsychonaut(精神航行士)と呼んだりするのですが、その情報をまとめたPsychonaut Wikiというものがあります。上の動画は、その創設者であるJosie Kinsによって作成されたものです。

彼女は幻覚剤(サイケデリクス)を用いて10年以上、毎週のようにトリップしてきた経験をもとにして、その体験を上のTierリストに分類しました。ここで述べられている内容はSubjective Effect Indexにまとめられているのですが、載っていない部分もあるため、重要だと思う部分について説明したいと思います。

サイケデリクスについて全く知らない人のために、サイケデリクスの危険性は以前、過大に捉えられていたこと、近年では見直しが進み、いくつかの精神疾患に対して有効であることが確かめられていること、主要な(?)サイケデリクスに関しては、身体的な害も依存性もほぼないとされていること、などを伝えておきたいと思います。また、この記事は違法行為を助長する目的で書かれたものではありません。

それと、サイケデリクスによるトリップと瞑想による体験が同じであるかどうか、は現在でも議論があるところです。しかし、私は同じようなものだと思うので、だいたい同じだという前提でこれから色々書く。

海の無限性は、統一性と相互接続性の比喩としてよく用いられる。

さてTierリストなのですが、ランク付けは社会や人々にとって有益かどうか、で決められているようです。最も重要なのはSにある目玉のやつです。これはUnity and interconnectedness(統一性と相互接続性)と呼ばれる効果なのですが、仏教における"空"とほぼ同じであると考えていいと思います。境界が消失していった結果として、最終的には宇宙と自分との区別がなくなり、すべては繋がり合っているのだと理解する。これはすべては縁起による空である、というのと同じです。

統一性と相互接続性とは、通常は別々であると考えられているものが実際には相互に接続されている、または完全に同じものであるという感覚を指し、特に個人の自己意識が、通常は別々であると考えられる 1 つまたは複数の概念を含むように拡張されているという感覚を指します。たとえば、人は自分自身と周囲の環境の間に本当の分離が存在しないように感じるかもしれません。

この経験は、そもそも自己と周囲の環境の間に真の分離が存在していたという幻想が取り除かれたものとして解釈できます。この幻想の破壊は、ある種の深い「目覚め」または「悟り」として説明されることがよくあります。

一体感や相互つながりの感覚は、LSD、DMT、アヤワスカ、メスカリン、ケタミンなどのサイケデリック化合物や解離性化合物の影響下で最も一般的に発生します。ただし、よく練習した瞑想、深い瞑想状態、集中力の高い状態でも発生することがあります。

Unity and interconnectedness

これがなぜ重要なのかは、だいぶ怪しい話として後で書きます。Josie Kinsはその理由について詳しく述べていませんが、これは人類にとって大きなインパクトを持つ、ぐらいに言っています。

サイケデリクスには、自分だと感じている何か、自我とか自己とか意識とかなんでもいいのですが、そういう自分が自分だと感じているものを縮小、ないし完全に消滅させる作用があります。Tierで言うならBにある目玉だけのアイコンのAbsent Selfhood(自己の不在)がそれを意味します。自分がなく、知覚だけがある。

なぜこの状態が生じるのかは誰にも分からないのですが、私はこれが神秘体験の最も中核にあるものだと思います。自分というフィルターが失われるにつれ、知覚を解釈する余地がなくなり、知覚そのものと一体となっていく。意識としての自分が縮小していくにつれ、無意識が拡大されていく。自分という境界が失われ、すべてと繋がる。

サイケデリックス(Psychedelics)は、ギリシャ語の精神や魂 psychē と、目に見える・現れる dēlos の組み合わせであり、「魂を顕現させる」という意味である。

これはサマーディにおいて説明される自分と対象との一体化と、ほぼ同じような状態です。だからこそ悪い対象に集中すると、どこまでも悪い体験をすることになってしまう。ここでも集中の対象をコントロールすることが重要になってきます。まあ、できないのですが。

自分が消失した状態で、どんな観念や感情に焦点が合うか。これによって多様な神秘体験のうち、どれを経験するかが決まってくる。そしてそれは、自分というフィルターを通さず、ありのままにその対象を見るということでもあります。その対象が宇宙なのか自分なのか、美しさなのか、虚無なのか恐怖なのか、ということです。

Sの目玉と対になっているChad(金髪の男)がいますが、これはPerception of the self as illusion(自分が幻想であることの知覚)で、周りにある世界と切り離された確固とした自分が存在するという感覚は、精神が見せている幻想に過ぎない、という知覚です。すべては繋がりあっていて固定的な実体はなく、自分も例外ではない。仏教的に言うと諸法無我でしょうか。

 Josie Kinsはさらに踏み込んで、これは自由意志が幻想であることを意味する、と言っています。多くの人がそのように自分をみることで、社会は利益を得られる、とも。

中国哲学では、混沌から陰と陽が生じることで天地が作られたとされる。

Aにある陰陽図はPerception of interdependent opposites(相互依存する対立物の認識)を示すアイコンです。存在と非存在、生と死、上と下、自己と他者といった対立する概念は、一見、別々なもののようでいて、実際には一つなのだ、という感覚です。これはまさに陰陽を表します。対立する概念がコインの裏表のように不可分であるという理解。

隣にあるドミノも興味深くて、これはPerception of predeterminism(事前決定論の認識)を表すのですが、要するに全ては必然として決定されており、自由意志はないとする決定論のことです。それが感覚としてやってくる。

これは仏教で因果と呼ばれる考え方に非常に近いです。仏教ではすべてのものは因果、原因があって結果があり、その結果が原因となって次の結果が生じていく、という無限の連鎖によって、すべては必然として現れる、という考え方をするからです。

もう少し話すと、DにあるサングラスをかけたプラトンのアイコンはPlatonic conceptualization(プラトンのような概念化)を表します。ある概念が、最も純粋な形をとって知覚される。これはなんらかの洞察が得られるものではないのでDにあるのですが、美しさのようなポジティブな概念で起こると、良い体験になることもあると述べられています。同時に、"言いようのない恐怖"へとつながるものでもある。いずれにせよ、これはプラトンのイデア論と似ています。

このように、哲学的概念は神秘体験から理解できることがあります。

自然を前にしたときの孤独感や無力感は、実存の危機においてよく見られるものです。

一般にバッド・トリップとされるのはCにある黒ずんだdoomerが示しているExistential dread(実存的恐怖)と、Bの死神が示しているPerception of death(死の知覚)だろうと思います。実存的恐怖は世界の無意味さへの気づき、圧倒的な虚無感で、死の知覚は自分が死ぬという強烈な感覚がやってくることです。

死の知覚は、実は受け入れて通り過ぎることさえできれば、隣りにある赤ん坊が示す生まれ変わりの体験へと繋がっていくことが多いようです。そしてこれは、Aにある赤いアイコンの、Reduced fear of death(死の恐怖の緩和)へとつながるものでもある。なので、必ずしもバッドとは言えない面があります。

実存的恐怖は、トリップから戻ってきても尾を引く場合が多いようです。Josie Kinsはここから新たな意味を自分で作り出すことさえできれば良い体験と言える、と言ってますが、同時にとんでもなく悪い体験でもあり、長い間この精神状態の中にいることは、その人にとって悪い影響しか与えないとも述べています。

このアートワークは…幾何学ベースの自律的実体の正確な例として機能します。

個人的に、Aのスマイリーフェイスが表すUnfathomable beauty(計り知れない美しさ)が好きです。自然の風景でも幾何学模様でも、トリップの最中に見えているものがこの上なく美しく感じられる。これの良いところは、現実に戻ってからも、その美しさの認識が無くならないことがある点です。たとえば自然の美しさに打たれたら、戻ってきてからも自然の風景が好きになる。

このまま全てのアイコンの説明をしてもいいのですが、動画を見れば分かるので省略します。D以下の体験は様々ありますが、すべて魔境みたいなものとして切り捨てているのが印象深いです。ヘビーなサイケデリクスユーザーほど、このあたりの体験を真実として信じている人が多いように見えるからです。

たとえば、Dにある不思議な目のアイコンは、神聖な存在の知覚を意味するのですが、これはAutonomous entity(エンティティ、自律的実体)とも呼ばれるもので、特にDMTやマジックマッシュルームを使った際に遭遇することが多いようです。圧倒的な神聖さや美しさ、そして比類なき知性を持った存在として知覚されます。普通に生きていて、このような存在に接する経験は誰にとっても無いため、圧倒されてしまうのです。

なぜ幻に過ぎないものを信じてしまうのかといえば、本質的に現実と区別できないものだからです。私たちが現実だと感じているものは、究極的には脳の中で生成されている幻に過ぎません。現実は幻だし、幻は現実なのです。サイケデリクスによって引き起こされる体験は、現実以上に現実的に感じられることが少なからずあります。そこに神がいるとしか思えない現実が、実際に目の前に現れる。

テレンス・マッケナ。サイケデリクスによる体験を客観的に記述しようとした、魅力的なアジテーター。Youtubeには講演の録音が無限にある。

仏教的には、その人の自我を肥大させ、自分は特別な存在なのだと錯覚させるようなものは魔境として退けられます。シンクロニシティも、高次元の存在としての自分も、宇宙は自分が作っているという感覚も、テレパシーも啓示も、自律的実体も、すべて溺れてはならない幻である、ということになるでしょう。空だけが重要だ。

Josie Kinsはマッケナ症候群という精神状態を説明しています。サイケデリクスを用いたときに生じる、疑似科学的で奇抜な理論を作りたくなる強い衝動。これはマジックマッシュルームを広めたテレンス・マッケナの名前からきています。そしてこれは大体バッドだ、と言います。その人の現実との接点を失わせてしまうから。

個人的に、これらは本当に退けられるべきものなのだろうか、とも思うのですが、今は二千年以上の歴史ある仏教とJosie Kinsを信じることにしましょう。

余剰次元

五次カラビ・ヤウ多様体の断面図。ここで弦が振動していると超弦理論では考える。

物理学における四つの力(電磁気力、重力、弱い力、強い力)を統合する究極理論と思われている超弦理論では、余剰次元という高次の空間の存在が前提とされています。極めて小さな領域においては、六次元の空間が折りたたまれるように存在している。その上で弦が振動していることにすれば、すべての素粒子、力は説明できる。

余剰次元は、超対称性粒子においても現れます。様々ある素粒子のそれぞれにはスピンの異なる超対称な素粒子が存在する、と仮定すると、重力以外の三つの力をきれいに統合できる。このとき、超対称な素粒子は、通常の素粒子が余剰次元へ入っていくことによって生じる、と考えます。

ブレーン宇宙論の概要図。高次のバルクの中に膜、ブレーンである通常の宇宙が浮かんでいる。

このような考えの延長として、ブレーン宇宙論というものがあります。これは超弦理論から考えられるシナリオの一つとして、階層性問題、重力はなぜ他の力に比べて弱いのか、を説明するために導入されました。ブレーン宇宙論では、私達が宇宙だと考えている三次元空間の宇宙は、より高次の空間であるバルクに浮かんでいる膜、ブレーンのようなものであると考えます。そこに重力を司る弦が染み出しているから、重力は他の力と比べて弱いのだ、とブレーン宇宙論は言います。

重力は、通常の量子論(原子や電子などのミクロなスケール、量子の領域で物質がどのように振る舞うかを扱う)においては無視できるほどにその影響が小さいため、正面から扱われてこなかったのですが、ブラックホールのような特異な領域においては、その存在が無視できなくなります。量子的な振る舞いと重力の効果が強力に混ざり合っているからです。

つまり、マクロに重力を記述する一般相対論とミクロなスケールを扱う量子論を統合しなければ、ブラックホールのような領域を正確に記述することができない。これは宇宙の始まりの理解にも繋がってくるため、この統合が物理学における重要な問題として位置づけられています。

ある時空に含まれる情報は、その内部ではなく表面に蓄えられるとする原理

そのような中で、ブラックホールにおける重力を説明するのがホログラフィー原理です。これはブラックホールの重力を、宇宙の果てにある重力を含まない二次元平面から投影されている情報によって記述するというものです。まるで三次元空間が、ホログラフィーとして照射される幻にすぎないかのように。

さて、それであなたは宇宙論について書き連ねて何が言いたいのか、と思われているかもしれません。もちろん言いたいことはあるのですが、それを言ってしまうと一線を越えてしまうため、言うことができない。

ともかく余剰次元や、宇宙は投影された情報かもしれない、といった考えについて、物理学では実際にありえるものとして考えなければならなくなっている、ということです。

人間原理と純粋観照

ホイーラーは、現実は観察者によって創造され、「観察される現象でなければ、どんな現象も本当の現象ではない」と示唆しました。

TierのSにあったこの絵なのですが、これはジョン・ホイーラーという物理学者が人間原理という立場から、Participatory Universe(参加型宇宙)という考えを提唱する際に用いた図が元になっています。

人間原理とは、宇宙の物理法則が知的生命が誕生するのに都合がいいように見えるのはなぜか、という問題を考える際、その理由を宇宙の側ではなく、観測している人間の側に求める立場のことです。これの極端な立場においては、人間が観測しているから宇宙が存在している、と主張されることもあります。

ホイーラーは20世紀初頭に生まれ、マンハッタン計画に参加し、量子論の基礎を築いた人物です。ワームホールという言葉は彼が作りました。この時代の物理学者にとって、観測問題をどのように解釈するかはアツいテーマだったようで、ホイーラーの参加型宇宙もその流れにあります。観測によって状態が確定するのだから、宇宙は人間の観測という行為と、一体となって成立している。

ホイーラーがヒンドゥー哲学を知っていたかは分からないのですが、これはもちろんサーンキヤ学派の考えに似ています。見るものと見られるものがあり、見られるものが見られることによって全てが展開される。

サーンキヤ学派の思想は8世紀ごろ、シャンカラという人物によって不二一元論へと発展させられることになります。プルシャとプラクリティ、見るものと見られるものは一見、別々に見えるが、本当は分かちがたく結びついている一つのものなのだ。これはヴェーダーンタ学派として、その後のヒンドゥー哲学において主流の思想となります。

空と慈悲

各チャクラの位置。1.ムーラダーラ 2.スヴァディスターナ 3.マニプーラ 4.アナーハタ 5.ヴィシュッダ 6.アージュニャー 7.サハスラーラ

後期密教において煩悩は、気道の詰まりによって生じると考えられています。これは気道の集まりであるチャクラの詰まりでもあり、それぞれのチャクラの詰まりが、それぞれに固有の煩悩を生み出します。ムーラダーラが詰まっていたら物欲が、スヴァディスターナが詰まっていたら性欲が、マニプーラが詰まっていたら食欲が生じる、というように。

気は、中央の気道においては、身体の下から上へと流れると考えられています。煩悩を満たすと詰まっていた気が解放され、チャクラに到達しなくなる。よって煩悩は一時的に収まりますが、気が溜まってくるとまた詰まりが生じて、煩悩も生じる。射精で考えると分かりやすいです。

この詰まりは、過去の悪い行為によるカルマによって生じるとされます。カルマによって気道が汚れ、そこを気が通ろうとすると摩擦のような現象が起こり、煩悩が生じる。したがって気道を浄化しなければ、煩悩からも解放されず、煩悩から解放されなければ苦を滅することはできない。

気道を浄化するためには、仏教的に正しい考えを持ち、正しい行動をし、瞑想やヨーガなどの修行をし、自分や周囲の環境を清浄に保つ(周りが汚れていると悪い気が入ってくるとされるので)こと、などが必要とされます。

ナーガールジュナ。空の思想を作り、大乗仏教の礎を固めた。

さて、このように気道を浄化し、気を上昇させて頭頂部のサハスラーラへと通すことと、空の認識とは、本質的に同じことを意味しました(楽空無差別)。そしてサハスラーラへ気が通ると歓喜、至福が生じる。

通常の人間は煩悩を満たすことによって快楽を得るわけですが、ここにおいてそれが逆転しているのが分かります。つまり、煩悩を満たすとカルマが生じて気道が汚れ、歓喜が失われてしまう。慈悲を実践して徳を積むと、気道が浄化され歓喜が生じる。煩悩によって不快になり、慈悲によって快楽を得る。

空がなぜ重要なのかといえば、それが煩悩の破壊、苦の消滅という仏教の根本的な目標に繋がるからです。自分と他人を区別することによって我執、自分への執着が生まれ、そこから煩悩が生じ、苦が生じます。したがって、自分と他人を区別する境界を消失させる空の認識は、仏教において最も重視されることの一つだと考えられます。自分と他人を区別しないからこそ、自分のための欲である煩悩ではなく、他人のための欲である慈悲が生じる。

そのように人間を作り変えること。これが空の本質です。

そしてこれは現在の社会において主流な、過剰な競争と私的所有から快楽を得るという価値観と、真逆であることがわかります。他と分かち合ってこそ本当の喜びが得られる。このような"目覚め"を通して人々の価値観が根底から、否応なく変わった結果として、オルタナティブな社会が形成される。これが本来、仏教が目指していたところなのだと思います。

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