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「雨を知るもの」を読む。誰にとっての「事件」だろうか?

(秋田柴子先生がやまなし文学賞佳作を受賞されました。
読者の内の一人として、僭越ではありますが、お祝い申し上げます。本当にご受賞・ご出版おめでとうございます!
 以下の感想と考察は少しネタバレが含まれますので、未読の方はご注意下さい)



 小説を書いていると、意識的にも無意識的にも「事件とはどんなものか」と考えるようになる。

 ミステリー小説でも純文学でも、大抵の場合、話の中心にあるのは事件である。何故なら、事件を通じて人間関係が変わり、その前と後ろとを検討してはじめて、「この小説は人物たちをどこへ連れて行ったのか?」が考えられるようになるからだ。

 事件を通じて人間関係が変化しないならば、それはどんな「事件」だろうか?読者のぼくにとっては「事件」でも、誰かにとっては「日常」だったりするのだろうか?そんな風に、わりと理屈っぽいことも考えてしまう。

 秋田柴子先生の「雨を知るもの」でも、他の小説と同じように中盤で事件が起きる。事件に伴って、人間関係も変化する。しかし、なにかがこれまで読んできた小説と違う独特のものが、読んでいて残った。それを少し考えてみたい。

 主人公は、高校1年生の桃子。彼女のクラスに、小泉さやかという転校生が転入してくる。「宝塚の男役のように中性的な」ミステリアスな雰囲気のある、大人びたさやかは、転校早々、図書室に入り浸ろうとする。しかし、あるきっかけで(流れで?)桃子とさやかは友情を育んでいく。この作品は、桃子から見たさやかを描く、という構図になっている。

 桃子とさやかが少しずつ友情を育んでいく。その過程で、さやかの意外な能力が明らかになる。そして、その能力が周囲の人間に知れたとき、さやかは、閉鎖的なコミュニティ全域でいじめや疎外を受けることになる。

 ネタバレになるので詳しくは語れないのが非常にもどかしい。この「事件」の受け止め方に、独特なものがあったのだ。

 さやかは自分の能力について、桃子に打ち明ける。(どんな能力かは実際に読んでみてたしかめてみて下さい)

「うん。幼稚園ぐらいまでは普通に親や友達に言ったりしてた。でもみんなが驚いたり怖がったりするし、時にはいじめられたりもした。だから途中から言わなくなったけどね」

樋口一葉記念第三十一回やまなし文学賞受賞作品集収録・秋田柴子「雨を知るもの」146ページ

 その後、彼女の能力は周囲に知れ渡り、学校でも街でも排斥されることになる。「異質」「化け物扱い」という言葉が文中には並ぶ。ただ、いじめの被害者であるさやかはどこか達観している。彼女にとってはさんざん繰り返されてきたことで、人生そのものがデスロードのようなものなのだからこれくらいのこともあるだろうと割り切っている。桃子に助けを求めることもないし、親も介入して来ない(ちなみに両親とは別居している)。

 それに対置して、抗議の声を上げたり、周囲に対抗するのは一方的に桃子のほうである。さやかが阻害されることで、友達として力になれないじぶんに悩み足掻く。

 青春時代にこんな目にあったら人生の大事件の筈だ。ただ、いささか理屈っぽいことを書くが、さやかにとっては「事件」ではなく、通過すべき「日常」だったのではないだろうか。村八分にあう前と後で、さやかはほとんど性格や考え方に変化がない。雨のなかを傘もささずに歩く姿も描写されるが、悲壮な感じよりしなやかさや強靭さが勝っている。

 では、この小説で描かれたのは桃子にとっての事件だったのだろうか?

〇「雨を知るもの」で描かれる閉鎖性

 著者の秋田柴子は、受賞時の言葉で「常に頭にあるテーマのひとつに「閉鎖性がある」と語っている。実社会から家庭に至るまでどこにでも貫きえるテーマだ。「雨を知るもの」においても、どこかで寛ごうにも「コンビニかせいぜい駅前のスタバくらい」しかない、恐らく地方の街が閉鎖性を醸している。

 そうだよな、どこの社会も程度の差こそあれ「閉鎖性」はあるよな……とため息をつきたくなるような展開が待っている。僕も恐らく閉鎖的な場所にいるし、宇宙衛星や監視カメラから、僕の身の回りを見たら「なんだ、反省しているこいつもこいつで閉鎖性に加担しているヤツの一人じゃん」と感想を抱いてしまうかも知れない。「雨を知るもの」で描かれる街は、じぶんの住んでいる社会と共振しうる普遍性で描かれている。読んでいて、たしかに感じる雨の匂いと共に、そういうことなのだな、と思う。

 異質なものを排除しようとする村社会的なやっかみや噂話。加害側でもある桃子の母親の反応や、噂話をする同級生のシーンは、決して「凶悪!」という感じではない。微温的ながら、神経質な善意にもとづいた、生々しい言葉が出てくる。それらコミュニティ内の描写はどこか寓話的でもあるが、不思議と没入してしまう、おそろしい魅力に満ちている。

 ところで余計な話で申し訳ないのだが、この小説を読んだ後、高校生の頃のことを夢に見てしまった。小説を読んだから……という因果関係があるのかはわからないが、僕も昼休みは図書室に直行している人間だったのでございます。10代の時に辛い日々を送った人の話を聞くことがたまにあるのだが、30代でも40代でも60代でも、鮮明に、時には引くくらいに生々しく記憶されていて、やはり、子供の頃の不遇というのは一生引き摺るものなのだなと感じる。もし、あそこで苦しんでいた自分に、さやかのような特殊な能力があれば、それは間違いなく自分を支えただろうなと思う。

 この小説では「雨」が重要な意味を持っている。雨は時に「閉鎖性」の象徴のようにも感じられるし、実際にそのような雰囲気で描かれてもいる。しかし、さやかにとって雨はそうではない。本文中の言葉を借りるなら、彼女の能力は雨と関係していて、「なにかとの共存」を表すものだ。もしかしたらさやかは、雨によって癒されてきたともいえるのではないか。

〇もう一度、「誰にとっての事件だったのか?」を問う。

 もしかしたら、小泉さやかという人間からすれば、今回の「事件」はひとつの日常でしかないかも知れない。だからこそ毎日図書室に通って、「経済的に自立」しようと努力している。茨の道である人生や環境から脱出するための努力だ。
 
 しかしいっぽうで、この日常の厳しさのなかで彼女は人間を見る目を鍛え上げてきたのではないか?だからこそ桃子という稀有な友達を、さやかは発見できたのではないか?と、言えるような気もする。

 そのように勝手に考察してみると、小泉さやかは、「雨を知るもの」として日常を通過したのかも知れないが、その過程でいくつかギフトを受けとってもいたのかも知れない。桃子という良い友達と出会えて良かったね……と言いたくなる。桃子と出会えたことは、小泉さやかにとっては嬉しい誤算であり、誤算を通過してまた日常に戻るという彼女の人生にとっては、かけがえのない友情こそが最大のできごとだったのかも知れない。いじめや村八分なんかよりも、友達との出会いのほうが重要なのだ。もしさやかにとって「事件」があるならば、寧ろそのことだろう。

 こうして、やはり深読みしてしまうのは、小泉さやかの内面が、本人の視点から描かれないからでもある。そのミステリアスな余白としての存在である「小泉さやか」が、非常に不思議な魅力をもっていた。

 

 色々考えたり批評したけれど、そんなことはいいんだよ、と思うくらいにシンプルにストーリーが楽しかった。本作が収録される「樋口一葉記念第三十一回やまなし文学賞受賞作品集」には3つの受賞作が掲載されているが、「雨を知るもの」は、もっとも没入しやすいストーリーラインで、今から散歩に行って雨の匂いを嗅ぎに行きたくなるような、なんとなく登場人物の真似をしたくなる普遍性があった。

 著者の秋田柴子先生は、note内でもご活躍されています。たくさん面白い小説を掲載されているので、是非、夜長の季節に読まれてはいかがでしょうか。個人的にマスターピースだと思うのは「BARほど素敵な隠れ家はない」です。


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