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勝利は正義 敗北は否定 勝敗が全ての世界も、どちらも美しく表裏一体

格闘技の大会ごとに更新となっており、試合や大会ありきの記事となっていた最近の私のnote。

そのような記事というのも良いが、久しぶりにドル箱会場で生観戦をし、改めて格闘技の面白さや魅力を体感したということで、格闘技の醍醐味というか、私が個人的に感じる格闘技の魅力の1つを書かせてもらっている。

私個人の考えで、書きやすくはあったが、主観タラタラの記事なので、「こんな風に格闘技を捉えている人間もいるのだな」というくらいで読んでもらえたらと。

私のこの格闘技の見方に共感できるという方がいたり、この記事を見て、格闘技への新たな視点として頭の片隅に残って、今後の格闘技観戦が充実したりなどされる方がいたら嬉しい限りだ。


格闘技を見るということ 格闘技には人を惹きつける力がある

私の生活の1部となっているのが格闘技を見る事。
私自身、高校入学と同時に、適度な運動がしたいというほどの理由で始めたキックボクシング。そんな高校入学時から6年ほどの月日が経ち、今では格闘技をやること、見ることがないなんて考えられないくらい格闘技に取り憑かれてしまっているが、私のように少し格闘技に触れさえすればどっぷりとのめり込んでしまうほどの魅力と中毒性があるのが格闘技だ。

そんな格闘技を見るというか、スポーツ全般そうだろうが、現地観戦か中継かになるだろう。
私の格闘技観戦においては、現地観戦では後楽園やGENスポーツパレスがほとんど、その他には中継やYouTubeに上がるもので格闘技を日常的に見てい触れているわけだが、RIZIN.42を生観戦にて久しぶりのドル箱、そして初めてのRIZIN生観戦をしてみて改めて格闘技の勝敗の部分における勝敗以上のことを感じ取れ、またこれまで以上に格闘技の魅力に取り憑かれたはず。

そんな私が感じる格闘技の魅力の1つをここに書き記したい。

勝利と敗北 残酷な現実が突き付けられる世界の中に美しさあり

スポーツ業界では当たり前のことだが、結果が出せなければ生き残れない。
どんなに知名度があろうが、どんなに目立とうが、勝ちがない者は生き残れない。
知名度先行型と言われるような選手も出てきている昨今のSNS時代だが、その選手らも、ここぞという試合や落としてはいけない試合などではしっかりと勝ちを拾っており、ある程度結果は出している。

勝者は讃えられスポットが当たる。

敗者はやってきた事が否定され、潔く戦いの場から退場する。

スポーツの結果にはこの対照的な側面があるからこそ、こだわらなくてはいけないし、見ている側も勝敗に面白さを見出す。

そんな明確に出てしまう結果があるスポーツ界だが、格闘技に関しては他のスポーツよりも1つ1つの結果が左右するものだと私は考えている。

サッカーや野球、バスケなどはシーズンを通してのリーグ戦がゆえに、負けがあっても優勝が可能。
シーズン最終試合時点で既に優勝確実で消化試合となることも珍しくない。
どんな形でさえ優勝してしまえば、その年の1番ということで評価され1つのタイトルとして価値がつく。

だが格闘技にはそれがない。
シーズンスポーツじゃないがゆえの残酷さというのか、1つ1つの試合がその選手個人の価値となる。これが他のスポーツにはない格闘技の魅力だ。

結果が全て 勝利が持つ絶対性

スポーツは勿論、勝負事においては勝利と敗北では当たり前の如く勝利を皆渇望し目指す。

勝利というのは持つ意味が大きい。
勝利した方が支持され、優位に立ち、主導権や権利を持つことができる。

そんな勝利が持つ意味が明確に絶対的なものとなった試合というのが格闘技には存在すると考えており、私の独断と偏見で3つ選ばせてもらっている。

• 青木真也 vs 廣田瑞人

• 小澤海斗 vs 芦澤竜誠

• 萩原京平 vs 平本蓮

この業界、勝利が全てであることが感じられる試合の大きな特徴が1つある。
それは、〝試合が終わればノーサイド〟という概念が見られない試合。

試合前からトラッシュトークで火花を散らし、試合後も握手を交わさず、挙句マイクやパフォーマンスで対戦相手にリスペクトを感じられないことをする。
スポーツマンシップとしてどうなんだという意見や考えも分からなくないが、やはりそこが他のスポーツでは表現できない格闘技の醍醐味。

勝者は何をしても良い。許される。
相手を讃えようとも、ノーサイドの意志を示そうとも、やはり嫌いだと敗者に更なる追い討ちをかけようとも。
これが勝者に与えられる権利や優位性である。

試合後のリスペクトのない言動から更なるストーリーが続く可能性も大いにあることも考えると、この格闘技にしかない醍醐味を無くしてはならないだろう。

残酷な敗北の中にある美しさ

過酷な練習や減量、プレッシャーに打ち勝ち、リングに上がった選手は皆勝者。
こんなような考えもあるわけだが、そんなものは選手本人からしたらただの綺麗事で、第三者だからこその考えだろう。

負ける事が意味する事はいくらでもあり、考えるだけで厳しい。

練習量が足らなかった。
報われるほどの努力ではなかった。
今までやってきた事が否定された。

挙げるとキリがないのでこの辺にしておくが、そんな敗北の姿を見て心打たれることも多々あり、その中でも私一推しの試合を挙げている。

• 寺地拳四朗 vs 京口紘人

• ゲンナジー•ゴロフキン vs 村田諒太

他にも挙げたい試合は沢山あるが、あえてこのボクシングの2試合を挙げさせてもらう。

拳四朗vs京口はアマチュア時代からの因縁。
アマチュアでは拳四朗の勝ち越しで京口にとってはいつも立ちはだかる壁として拳四朗がいたはず。
そんな壁をプロのリングで。世界タイトル統一戦で。
だが、プロでも結果は変わらず、さらにKOでプロ初黒星を喫するという残酷な幕切れ。

またゴロフキンvs村田に関しては、村田が追いかけ続けたゴロフキンとの対戦にこぎつけるも明らかな力の差で厳しい現実を知る結果に。

この敗北に美しさを感じる試合というのは、敗北の姿やシチュエーションが残酷であればあるほど増すものだと私は考える。
なぜそう感じてしまうのか自分でもわからない感覚だが、唯一これだけは言える事として、これは格闘技独特の魅力ではないだろうか。

勝者も敗者も輝く試合

 「試合をしてくれてありがとう」

長年望まれてきて、負けたら失うものが大きすぎるであろう試合に臨むことで、試合後はこのような感情に我々ファンをさせてくれた試合。

それは言わずもがな那須川天心 vs 武尊だ。

このような感覚の試合は本当に稀だろうし、他にあるだろうか、そして今後あるかどうか。

勝った天心は全てを戴き、格闘技全勝で気持ち良くボクシングへ転向。

負けた武尊は、本人としては負けた瞬間に今まで築いてきた全てを無くなってしまうという恐怖に襲われただろうか、そんな事は一切なく、ファンの心を鷲掴み、誹謗中傷や批判の声を無くし今までやってきた事を報わせてみせた。

2人が長年築き上げてきたものを試合という形として答えを出した事がファンの心を震わせ、勝者敗者関係なく讃えられ、両者ともに輝く試合となったのだと私は思っている。

このような考えを持って格闘技を見ると、試合の勝ち負けだけでなく、試合前のトラッシュトークや勝敗が出た瞬間の選手の姿、その後の裏側密着映像などをより楽しめると思うので良かったら、このような見方もあるということで参考にしていただければ。

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