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はじめに―コンテンツ紹介

※一部無料コンテンツもありますが、大部分は有料コンテンツです。こうしたコンテンツを提供するためには資料代や時間がたくさん必要だからです。有料ならではのクオリティをお約束します。他では絶対に読めない史料ばかりです。

目次

1、【全訳連載】パット・ギャレット著『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯

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※ビリー・ザ・キッド関連地図はこちら

2、【全訳連載】パコ・アナヤ著『ビリー・ザ・キッド、最後の日々

3、【全訳完成】ジョン・ポー著『ビリー・ザ・キッド、死の真相

4、【抄訳】エマソン・ハウ著『無法者の物語

5、【抄訳】ジョン・P・メドウズ『ビリー・ザ・キッドに関する私の個人的回想』

6、【抄訳】ミゲル・アントニオ・オテロ『ビリー・ザ・キッドの真実の姿

7、【雑誌記事】『タイム誌』1941年8月4日号特集「ビリー・ザ・キッドに関する真実

8、【新聞記事】ビリー・ザ・キッドに関する新聞記事

※各種新聞記事について年代ごとにまとめたシリーズ

9、【新聞記事】『モーニング・オクタゴニアン紙』1931年5月28日「ビリー・ザ・キッド」の友人が初期西部について語る

10、【新聞記事】『モーニング・オクタゴニアン紙』1881年のビリー・ザ・キッドの死に関する3記事

11、【随時更新】西部開拓時代資料集

12、【完成】ジェロニモ自伝

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13、サポートが集まれば新しいコンテンツを追加

※推薦図書:The West: An Illustrated History(図版が非常に豊富なので英語が読めなくてもそれなりに楽しめます)


詳細内容

1、【全訳連載】パット・ギャレット著『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯

発行は1882年、ビリーを殺害したパット・ギャレットが著者。ギャレットによる序文に続き全23章と補遺から構成される。近年、再刊された時にJ. C. ダイクスによって「パット・ギャレットと彼の本」という序文が新たに付け加えられている。その序文自体については新たに著作権が生じるので概要のみ紹介する。

『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯AUTHENTIC LIFE OF BILLY THE KID』は、ビリーがヒーローとして祭り上げられる風潮に対抗して「真実」を伝えるために出版された。ギャレットはビリーを殺害した悪者だという評判が立っていたからである。著者はギャレットとされているが、実際は友人のアッシュ・アプソンが大部分を書いている。アプソンは、ビリーの母と一緒の下宿に住んでいたことがあり、ビリーの少年時代について知っていると述べている。

ビリーが殺害した人々の数について「メキシコ人とインディアンを含まなければ21人」となっているが、それはギャレットの指摘によるものではなく、『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』1927年版に寄せられた序文で新たに付け加えられている話である。ギャレット自身はキッドがアメリカ人を12人殺害したとしている。ただ1881年7月21日に発行されたビリーの死亡記事にはすでに「[ビリーは]人生で毎年毎年ひとりずつ男を殺したと自慢していた」と書かれている。

いったいどれだけの人間をビリーが殺害したかは諸説ある。16人という話もあれば、ギャレットに撃たれた時は26才で26人を殺害したという話、23才で撃たれて23人を殺害したという話もある。そして、1897年に発行された『ザ・ストーリー・オブ・ザ・カウボーイ』という本で21才で死亡して21人を殺害したという説が定着した。

現代において最も確実とされる検証では、ビリーが殺害した人々の数は多くても9人である。その中にはメキシコ人もインディアンも含まれていない。ビリーがメキシコ人やインディアンを殺害したという信頼できる記録がないからである。


2、【全訳連載】パコ・アナヤ著『ビリー・ザ・キッド、最後の日々

原題は『I BURIED BILLY』。1989年のことである。ビリー・ザ・キッドの死の現場に居合わせたパコ・A・P・アナヤ(1862年生まれ)の息子であるルイス・アナヤは、ビリーの最後の日々について父が残した記録があると語った。ギャレットによって射殺される前の数週間、ビリーはアナヤとともに過ごしてさまざまなことを語ったという。アナヤがビリーとの会話を紹介するという形式で展開する。原文はスペイン語。

もともと公刊を考えて書かれた記録ではないので話の筋道や文章の整理が不十分な点がある。また保存状態が悪かったせいか判読不明の部分もある。ただビリー本人が語った言葉を直接読めるという点では非常に貴重な記録だと言える。


3、【全訳連載】ジョン・ポー著『ビリー・ザ・キッド、死の真相

作者のジョン・ポー(1851年生まれ)はリンカン郡の特別保安官補佐に任命されていた人物であり、ビリーの殺害現場に居合わせた。ギャレットが引退した後に保安官に選出されている。ビリーの死について数多くの問い合わせを受けたポーは、自らの回想をまとめて1919年に発行した。


4、【抄訳】エマソン・ハウ著『無法者の物語

エマソン・ハウ(1857年生まれ)が記した『無法者の物語』は、1907年に刊行された西部開拓時代に関する古典的作品である。ハウは小説家として知られ、取材旅行のためにニュー・メキシコを訪問してパット・ギャレットの案内を受けている。西部開拓時代をいろどるさまざまな事件について直接関係者から取材した貴重な記録である。ギャレットがどのようにビリー・ザ・キッドを殺害したかについてもハウはギャレットに直接取材している。全22章の中から第16章と第18章を抄訳。


5、【抄訳】ジョン・P・メドウズ『ビリー・ザ・キッドに関する私の個人的回想』

ジョン・P・メドウズ(1854年生まれ)は、テキサスからニュー・メキシコに移り住み、カウボーイとして働いていた。その中でビリー・ザ・キッドやパット・ギャレットなどの人物と直接知り合う機会を得た。1930年代にビリー・ザ・キッドが映画やミュージカルで大々的に取り上げられるようになる中、ビリー・ザ・キッドの本当の姿を伝えるために回想を新聞に公表した。全19章の中から第1章、第2章、第3章を抄訳。


6、【抄訳】ミゲル・アントニオ・オテロ『ビリー・ザ・キッドの真実の姿

ミゲル・オテロ(1859年生まれ)は、1897年から1906年にニュー・メキシコ準州長官を務めた人物である。長官から退任後、3巻からなる回顧録を刊行している。さらにオテロは1936年に『ビリー・ザ・キッドの真実の姿』を発行した。その目的は「誇張もなく事実に基づいて」キッドについて書くことであった。オテロが初めてキッドの姿を見たのは1880年12月のことである。その時、キッドはギャレットにサンタ・フェまで連行される途中、ラス・ベガスを通った。オテロはラス・ベガスからサンタ・フェまでの道中に同行した。ビリー・ザ・キッドの事績については『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』と重なる部分が多く、独自の内容を含む第7章、第9章、第10章、第12章、第13章を抄訳。

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