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ビリー・ザ・キッドの真実の姿―第9章 リンカンが記憶するキッド

※ミゲル・アントニオ・オテロ『ビリー・ザ・キッドの真実の姿』に関する詳細は『ビリー・ザ・キッド史料アンソロジー』についてでまとめています。

郡庁所在地がキャリゾゾに移転して以来、リンカンの町は衰退しているが、多くの古い建物がまだ健在である。町の西外れにはマーフィーとドーランのものであった店がある。その店はリンカン郡戦争の直後、郡によって 購入されて郡庁舎として長い間使われていた。近年、郡庁舎は教室として使うために改修されたが、多くの点で半世紀前と同じである。リンカンを貫く広い道に沿ってたくさんのを日干し煉瓦の建物が散らばっている。その大部分はリンカン郡戦争から10年か20年後に建てられたものである。タンスタールとマクスウィーンの店の建物はまだ健在であり、外見はほとんど変わっていない。二つの店の間にはマクスウィーンの家があったが焼失した。今ではその痕跡を見つけることは困難である。 東に半マイル[0.8km]の地点にエリス邸と店がある。エリス邸に向かう途中、リンカンを訪問する者は、今は住居として使われているモンターニャの店を通り過ぎることになる。その扉にはナイフで「キッド」と刻まれている。インディアンの[勢力が強かった]時代に身を守るために築かれた古い塔もある。リンカン郡戦争においてその塔は、タンスタールの店とマクスウィーンの家を見下ろせる場所にあったのでマーフィー一味によって狙撃地点として使われた。

我々は、タンスタールの店から通りを隔てたボニート・インで一夜を過ごした。この建物は、騒動が収まった後にジェームズ・J・ドーランによって築かれ、数年間、ドーランの住居として使われていた。それから全面的に改修されてホテルになった。

翌日早朝、私は多くの血が流された場所を見に行った。少年に出会った私は、ミゲル・ルナの家がどの方角にあるか質問した。私にはミゲルが必要だった。リンカンを見て回って戦争について知っている人々を見つけるための最高の案内人にミゲルがなってくれると私は考えていたからだ。ミゲル・ルナ自身は当事者ではない。戦争が終わりを迎えた直後、ミゲルはまだ幼い頃にリンカンにやって来て、その後の数年間に起きた出来事をいくつか目撃した。ビリー・ザ・キッドが牢獄から逐電した日に彼は通りで遊んでいて、その事件についてよく記憶している。私は彼が最もすばらしい案内人だとわかった。

朝食の後、我々は、リンカンの北西3マイル[4.8km]のボニート川のほとりに住んでいるヒギニオ・サラザールの家に向かった。私は彼と話したかった。なぜなら彼はマクスウィーン一味の数少ない生き残りの1人だからだ。炎上しているマクスウィーン邸から逃亡しようとした時にマーフィー一味にどのように撃たれたのか、そして、気を失って地面に倒れていた時にどのように殺されずに済んだのか、彼は快く話してくれた。では彼にそのことについて話してもらおう。

「マーフィー一味の1人であるアンディ・ボイルという名前の男が何度も私を蹴って私の体を踏みつけた。奴の重いブーツのせいで私はあやうく圧死しかけた。私が本当に死んでいるのか、それとも死んだふりをしているだけなのか確かめようとして奴はそうしたようだ。私は大きな苦痛を味わって、水が飲みたくて狂ったようになっていた。しかし、もし私が少しでも動けば、奴らがピストルかライフル銃で至近距離から私を撃って息の根を止めようとするはずだと私は十分にわかっていた。アンディ・ボイルは私の胸にライフル銃を突きつけて引き金を引こうとした。その時、『ピアース爺』と呼ばれているマーフィー一味の別の男が『こんな奴のために銃弾を無駄にするな。奴はもう死んでいる。また後で銃弾が必要になるからな』とアンディ・ボイルに呼びかけた。その声のおかげで私の命は救われた。私はしばらくその場で死んだふりをしていた。その間、私は大きな苦痛をずっと味わっていた。その長い間―数時間がまるで数日のように感じた―勝ち誇ったマーフィー一味はウイスキーを飲みながら猥雑な歌を歌って死者―マクスウィーン、ハーヴェイ・モリス、ヴィンセント・ロメロ、そして、フランシスコ・ザモラ―の周りで踊っていた。奴らは恐れ知らずだった。なぜならダドリー大佐と兵士たちが奴らを守るためにそこにいたからだ」

「奴らはいくつかのランタンに点灯して死体を調べた。奴らは死体をひっくり返して笑いながら銃弾で空いた穴を指差した。奴らが私をひっくり返した時、私は嬉しかった。なぜなら何時間も仰向けの姿勢を保っているのにすっかり飽きていたからだ。苦痛が非常に激しかったので、奴らが私をひっくり返した時、私は呻き声を抑えるのに必死だったが、私が死体であるという印象をなんとか保った。最後には奴らは全員酔っ払ってしまって非人道的な楽しみを続けられなくなって止めてしまった。私は川に向かって這って行き、水を飲んだ。それから私は昏倒した。意識を取り戻した私はモンターニャの家に向かって這って行ったが、この近くに兵士たちがいるのが見えた。私はその場所は都合が悪いと見定めた。大量の血を失ったせいで私は再び気絶した。私が意識を取り戻した時、モンターニャの家から4分の1マイル[0.4km]離れた家々まで這ってたどり着いた。私の様子を見て怖がってしまった人々は、家の中に私を入れてくれなかった。なぜなら彼らは自分たちや女子供が傷つけられることを恐れたからだ。私の義理の姉妹であるニコラシタ・パチェコが私を家の中に匿った。彼女は、軍医を呼ぶためにフォート・スタントンに友人をすぐに送った」

「軍医が傷の縫合をしている間、私はマーフィー一味の手によってまたあやうく命を落としかけた。マーフィー一味の中でも極悪の殺人者であるジョン・キニーが他の3人とともに私の傷から滴り落ちた血の跡をたどって部屋まで追ってきた。キニーは私を殺したがった。もしアペル医師が『もしおまえたちがこの男を殺したら、おまえたち4人が絞首刑になるのを私がこの目で見届けてやるぞ』と言って奴の腕を掴んで家の外に引きずり出さなければ、きっと奴は私を殺していただろう。私の命が救われたのは、外科医としての腕前が優れているだけではなく人間として非常に勇敢なアペル医師のおかげだ。私は深刻な銃創を受けていたので再び働けるようになるまで6ヶ月もかかった」

「3日間の戦いとマクスウィーン邸の炎上は6人の男の死の原因となった。マクスウィーン一味の中では、アレグザンダー・A・マクスウィーン、フランシスコ・ザモラ、ヴィンセント・ロメロ、そして、ハーヴェイ・モリスが死んだ。マーフィー一味の中では、ボブ・ベックウィズとチャーリー・クロフォードが死んだ。3日間で数百発の銃弾が飛び交ったが、犠牲者は比較的少なかった。どの銃弾も優れた射手が殺意を持って放ったものだった。両陣営ともに50人はいた」

サラザールは、その後もマーフィー一味は自分を悩ませたと私に話した。彼は「奴らは私に対して難癖を何かとつけてきて、逮捕状を請求していた。奴らの目的は、私を困らせてこの地方から厄介払いすることだった。[私に対する]奴らの嫌がらせはたいしたことはなかった。奴らはキッドを主な標的にしていたからだ。キッドを捕らえるまで奴らは諦めようとしなかった。しかし、奴らはビリー・ザ・キッドを非常に恐れていたので堂々と追跡を実行できなかった。奴らはキッドが射撃の名手であると知っていたし、タンスタール氏の殺害に関して復讐しようとしていると知っていた。そこでマーフィー一味はキッドを闇討ちしようとした」と言った。

「奴らのためにビリーを追跡していたパット・ギャレットは自身が牛泥棒だった。フォート・サムナーの誰もがそれを知っていた。奴がビリー・ザ・キッドを追跡したのはお金のためであり、役職[保安官への当選]を約束されたからだ。奴は、多くの人々が思っているような勇敢な男ではない。奴は抜け目がなくてずる賢く、何よりも用心深かった。奴は、捜索対象の男に自衛する機会をまったく与えなかった。奴は自分と同じような荒くれ者の一団をいつも連れていて自分たちの命を運任せにするようなことはなかった。敵対者が不利な状況にいる時に撃つのがギャレットのやり方だった。奴は運が良かった。長い間、奴は生き残って大きな名声を得たが、最後には受けるべき報いを受けた」

マクスウィーン一味として戦っていた時にサラザールがキッドと親しかったことを知った私は、キッドについてどのように思っているのか彼に聞いてみた。彼は「ビリー・ザ・キッドは私が知る中で最も勇敢な男だ。彼は恐怖が何を意味するのかまるで知らないかのようだった。彼をよく知る者は誰もが彼を愛した。彼は親切であり、貧しい人々に良くした。そして、彼はどこにいようとも常に紳士だった。危険な状況に置かれた場合、彼は私が知っている中で最も冷静な男だった。彼は銃火のように行動した。彼は子猫のように機敏だった。彼が狙いをつけてピストルを発射すると、必ず何かが落ちた。彼は決して的を外さなかった。しばらくフォート・サムナーに住んでいた私は、パット・ギャレットがビリーを殺害した後に遺体を見た者がたくさんいると知っている。彼が生きていると書かれたものをいくつか読んだが、私はそんなものは信じない。ビリー・ザ・キッドの別人が生きていて、その者が自分自身を有名なビリー・ザ・キッドと結びつけようとしたのだろう。ピート・マクスウェルの寝室でパット・ギャレットによって殺されたのは、私が一緒に戦ったウィリアム・H・ボニー、すなわちビリー・ザ・キッドであることはまったく間違いないことだ」と熱狂的に答えた。

別れる前に我々はヒギニオ・サラザールとその妻、そして、孫たちの写真を撮った。我々はリンカンに戻って旧マーフィーの店[旧郡庁舎]を訪問した。建物の中を見て回った時、特に関心をひかれたのはキッドが閉じ込められていた2階の部屋であった。我々は、ベルの体を貫通した銃弾によって空いた穴を見つけた。 私は1883年に初めてリンカンを訪れた時のことを思い出した。私はジム・ブレントとスミス・リーの客人として旧郡庁舎に泊まった。2年前にビリー・ザ・キッドが逃げ出した同じ部屋である。すべての部屋に寄った後、我々は広い道に出てタンスタールとマクスウィーンの店に歩いて行った。店の中を見て回った後、我々はタンスタールとマクスウィーンの埋葬場所に案内されたが、残念なことに彼らの墓所を示すようなものは何も残っていなかった。彼らの正確な埋葬場所はどうやら知られていないようだ。

リンカンで手に入れられる情報をすべて入手した後、我々はリンカン郡ルイドソに向けて出発した。道は東に向かって伸びていた。いくつかの興味深い場所を通り過ぎた。その中の一つがリンカンから8マイル[13km]離れた場所にある旧ブレイディ邸である。ウィリアム・ブレイディの時代の痕跡は今は何も残っていない。道から南に400ヤード[360m]離れた場所にブレイディ保安官とジョージ・ハインドマンの墓所がある。元々の埋葬地はリンカンのマーフィーの店の近隣だったが 、ブレイディの家族が両者の遺体を家族の場所に移葬した。さらに道を数マイル進むと、フリッツの地所に出る。古い家は朽ちるままに放棄されているが、かつては豪勢な邸宅であったことをいまだに示している。フリッツの墓地は非常に興味深い場所である。ドーランはここに葬られている。彼が埋葬されているのは、チャールズ・フリッツの娘のリナ・ドーランと結婚したからである。

我々はホンドという小さな町まで旅を続け、それから西に向かって山脈の反対側に出た。我々は、サン・パトリシオの集落を通り過ぎた。緊張状態になったリンカンに滞在できなくなったマクスウィーン一味はそこを根城していた。サン・パトリシオの住民はビリー・ザ・キッドに対して非常に友好的であった。差し迫る危険があってもビリー・ザ・キッドはいつも温かく迎えられた。サン・パトリシオはかつてあった場所と同じ場所にあるわけではない。土地の所有権に関する争いのせいで腹を立てた住民が家を壊して近くに移転してしまったからだ。

8マイル[13km]先にジョージ・コー氏の家がある。コー夫妻は我々を心から歓迎して彼らの家であらゆる便宜を図ってくれた。コー氏はキッドの個人的な友人であり、リンカン郡戦争における多くの激しい戦いで隣り合って戦った。ジョージ・コー氏と親戚のフランク・B・コー氏は2人ともマクスウィーン側として戦争に参加した。ビリー・ザ・キッドに対する印象だけではなく、戦争におけるいくつかの出来事に関する鮮明な記憶があったので、ジョージ・コーの説明は非常に興味深かった。コー氏の言葉はとても面白い話となっている。

「タンスタールとマクスウィーンの陣営に私がどのように参加するようになったのか、そして、キッドとどのように関わり合うようになったのか最初にあなたに伝えておきたい。1874年に私はニュー・メキシコにやって来て、コルファックス郡のシュガリット川の分岐点に農夫として定住した。私は18歳のがさつな青年だった。その当時、コルファックス郡で戦争が進行中だった。マクスウェル・ランド・グラント社が定住者たちと対立していて、数百件の立ち退き訴訟が同社によって裁判所に提訴された。圧力に耐えかねた私は、1876年に定住を諦めて去った」

「私はリンカン郡に移って、ルイドソで農業を始めた。私は今もそこに住んでいる。ドク・スカーロック、チャーリー・ボウディー、そして、フランク・コーは全員、私の牧場の近くに牧場を持っていた。我々は全員若者であり、暮らし向きは良かった。我々は自分たちの環境に満足して幸せだった。当時の狩猟はすばらしかった。私はこの地方で最も腕利きのライフル銃射手だと見なされていて、隣人や私自身のために資料に多くの時間を費やした。誰もが家畜の牛を[食べずに]節約するために、我々は食肉の供給を主に野生動物に頼っていた」

「我々が定住した直後、リンカン郡戦争が激化し始め、私はすぐに自分が[コルファックス郡での戦争に続いて]二つ目の郡戦争に巻き込まれたと知った。ローレンス・G・マーフィー、ジミー・ドーラン、そして、ジョン・ライリーがリンカン郡の政治を動かしていて、サンタ・フェの有力者たちから後援を受けていた。マーフィー、ドーラン、そして、ライリーは荒くれ者の一団であり、ルイドソの入植者から牛を奪おうとしていた。奴らに雇われた者たちは、ジョン・チザムの牛の群れを襲撃して、不正に得たものをマーフィー、ドーラン、そして、ライリーに引き渡した。奴らはそれを政府に納入するために使った」

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