見出し画像

ジェロニモ自伝―第2部 メキシコ人 第6章 カス=キ=ヤ 後半 復讐

最初から読む

目次

我々が武器と物資を再び集めるとすぐに、我々の族長であるマンガス=コロラドは会議を開いて、すべての戦士達がメキシコに遠征したいと思っていると理解した。私は、この戦争に他の部族の協力を仰ぐ役割に指名された。

私がチョコネン(チリカワ)・アパッチ族のもとに行った時、彼らの族長であるコチズは早朝に会議を開いた。山中の谷間にある開けた場所に戦士たちが静かに集まってきて、地位に従って列を作って地面に座った。彼らは静かに座って喫煙していた。族長の合図で私は立ち上がって以下のように私の考えを述べた。

「近親者よ、あなた達は、最近メキシコ人が正当な理由なしにやったことを聞いているだろう。あなた達は私の親戚、すなわち叔父であり、従兄弟であり、兄弟である。我々はメキシコ人と同じく人間である。メキシコ人が我々に対してやったことを我々は彼らに対してやることができる。さあ前進して彼らの後を追おう。私があなた達を彼らの街まで先導する。我々は彼らの郷里で彼らを攻撃するだろう。私は戦闘の最前線で戦うつもりだ。私があなた達に求めることは、メキシコ人によるこの誤った行動に対する私の復讐についてくることだけだ。あなた達は来るのか。もしあなた達が全員来るならすばらしいことだ。戦争における規則を思い出してもらいたい。男たる者は生きて戻るか、 殺されるかである。もし若者達の誰かが殺されることになっても、私は彼らの親戚からの非難を受け入れない。というのは彼ら自身が行くことを選んだからだ。もし私が殺されても誰も私を悼む必要はない。もし必要ならこの地方で我が部族民が死ぬことになってもかまわないし、私自身も死んでもかまわない」

私は自分の集落に戻ってこの成功を私の族長に報告した。そして、すぐに南方にあるネドニ・アパッチ族の土地に向けて出発した。彼らの族長のホアは何も言葉を挟まずに私の言葉を聞き、会議を開催する命令をすぐに出し、すべての者達が揃うと私に話すように合図を出した。私は、チョコネン族に向かって演説したように彼らに向かって演説した。彼らも我々を支援することを約束した。

1859年の夏のことであった。カスキヤの虐殺の日からほぼ1年が経っていた。三つの部族がメキシコの国境に集まって遠征に乗り出した。彼らの顔は彩色され、戦いの鉢巻(頭の周囲に巻かれた約2インチ[約5センチメートル]の鹿皮細切れ)が彼らの額に巻かれ、彼らの長いスカルプ・ロック[『両アメリカのインディアン用語』には「頭頂部にある編まれて装飾された小さな円状の髪。スカルプ・ロック上の羽毛、貝殻、ビーズ、そして、儀礼的装飾は魂を表す。敵がスカルプ・ロックを奪った時、その者は対抗者の精神を屈服させたことになるが必ずしも相手を殺したわけではない。頭皮を剥がれた後に生き残った戦士は歩く死体のように扱われる」と説明されている](当時、メキシコ政府はアパッチ族の頭皮に報奨金、すなわち戦士の頭皮には100ドル、女性の頭皮には50ドル、そして、子供の頭皮には25ドルを与えていた)がまさに準備され、戦士のナイフは敵を圧倒する。彼らの家族はメキシコの国境付近の山間に隠れた。彼らの家族とともに護衛が配置され、もしキャンプが攻撃された場合に備えていくつかの集合場所が指定された。

すべての準備が整うと、族長達が前進命令を出した。誰も馬には乗らず、各戦士はモカシンを履き、腰を布で覆っていた。その布は眠る時に広げて使われた。行軍の時は衣服としてだけではなく防護物として役に立った。もし戦闘が激しければ、我々はたくさんの布を望まなかっただろう[遺体を覆うのに布を使うことから戦死者が少ないほうがよいという意味]。各戦士は3日分の食料を持っていたが、行軍中に獲物をしばしば殺した。食べ物がなくなることは滅多になかった。

我々は三つに分かれて行軍した。マンガス=コロラド率いるベドンコヘ・アパッチ族、コチズ率いるチョコネン・アパッチ族、そして、ホア率いるネドニ・アパッチ族である。しかしながら、各部族の中では決まった順番はなかった。我々は通常、1日約14時間行軍した。食事のために3回立ち止まり、1日に40マイル[約64キロメートル]から45マイル[約72キロメートル]進んだ。

私はメキシコに侵入する案内人の役割を果たした。我々は川と稜線に沿って進んだ。なぜなら我々はそうすることで我々の動きを隠しておけたからだ。我々はソノラ州に入って南東に進み、キタコ、ナコザリ、その他の小さな集落を通過した。

左からナイチェ、ナイチェの母、ナイチェの2人の妻と子供達

アリスプにもう少しで到着するところで我々はキャンプした。街から8人の男達が我々と交渉するために馬に乗って出てきた。我々は彼らを捕らえて殺害して頭皮を剥いだ。それは街から軍隊を引き出すことになった。翌日、彼らはやって来た。本格的な交戦のないまま、一日中、小競り合いが続いたが、夜になって我々は彼らの補給部隊を捕捉した。そのおかげで我々は十分な食糧と銃を手に入れることができた。

その夜、我々は歩哨を配置してキャンプから動かず、一晩中、静かに休息した。というのは翌日はきっと大変な日になるに違いないと予期していたからである。翌日早朝、戦士達が集まって祈りを捧げた。それは助力を願うためではなく、健康を願い、敵の奇襲や騙し討ちを避けられるように願うためであった。

我々が予期していたように、朝10時頃、全メキシコ軍が出現した。騎兵中隊が二つと歩兵中隊が二つである。私は騎兵がカスキヤで我が部族民を殺害した兵士達だと悟った。私はこの事を族長達に伝えたところ、族長達は私に戦闘を指揮するように言った。

私は族長ではなく、族長であったこともなかったが、他の者達よりも不当な扱いを受けたのでそうした栄誉は私に与えられた。私は信頼に応えようと決意した。私は川のほとりにインディアンを中空の円状に配置した。メキシコ人は歩兵を二列に配置して騎兵を控えに回した。我々は森の中にいた。彼らは400ヤード[約360メートル]以内に前進してきた。それから彼らは立ち止まって銃火を開いた。すぐに私は彼らに突撃を命じ、それと同時に彼らを後ろから攻撃するために一部の戦士達を送り込んだ。戦闘の間、私は殺された母、妻、子供達、そして、父の墓と復讐の誓いのことを考えながら激しく戦った。私の一族によって多くの者達が打ち倒され、私は絶えず先頭に立った。多くの戦士達が殺された。戦闘は約2時間にわたって続いた。

戦場の中央には4人のインディアン、私自身と3人の戦士達しか残っていなかった。我々の矢は尽き、我々の槍は死んだ敵の体で破壊されてしまった。我々には素手とナイフしか戦う道具が残っていなかったが、我々に立ち向かおうとする者はすべて死んだ。戦場の別の場所から2人の武装した兵士が我々に向かってきた。彼らは我々の一団の中で2人を撃ち、我々、すなわち残った2人は味方の戦士達を求めて逃げた。私の仲間はサーベルで攻撃されたが、私は何とか味方の戦士達のもとにたどり着いて槍を取って引き返した。私を追っていた1人が的を外して、私の槍で倒された。その者のサーベルを使って、私の仲間を殺した兵士に立ち向かった。我々は取っ組み合いになった。私は奴をナイフで殺し、その体からすぐに立ち上がってサーベルを振り回して殺すべき他の兵士を探した。そこには誰もいなかった。血まみれの戦場はメキシコ人の遺体で埋まっていた。アパッチ族の鬨の声が響き渡った。

敵の血に染まりながら、獲得した武器を握りながら、戦闘、勝利、復讐の喜びに熱くなりながら、私はアパッチ族の戦士達に囲まれて、全アパッチ族の戦闘指導者になった。それから私は殺害された者達の頭皮を剥ぐように命じた(戦いの命令がアパッチ族に与えられた瞬間からすべてが宗教的意味合いを帯びる。キャンプの方法、調理の方法などが詳細に定められている。戦争に関連するすべての物は聖なる名前で呼ばれた。例えば英語でも単に馬と言わずに軍馬や騎馬と言うように。矢ではなく死の飛び道具と呼ぶなど。インディアンは通常の名前では呼ばれず、場合に応じて「勇敢な」とか「長」といった言葉が付け加えられる。ジェロニモのインディアンの名前はゴ=クラシェラ=イェ[フランス語表記]だが、メキシコ人はこの戦いで彼をジェロニモと呼び、それ以来、彼はその名前でインディアンと白人の間で通った)。

私は愛する者達を呼び戻せず、亡くなったアパッチ族を取り戻せなかったが、私はこの復讐を楽しんだ。アパッチ族は「カスキヤ」の虐殺に対して復讐を果たした。

【正規版】『ジェロニモ自伝』はAmazonで紙書籍・電子書籍両方購入できます。BOOTHBOOK☆WALKERでも購入できます。【無料開放版】と【正規版】の違いは以下の5点です。1、2週間の開放期限撤廃。2、詳細な訳注の追加。3、詳細な地図の追加。4、特別付録の追加。5、校正済み。兄弟本『ビリー・ザ・キッド、真実の生涯』もよろしく。AmazonBOOTHBOOK☆WALKERで展開中です。

第2部 メキシコ人 第7章 苦難のもとでの戦いに続く

サポートありがとうございます!サポートはさらなる内容の充実によって読者に100パーセント還元されます。