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ジェロニモ自伝―第2部 メキシコ人 第7章 苦難のもとでの戦い

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目次

その他のアパッチ族は「カスキヤ」の戦いの後、満足したが私はさらなる復讐を求めていた。数ヶ月間、我々は狩りとその他の平和な目的の追求で忙しかった。ついに私は、アー=コホ=ネとコ=デー=ネの2人の戦士を説得することに成功して一緒にメキシコに侵入することになった。

我々は家族(ジェロニモは再婚していた)を部族のもとに残して遠征に出かけた。我々は徒歩で出かけて3日分の食料を携行した。我々はソノラ州の北側からメキシコに入って、シエラ・デ・アンタレス山脈に沿って山脈の南端に出た。ここで我々は小さな村を襲うことにした(私はこの村の名前を知らない)。日中、我々は山脈から接近した。5頭の馬が外に繋がれていた。我々は慎重に前進したが、馬に手が届く前にメキシコ人が家から発砲した。私の2人の仲間は殺された。メキシコ人はあらゆる方向から押し寄せてきた。あるものは馬に乗って、またある者は徒歩であったが、全員が武装しているようだった。その日、私は3回も包囲されたが、戦い、身をかわし、そして、隠れ続けた。隠れている間に何度も私は銃を手に持って私を探しているメキシコ人に慎重に狙いを定めた。私は自分が狙いをどの機会も外すはずがないと思っていた。夜の帳が下りると、私はアリゾナに逃げる時間を稼げた。しかしメキシコ人は追跡を諦めようとしなかった。翌日、何度も馬に乗ったメキシコ人が私の行く手を阻もうとした。何度も彼らは私に向かって発砲したが、私はそれ以上、矢を持っていなかった。それ故、私は非常に疲れていたが走ったり隠れたりするしかなかった。追跡が始まって以来、私は何も食べていなかったし、休息するために立ち止まろうともしなかった。2日目の夜、私はようやく追跡者達をまいたが、アリゾナにある私の家にたどり着くまで歩速を緩めなかった。私は何の戦利品も持たずに、仲間もなく、疲れてキャンプに帰ったが、意気消沈していたわけではない。

2人の死んだ仲間の妻と子供達が部族民から世話を受けていた。何人かのアパッチ族が遠征が悪い結果に終わったことで私を責めたが、私は何も言わなかった。失敗に終わった場合、ただ沈黙を守ることが私にとって適切なことだろう。しかし、メキシコ人に対する私の感情は変わらなかった。私は依然として彼らを憎んでいたし復讐を切望していた。私は彼らを罰する計画を練るのを止めなかったが、私が提案する襲撃に耳を貸してくれそうな戦士を他に見つけることは難しかった。

この最後の冒険から数ヶ月後、私はメキシコのフロンティアへの襲撃に加わるように2人の戦士を説得した。我々の先の襲撃において我々はネドニ・アパッチ族の領域を通ってソノラ州に入った。今回、我々はチョコネンの領域を通ってシエラ・マドレ山脈に入ることにした。我々は南に向かって食料を確保して我々の襲撃を始める準備をした。山脈の近くで我々は、日中に攻撃する対象となる集落を選んだ。その夜、我々が眠っている間にメキシコ人の斥候が我々のキャンプを発見して発砲してきた。1人の戦士が殺された。朝になって我々はメキシコ軍の一隊が南からやって来るのを見た。彼らは馬に乗っていて長旅のための物資を携行していた。我々は彼らの後をつけて彼らがアリゾナの山脈に向かっていることを確認した。それから我々は急いで彼らを追い抜かして我々の集落に3日で到着した。我々は正午に到着した。その日の午後3時頃、メキシコ軍が我々の集落を攻撃した。最初の一斉射撃が3人の小さな男の子達を殺した。我々の部族の多くの戦士達は家から離れていたが、キャンプにいた少数の我々で夜になる前に山脈から軍隊を追い出すことができた。我々は8人のメキシコ人を殺したが、5人、すなわち2人の戦士と3人の少年を失った。メキシコ軍は全力で南に向かって去った。4人の戦士が彼らの追跡に取り掛かったが、3日後、追跡者達は帰ってきて、メキシコ人の騎兵はアリゾナを離れて南方に去ったと言った。彼らはすぐには戻ってこないだろうと我々は確信した。

この出来事からすぐ後(1860年夏)、私は25人の戦士達とともに再びメキシコ人に対する遠征を実施した。我々は、先述のメキシコ軍の後をつけてシエラ・デ・サワリパ山脈に入った。山中に入って2日目、我々の斥候が馬に乗ったメキシコ軍を発見した。この部隊は騎兵隊が一中隊だけだったので、うまく奇襲を仕掛けられれば彼らを打ち負かせるに違いないと私は考えた。我々は彼らがやって来る道中で奇襲を仕掛けた。細い山中の峡谷を全部隊が通らなければならない場所であった。すべての兵士が通過するまで我々は発砲を控えた。それから合図が出された。メキシコ軍は命令の言葉を受けずに馬から降りて、馬を一団の外に出して胸壁代わりとして我々に対して善戦した。我々の弾薬をすべて使わなければ彼らをその場所から追い出せないと知った私は先頭に立って突撃した。戦士達は突然、あらゆる方向から圧倒され、我々は白兵戦を戦った。この遭遇の中で私は、私を撃とうと銃を構えたメキシコ兵を槍で殺した。私は足早に進み、血の海に足を取られて滑ってメキシコ兵の下に倒れた。奴は銃床で私の頭を卒倒するまで殴った。その瞬間、私の後を追っていた1人の戦士が槍でメキシコ人を殺した。数分後、一人のメキシコ兵も生きていなかった。アパッチ族の鬨の声が消えると、敵の頭皮が剥がされ、死者は弔われ、負傷者は治療を受けた。私は倒れた場所で意識を失って横たわっている状態で発見された。彼らは冷たい水で私の頭を洗って意識を回復させた。それから彼らは私の傷を縛った。そして、翌朝、失血によって弱って激しい頭痛に苦しみながらも私はアリゾナまで戻る行軍に同行できた。数ヶ月間、私は完全に回復しなかった。狙撃手によって受けた傷は跡になってまだ残っている。この戦闘で我々は非常に大きな損害を出したので、我々の勝利には栄光はなかった。そして、我々はアリゾナに戻った。その年、遠征に出かけようとする者は誰もいなかった。

その年(1861年)の夏、12人の戦士達とともに私は再びメキシコに赴いた。我々はチワワ州に入って南に向かってシエラ・マドレ山脈の東側まで4日間の旅をした。それからカサ・グランデの東からあまり遠くない場所でシエラ・デ・サワリパ山脈を越えた。ここで我々は1日間休息して、斥候を偵察に送り出した。彼らは物資を運搬する一団が我々から西に5マイル(約8キロメートル)の地点でキャンプしていると報告した。翌朝未明、ラバ[雄ロバと雌馬との子]を連れた御者達は物資を運搬する一団を動かし始めた。我々は彼らを攻撃した。彼らは命からがら逃げ去って我々に戦利品を残していった。ラバは食料を積んでいて、我々はその大部分を家に持って帰った。2頭のラバは豚の脇腹肉、ベーコンを積んでいた。我々はこれを投げ捨てた(彼らは決してベーコン食べなかったし、ずっとそうすることを学ばなかった。今でも彼らは、もし他の肉が入手できるならベーコンや豚を食べようとしない。ジェロニモはベーコンや豚肉を敢えて食べることはなかった)。我々は荷を運ぶ動物を家に連れ帰って、ソノラ州を通って北方に向かったが、カシタ付近まで来た時、メキシコ軍が我々に追いついた。それは未明のことであり、我々はちょうど朝食を終えたばかりだった。彼らが我々に対して発砲するまで我々は追跡されているとも思わず、まさか敵が近くにいるとも思っていなかった。最初の一斉射撃による銃弾が私の左目のすぐ下をかすめたので私は気を失った。他のすべてのインディアンは身を隠すために散った。私が死んでいるものだと思ったメキシコ人は逃げるインディアンを追いかけ始めた。私はすぐに意識を取り戻して全速力で森に向けて走り始めた。その時、別の一隊がやって来て私に発砲した。それから他のインディアンを追っていた兵士達が戻ってきた。私は敵の二つの集団に挟まれたが、長く踏みとどまることはできなかった。あらゆる方角から私のすぐ近くで銃弾がうなりを上げた。一発の銃弾が私の脇腹にちょっとした傷を負わせたが、私は追跡者達をまいてしまうまで走り、身をかわし、そして、戦い続けた。私は騎兵隊がついてこれない険しい峡谷を登った。兵士達は私の姿を見つけたが、馬を下りて追ってくるようなことはなかった。彼らが追ってこないのは賢明なことだと私は思った。

戦利品を持っている時に奇襲を受けた場合、我々の集合場所はアリゾナのサンタ・ビタ山脈だと決められていた。我々はメキシコで再集結せず、別々に分かれて行動した。そして、3日以内に我々は集合地点でキャンプした。その場所から我々は手ぶらで郷里に帰った。我々には伝えるべき部分的な勝利さえなかった。私は再び負傷して帰ったが、意気消沈することはなかった。再び私は部族民から非難されたが何も答えなかった。

我々が帰還した後、多くの戦士達が狩りに出て行き、戦士達の中にはナヴァホ・インディアンと毛布を交換するために北に向かった者もいた。私は傷を癒すために家に留まった。ある日の朝の未明頃、女性達が朝食を準備するためにキャンプの火を熾そうとしていた時、夜の間に我々の集落を囲んでいたメキシコ軍の三個中隊が銃撃を開始した。戦いの準備をする時間はなかった。男性達、女性達、そして、子供達が命からがら逃げた。多くの女性達や子供達、そして、数人の戦士達が殺害され、4人の女性達が捕らえられた。私の左目は腫れて塞がっていたが、私は右目を使って矢で1人の士官を撃った。それから私は岩の間にうまく逃げおおせた。兵士達は我々のティピを焼き払い、我々の武器、食料、ポニー、そして、毛布を奪った。 冬がもう近くまで迫っていた。

この時、キャンプにいた戦士は20人もいなかった。攻撃による混乱の中、我々の中で武器を確保できたのは数人だけであった。戦利品を持ってメキシコに引き返す兵士達を数人の戦士達が追跡したが、戦いを挑まなかった。メキシコ人に対する遠征を再び続けられるようになるまで非常に長い時間がかかった。

この時、メキシコ人によって捕らえられた4人の女性はメキシコのソノラ州に連行されて、そこでメキシコ人のために働かされた。数年後、彼女達は山中に逃れて我々の部族を探し始めた。彼女達はメキシコ人から盗んだナイフを持っていたが、その他に武器は持っていなかった。彼女達は毛布さえ持っていなかった。夜になると彼女達はナイフで低木を切って壁にして小さなティピを作った。頂上部も低木で覆った。この臨時のティピで彼女達は眠った。ある夜、彼女達のキャンプの火が小さくなった時、彼女達はティピのすぐ外でうなり声を聞いた。一行の中で最も若い女性であるフランシスコ(17歳くらい)は火を埋め始めた。その時、ピューマがティピの中に侵入して彼女を襲った。突然、攻撃を受けた彼女はナイフを落としたが、素手でできる限り戦った。しかしながら彼女はピューマにかなわなかった。彼女の左肩は砕け、部分的に裂けていた。ピューマは彼女の喉笛に噛み付こうとした。彼女は素手で長い間、それを何とか防いだ。ピューマは彼女を300ヤード[約270メートル]も引きずった。彼女は失血によって自分の力がなくなっていることに気づき、他の女性達に助けを求めた。ピューマが彼女の脚を引きずっていた一方、彼女はピューマの脚にしがみついていた。さらに岩や下生えがピューマの歩みを遅らせた。ピューマは立ち止まって彼女にのしかかろうとした。彼女は再び仲間を呼んだ。彼女達はピューマをナイフで攻撃して殺した。それから女性達は彼女の傷の手当をして1ヶ月間、山中で彼女の世話をした。彼女が再び歩けるようになった時、女性達は旅を再開して無事に我々の部族のもとに到着した。

アサ・デクルージと妻と子供達

この女性(フランシスコ)は他のアパッチ族とともに捕虜になって1892年、フォート・シルの居留地で亡くなった。彼女の顔は傷跡が残り、彼女の手の機能は完全には戻らなかった。他の3人の年上の女性達は、我々が戦争捕虜になる前に亡くなった。

多くの女性達や子供達がメキシコ人によって何度も連れ去られた。戻ってこれた者は多くはなかったが、多くの困難を経て部族民と再会できた者もいた。逃れられなかった者はメキシコ人の奴隷、もしくはもっとひどい扱いを受けたのだろう。

メキシコ人によって捕らえられた戦士達は鎖に繋がれた。カサ・グランデ、インディアンの呼び方では「ホナス」の北で同時に捕らえられた4人の戦士は1年半の間、鎖に繋がれていたが、我々が捕らえたメキシコ人と交換で解放された。我々は捕虜を決して鎖で繋がず、閉じ込めることもなかったが、捕虜が逃げられることは滅多になかった。捕らえられたメキシコ人の男性達は木を切らされたり、馬を放牧させられたりした。メキシコ人の女性達や子供達は我々の部族民と同様に扱われた(ホアの息子である通訳のアサは、捕らえられた小さなメキシコ人の少女がアパッチ族の子供達とよく遊んでいたのを覚えている。その少女は捕虜交換で解放された。この時、ジェロニモの妻達の1人と子供が殺された。それから彼が戦争捕虜になるまで2人の妻を娶った。彼は望めばいくらも多くの妻を娶れたが、メキシコ人と戦うのに忙しいので2人以上の妻は養えなかったと言っている)。

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第2部 メキシコ人 第8章 成功した襲撃に続く

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