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ヘンリー・ホイト『フロンティアの医師』(1929年)

馬をゆっくりと走らせていた時、私は馬に乗った武装した5人の見知らぬ男たちと出会った。彼等は馬を止めると、この近くにある牧場の位置と方向を尋ねた。それから彼らは、パンハンドルでは馬が不足していると聞いたので、ニュー・メキシコから150頭の馬をテキサスの牧場主に売りに行く途中だと自ら述べた。 手紙を運んでいる途中だと彼らに話した後、私は別れの挨拶をした。我々は別々の方向に行った。

その日の遅く、この男たちの一団がタスコーサに入って来た。その一団は、恐るべき射撃の名手であるウィリアム・H・ボニー、通称ビリー・ザ・キッド率いる一味だとわかった。1878年の初秋のことであった。ビリーの一味は、ビッグ・フット・トムと呼ばれるトム・オフォラード、ヘンリー・ブラウン、フレッド・ワイト、そして、長い間、無法者として知られている中年のジョン・ミドルトンで構成されていた。

その時、ビリー・ボニーは18歳だった。滑らかな顔とブラウンの巻毛、引き締まって均整がとれた体、明るく澄みわたった青い瞳を持つ見目震わしい青年だった。もし怒ってなければ彼は笑顔とともに喜びの感情をいつも浮かべているように見えた。彼の頭は良い形をしていて、顔立ちが整っていて鼻梁は高かった。彼の最も際立った特徴は2枚の上正面の歯の1枚が 少し飛び出ていたことだ。

この時代、この地域は大いなる西部の中で本当に野生に溢れた場所の一つであったこと忘れてはいけないことだろう。私が以前言ったように、パンハンドルには政府や法律の影や形すらなかった。その結果、パンハンドルは無法者たちや悪者たちのメッカとなった。ビリーとその一味は、ニュー・メキシコで集めた馬とともにタスコーサの近くでキャンプしていた。タスコーサには、二つの店と、鍛冶屋、そして、日干し煉瓦の家があって、パンハンドルの大きな牧場の物資の補給地になっていた。

パンハンドルにビリーが現れたという報せは、平原を焼く火のように広まった。生死を問わず彼を捕縛すれば大きな賞金が得られるという事実もあって、彼の名前はよく知られていた。そこでこの地方の有名な牧場主たちによって会議が開かれて、ビリーが招かれた。リリーは、いつものように笑いを浮かべて、そこにいる誰よりも冷静沈着だった。彼はいくつかの適当な質問を受けた。彼は、馬が不足していることを知ったから馬の群れを集めて売りに来たと質問者に対して言った。漫然とした話が続いた後、パンハンドルの人々は、ビリーについてよく知っているが追い回したりせず、ビリーが好きなように行動できるように放置するつもりだと言った。ただもしやり過ぎたらすぐに後悔することになるとビリーは強く警告された。自分と自分の友人たちはやりたいことを何でもするので放置しておいてほしいというのが彼の答えであった。

しばらくビリーの一団は多くの人々と自由に交流して、求める者に馬を売り、飲んだり、賭博をしたり、競馬をしたり、射撃をしたりしながら商いに勤しんだ。ビリーは、飲酒を除くあらゆる西部のスポーツや気晴らしに長けていた。酒宴における彼の武勇伝について多くのことが言われているが、私の考えではほとんどが虚構である。パンハンドルにいた間、私は彼が酒を飲んだところを一度も見ていない。

実を言うと、禁酒主義者だった私は、そうしたことからこの無法者に親しみを抱いた。厳格なキリスト教の教義に基づいて私は決して酒に触れなかった。

しかしながら、ビリーの一味は彼の節制を台無しにしてしまった。ある日、ジョン・ミドルトンは、ハワードとマクマスターの店でしこたま飲んで見苦しいことをやり始めたので、明らかに厄介なことになりそうだった。その場にいた他の者たちは同じような状態であり、雲行きが怪しくなり始めた。そういう場でそういう状況になれば争いが始まるのが普通である。一味は平和に退屈しているようだった。このような状況でジョンは率先して手本を示して、 自分は極悪だと世界に冒涜的かつ声高に主張した。

ジョンは銃に手をかけてくだを巻きながら、誰かが敵対行為を取る口実を与えてくれないかと周りを睨みつけていた。まさにこの時、ビリー・ザ・キッドが歩いて来た。

挑戦と命令が入り混じったような奇妙な感じの穏やかな声音でビリーは「ジョン・ミドルトン、おまえは馬鹿な愚か者だ。キャンプに戻って俺が行くまで待っていろ」と言った。

ミドルトンは瞳をぎらつかせながらビリーに向き直って「ビリー、もし2人だけだったら俺に対してそんな口の聞き方ができるか。でかい面をするんじゃない」と答えた。

ビリーは「おまえがそんなふうに思っているなら店の裏に来いよ。2人だけになろうぜ」とすぐに答えて銃を手に扉に向かった。

ミドルトンの顔は灰色になって、下唇がだらりと垂れ下がった。そして、歯をむき出して「おいビリー、落ち着けよ。冗談だろ」とどもりながら言った。

ビリーは「俺がそうするか賭けてみるか。冗談じゃないぞ。俺の言うことを聞いただろう。さっさとキャンプに戻れ」と言った。すると年老いたジョンは、鞭で打たれた犬のように扉からよろよろと出た。

自分と一味が試練の時にあることを悟っていたビリーは、彼らが限度を越えたり、越えようとしたりすれば鉄の杖で彼らを律した。ある日、ミドルトンの出来事と同じようなことがラインハートの店で繰り返されるのを私は見た。その時、ビリーは、オフォラードがモンテ賭博の相手をしていたメキシコ人を撃とうとしているのを見た。彼がか課した規律にもかかわらず、一味はビリーを崇拝していて、必要な時はいつでも命を賭けても彼を支えようとした。

その近隣には小さなメキシコ人の集落がいくつかあった。 人気のある気晴らしの一つが、タスコーサの東側にある広場に面するペドロ・ロメロ氏の家で毎週開かれる舞踏会だった。ロメロ氏についてはすでに紹介済みである。

武器の類を携行してはならないという不文律があった。すべての銃はハワードとマクマスターの店に預けるのが普通であった。キッドの一味は舞踏会のことを知ると参加したいと強く思った。規則を守る限り歓迎すると彼らは言われた。彼らは約束を守ると強調した。

ある美しい月夜、ロメロの舞踏会が盛況だった。舞踏会を楽しみに外に出た私は、ラインハートの店の反対側にある100ヤード[90m]くらいの幅の広場で偶然、ビリーに会った。挨拶を返したついでに私は、ダンス・ホールまで競争しようとキッドに持ちかけた。「水兵さん[女に取り入ろうとする男]」より彼はずっと速かったが、私はずっと彼の先を走った。私が扉の近くで速度を落とした一方、ビリーは全力で扉を通り抜けた。

メキシコ人の日干し煉瓦の家には何らかの理由で高さ1フィート[30cm]くらいの敷居がある。キッドはそれを飛び越えたが、カウボーイ・ブーツの踵が引っかかったせいで、舞踏室の真ん中にばったりと倒れた。

周りにいた4人の仲間が倒れた彼の体をすぐに囲んで背中合わせになって、コルト45口径を手に持って撃鉄を起こして戦闘態勢をとった。彼らはキッドの異常な入場を見て何かまずいことが起きたに違いないと思ったようだ。彼らの稲妻のようにすばやい戦闘準備は、すばらしい対応能力を示していた。いったいどこにどのように銃が隠されていたかわからないが、その所有者たちは、ロメロの舞踏会に出禁になったことを知って残念がった。

その他の気晴らしはポーカーであった。誰もがそれをやっていた。少し前に私は、ビリーが気に入って購入したがっていたすばらしい婦人用金時計を勝ち取ったことがある。

以前交わした会話の中でビリーは、ニュー・メキシコの小柄な美人とのロマンスについて私に語ったことがあった。それは私がペコス川沿いのフォート・サムナーで会ったロリータ嬢[訳注:ウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』が発表される前なので現代的な意味のロリータではなく、おそらくポーリタの聞き間違い]のことだろう。彼女に時計を贈りたがっているのではと察した私は、それをビリーに渡した。ビリーはとても喜んだ。

この時計には毛で編まれた長い紐がついていた。この本で掲載したビリー・ザ・キッドの写真は、1879年前半にパンハンドルから帰って来た時、もしくは1878年後半にフォート・サムナーで撮影された写真であり、明らかにこの無法者の唯一の写真だが、シャツの胸からこの[時計の]二つの紐が出ているのが明らかに見える。

彼の人生について直接彼から聞き、彼の優れた天分について知った後、 自由で物事がうまくいっている間に、この国から去ってメキシコか南アメリカに移住してやり直すように私は彼に勧めた。彼はスペイン語を地元民のように話し、髭も生え揃わぬ青年だが、生まれつきの指導者だった。冷静さ、鉄の神経、そして、 万事そつなくこなす能力を使えば、彼はどこでも成功できただろう。

後に示されたように、故ルー・ウォレスし将軍も彼について私が考えたように思ったようであり、何とか彼を救おうとした。

1878年10月下旬、フォート・バスコムとニュー・メキシコ準州ラス・ベガスの間で郵便を運ぶ契約をしていたティーツ氏がタスコーサを訪れた。私はパンハンドルを離れて彼と一緒に[ニュー・メキシコに]戻ることにした。我々が出発する日、ビリー・ザ・キッドは、美しい競走馬の「ダンディ・ディック」―彼が持つ馬の群れの中で最高の馬―を引いてタスコーサにやって来ると、驚いたことに私にその馬を渡した。私はこれまで何度かその馬に乗ったことがあり、すばらしい馬だと思った。しかし、その馬はビリーのお気に入りだったので、まさか彼がその馬と別れることは絶対にないだろうと思っていた。

ビリーの提案によって、私が所有者であるか疑われた場合に備えて 、彼はハワードとマクマスターの店のカウンターに歩み寄ると、紙を1枚取って、私のために売り渡し証文を書いた。それはまるで実際に売買がおこなわれたかのように、ビリーの署名があり、その当時、パンハンドルで最もよく知られていた2人の地主の連署まであった。

私はこの紙をずっと保管していて、最近までそれがビリー・ザ・キッドの現存する唯一の手蹟だと主張していた。それが私の思い違いであることは後に判明する。

しかしながら「ダンディ・ディック」がどこから来たかは謎のままである。ビリーはどこでその馬を手に入れたのか決して言わなかった。とにかく彼がその馬を手に入れたのであれば「それにまつわる話がある」に違いない。殺人は露見するという昔の人の言葉はまさにこの場合に当てはまる。1921年、私は、ニュー・メキシコのカリゾゾに住むカウボーイの旧友であるチャールズ・A・シリンゴと連絡を取った。私は売り渡し証文の写真をシリンゴ氏に送った。彼はそれを法廷書記のジェームズ・ブレイディにたまたま見せた。

馬の特徴に関する記述を読んて書いた者を特定した時、ブレイディ氏は「ああ神よ、父がキッドに殺された時に乗っていた馬だ」と叫んだ。

その馬はアラブ種であり、地元では競走馬としてよく知られていて、ニュー・メキシコ準州リンカーンのマーフィー少佐によって所有されていた。マーフィー少佐はリンカン郡戦争の指導者の1人であった。チャールズ・A・シリンゴによれば「勇敢で誠実な男」であったウィリアム・ブレイディは、リンカン郡の保安官に選ばれた直後、「ダンディー・ディック」をマーフィー少佐から贈られたという。少年の頃、ジェームズ・ブレイディはその馬に何度も乗っていたという。

[中略]。

ラス・ベガスから6マイル[10km]離れた場所に有名な温泉がある。浴場とホテルの古い日干し煉瓦の壁が並んでいる。スコット・ムーアとその善良な妻が所有者である。彼らの料理はニュー・メキシコ中で有名であり、毎週日曜日には素晴らしい食事をいつも出したので決まって大勢の客が来た。

ある日曜日、私は馬でそこに向かってその部屋のテーブルの隅に空席を見つけた。そこにいた3人の先客を見ると、驚くことに私の左に垢抜けた笑顔を見せているビリー・ザ・キッドがいた。我々は握手を交わしたが、互いに名前を言わなかった。

我々はまるでカウボーイの友人どうしのようにテキサスでの日々について話し合った。その時、ボニーの左側にいた男が彼に何か言った。するとビリーは「ホイト、これはテネシーから来た俺の友達のハワード氏だ」と言った。

私が席に座った時、4人目の男は食事を終えるところだったのですぐに退席した。ハワード氏は目立つ特徴を持っていた。彼の瞳は刺すように鋭い青色であり、よくまばたきをした。そして、左の手の指の先がなかった。私は彼が鉄道員ではないかと思った。彼は非常に礼儀正しくよく話す男であり、非常に旅慣れていた。食事は和やかに進んだ。食事の後、我々は別れた。ビリーは私を部屋に招くと、秘密にしておいてほしいと断ってから私の人生で最も驚くべきようなことを私に明かした。ハワード氏は実は盗賊であり列車強盗であるジェシー・ジェームズだという。 私は疑問に思ったが、ビリーはそれが本当であると私をすぐに納得させた。ジェシー・ジェームズはしばらく身を隠していた。ムーア夫妻は彼が信頼するかつての友人であった。だから彼は新しい場所の情勢を確認するために姿を現した。ビリーもまたムーア夫妻を知っていた。かつてビリーは客車を見たことがなかったので、ラス・ベガスに忍び行って、カウボーイの服を脱ぎ捨てて新しい町の衣装に着替えて 数日間、温泉に滞在したことがあった。彼はチャーリー・イルフェルトの店でも買い物をしたことがあった。それでイルフェルトもビリーのことを知っていたし、この件についても覚えている。イルフェルト氏は1828年から29年の冬をカリフォルニア州ロングビーチにあるヴァージニア・ホテルで過ごした。そして、昔あったいくつかの出来事について私の記憶が正しいことを証明した。

ムーア夫妻は、西部の無法者たちの中で最も有名な2人が客になっていることを知って、2人を引き会わせて友達にした。

ジェシー・ジェームズは何かの計画を準備していた。ビリーに会ってその人物を見定めた後、ジェシー・ジェームズは一緒に列車を襲撃しようと提案したようだ。2人とも獲物から収益を上げる無法者であったが、彼らの生活と行動は決定的に違っていた。ビリーは決して列車強盗や銀行強盗しなかったし、あらゆる意味でも強盗はしなかった。俺の唯一の稼業は、他の誰かの焼き印が押してある牛馬を駆り集めることだった。そうした流用は多かれ少なかれ昔の牛飼いの中ではよくあったことだし、もし牛馬を連れ去ってしまわなければ、当時は犯罪だと考えられていなかった。今日[禁酒法時代]の[酒の]密造と同じようなものである。

彼が無法者となってしまった原因である犯罪は、今や歴史となったリンカン郡戦争で完全に痕跡をたどることができる。ルー・ウォレス将軍はそれを知っていたはずだ。さもなければ彼が後に語ることになる[恩赦の]申し出をビリーに対してすることはなかっただろう。

立場の違いから、そして、ジェシー・エヴァンズとつるめばフォート・サムナーを離れなければならないことから、ビリーは彼の提案を断った。

その夜、我々はまた顔を合わせたが、「ハワード氏」は私が彼の正体を知っているとは夢にも思わなかったようだ。ビリーは、私のことをパンハンドルで友人なった医者であると紹介した。この地方の様々な場所について話した後、私は、ミネソタ州セント・ポールにある私の古い家に来ないかとハワード氏を思わず誘ってしまった。彼は無頓着な様子でそれを断って話題を変えた。彼が心を読めなかったことは私にとって幸いだったようだ。彼のかつての仲間であるチャーリー・ピッツと私が最近、出した物を彼は明らかに知らなかったようだ。まさに「無知が喜びである場所では賢くなることは愚かなことだ」と言われている通りだ。

私がビリーと2人だけになった時、ビリーは私がタスコーサを去った後の出来事について説明した。 ビリーは残った馬をすぐに処分してしまい、2人の仲間とともにボスケ・レドント[フォート・サムナー]経由でリンカン郡に戻った。もちろん戦争はまだ続いていた。もし私の記憶が正確であれば、ヘンリー・ブラウンとフレッド・ワイトはタスコーサでビリーと別れて東に向かった。ボスケ[・レドント]にいる時、キッドは写真を撮影して、私が彼に渡した時計をロリータに贈った。また彼は、銃の腕前を磨いたと私に語った。

タスコーサにある店の裏には、1クォート[0.95l]入りのビールの空瓶の廃棄場があった。カウボーイたちのお気に入りの楽しみは、50ヤード[45m]先に空瓶を6本並べて、酒や何か面白い物を賭けて45口径で射撃することだった。ここではビリーがチャンピオンだった。ビリーが銃を引き抜いて6本の瓶を破壊するのに要する時間は、他の者たちのわずか半分だった。キッドの銃に何か特別な仕掛けがあるのではないかと思った私は、銃を交換して確かめてみたが[私の銃と]何の違いもなかった。彼はまたウィンチェスター銃の腕前もすばらしかった。

彼の写真を見ると、彼にある種の名声をもたらした45口径の取っ手が見える。銃の全身は、現在の所有者であるウィリアム・S・ハートの紹介とともに別の写真に収められている。ハートはカリフォルニア州ニューホールの住民であり、大西部の古き2丁拳銃の男[ビリー]を解説している人物である。

[中略]。

サンタ・フェに到着した時、私はビリー・ザ・キッドが囚われてサンタ・フェの牢獄に収監されていると聞いて驚いた。現在のように当時は報せがすぐに広まらなかった。私は長官公邸にいるウォレス将軍に会いに行って、ビリーとの友情を話して、ビリーを訪問できるように許可書を出してほしいと頼んだ。ウォレス将軍は、ジョン・シャーマン・ジュニア合衆国執行官を私に同行させて、私が望む限り好きなだけキッドのところに滞在することを認めた。

出発する前に執行官は、制作するように命じられたという枷を私に見せた。それは逃亡手段をいろいろ考えつく 囚人にいかなる機会も与えないように工夫されていた。彼らはそれをビリーの足首につけた。枷はそれぞれ15ポンド[6.6kg]の重さがあり、最も硬い鋼でできていて、短く重い鎖に繋がれ、エール錠[錠前師のライナス・エールによって1869年に特許申請されたシリンダー錠]で閉じられていた。

彼は枷を本当に誇りに思っているようであり、このような装飾品をつけている男が逃げる危険はまったくないと自慢した。いつものように笑みを浮かべたビリーは「コップと唇の間みたいに隙間がたくさんあるぞ、ジョン」と言い返した。

我々は長い間留まった。枷を除けば彼はこれまでよりも快適そうだった。少年の頃から彼の人生は苦難と危険の連続だった。彼の精神はまるで自由であるかのように高揚していた。状況が許す限り彼は丁重に扱われていたので、何も不満を言っていなかった。

長い間にわたって我々は、ウォレス将軍と面会する約束はどうなってしまったのか、そして、もしジェシー・ジェームズの一味に加わっていればどうなっていたのか話し合った。 ビリーは長官の善意をまったく疑っていなかったが、長官に会おうとすれば第三者に莫大な報酬を与えて依頼しなければならないという事実を指摘した。彼が言うには、今は激しく対立しているが、リンカン郡の状況が政府による介入を招いて自分が無法者になってしまうまで、自分の背後にはチザムがいた。その後、チザムは姿を消して自分に単独行動をさせたという。

[中略]。

[私が長官公邸を訪問した]その夜、私は長官の書斎に入った。そこで私は、キッドについて友人たちと話している長官を見つけた。 私は歓迎された。そして、すぐに記憶に残る出来事が起きた。将軍は、リンカンのマクスウィーン邸で起きた戦いについて多くの話を聞いたり読んだりしたので、ビリー・ザ・キッドがサンタ・フェに収監された後、2人の生存者のの1人[ビリー]からその実情について聴取しようと思ったと言った。そこで長官は煙草の箱とウイスキーの瓶を持って牢獄に行った。そして、長官としてではなく1人の人間としてここに来たとビリーに告げた後、長官はマクスウィーン邸で起きた出来事について正確な事実を語るように求め、箱と瓶を渡した。ビリーは煙草についてお礼を言ったが、瓶は必要ないと言った。そして、彼は長官の求めに応じた。

そのような話を長官は客人たちに向かって気楽な感じで話していた。それは私が聞いた中でも最もぞくぞくするような話だった。簡素で素朴なキッドの語り口を尊重して長官はその話を伝えた。

私は1879年にラス・ベガスでビリーと会った時の話―ジェシー・ジームズには言及せずに―をする機会を得て、キッドのために長官が考えた計画が失敗に終わったことを残念に思うが、まだ望みはあると述べた。

将軍はしばらく物思いにふけっていた。それから彼は頭を振ると「もう手遅れだ」と言った。

私は、最初から最後までウォレス将軍とビリー・ザ・キッドの間で何があったのかについていろいろな話を読んだり聞いたりしている。正しい話もあれば、間違った話もある。私は2人を個人的に知っていて、それぞれと話し合ったし、彼らの手紙の写しも私の前にあるが、彼らの間で起きたという深刻な困難―ビリーによる脅迫など―についてどのような根拠があったのか理解することは難しい。率直に言えば、そうした困難があったとは私は思っていない。

[中略]。

ある日の午後、ベルナリオで私は、シャスターとビボという名前の2人の地元の商人とともに南に向かう列車を待っていた。プルマン車両が停車している時、車両の後方近くの窓越しにビリー・ザ・キッドの姿を見た。私は、自分の発見を友人に伝えたが、彼らは私のことを笑うだけだった。彼らはボニーを見たことがなかった。彼の人生における血なまぐさい出来事を呼んでいた彼らは、窓越しに見える髭も生え揃わぬ麗しい若者とはまったく違った人物像を想像していたようだ。2人は、私が間違っていると言った。

停車時間が短いのを知っていた私は、彼らを急き立てて車両の前端に行って、通路を下ってビリーがいるところに向かった。ビリーは我々と向き合った。彼はすぐに私のことが分かって、右手を高く掲げるカウボーイの挨拶をしようとした。しかし、手枷のせいで両手を一緒に挙げなければならなかった。[それが本当にビリーであるかどうか]疑っていた2人は、こうした光景と騒々しい鎖の音に驚いて、混乱に陥って逃げてしまった。乗客の間から大きな笑いが聞こえた。

キッドの反対側にはボブ・オリンジャー合衆国執行官補佐と仲間で同じく補佐のトニー・ネイスが座っていた。彼らはジョン・シャーマン・ジュニア執行官によって選ばれた男たちであり、無法者をサンタ・フェからニュー・メキシコのメシラに移送するのに一団の中で最もふさわしい男たちであった。そこでビリーは、1878年にリンカン郡保安官であったウィリアム・ブレイディを殺害した容疑で裁かれることになっていた。キッドがタラコーサで私に贈ったダンディ・ディックという競走馬は、殺害されたブレイディ保安官の持ち物であったことが思い起こされるだろう。

護衛に身元確認をさせた後、私は、自分に何かできることはあるかとビリーに質問した。オリンジャーは、ベルトに2丁の45口径を差していて、先を短くした二重弾倉のショット・ガンを膝の間に挟んでいた。キッドは高揚した様子で「ああ、先生、ちょっとの間でいいからボブの銃を掴んで俺に渡してくれないか」と即座に答えた。オリンジャーは「おい、おまえのお友達にさようならを言っておけ。おまえに残された時間はあと少しだからな」と言った。

ビリーは「コップと唇の間みたいに隙間がたくさんあるかもな」と、サンタ・フェの牢獄で我々が一緒にいた時、彼がシャーマン執行官と言ったのと同じ言葉を使った。

その時、オリンジャーは、1ヶ月以内にまさにその武器で自分が殺害されることになろうとは夢にも思わなかったに違いない。1881年4月28日、ビリーはリンカン郡保安官J・W・ベルも殺害してリンカンの牢獄から華々しく脱出することになる。

別れの言葉を述べた後、列車は出発した。私がビリー・ザ・キッドと会うことは二度となかった。

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