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ジェロニモ自伝―第2部 メキシコ人 第10章 その他の襲撃

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目次

アパッチ族のキャンプ

アパッチ族の襲撃に関するこれまでの章を読むと、フロンティアが無法地帯になっていることを知らない者は、どのようにしてアパッチ族がそのような顕著な傾向を示すようになったのかと疑問に思うかもしれない。しかし、昔、オールド・メキシコとアリゾナの境界付近でメキシコ人と白人が法を軽視していたという実際の状況をよく知っている者は、無法な襲撃を実施する技術をアパッチ族がどこで習得したのかたやすく理解できるはずだ。したがって、1880年代の南部アリゾナに実際にいた者と同じように実情を理解できない者は、この章で示されるアパッチ族が置かれた状況を理解しなければならない。ここで述べられる出来事は、上述の年代にこの地域に住んでいた信頼できる人々から聞き取った多くの説明から著者によってまとめられている。

白人による襲撃

1882年、税を免れて合衆国に物資を持ち込んでアリゾナで売っていたことから「密輸商人」として知られる6人のメキシコ人の交易商人がオールド・メキシコの北の境界から北に10マイル[約16キロメートル]離れたスケルトン峡谷にキャンプしていた。彼らは多額のお金を運んでいることで知られていたが、いつも武装して所有物を守る備えをしていたので妨害されることはあまりなかった。しかしながら、今回、彼らが朝に起床して朝食の準備をしている時、5人の白人が彼らを待ち伏せして発砲して1人のメキシコ人を除いて全員を殺害した。この1人は負傷したが何とか逃げおおせた。殺害の数日後、数人のカウボーイが牛を追っている時にこの場所でキャンプして5人のメキシコ人の(コヨーテが食べ残した)遺体を埋葬した。2年後、同じ場所でカウボーイは72メキシコ・ドルが入った皮袋を発見した。あまりに少額だったので略奪者から見逃されていたお金だった。

この殺害を犯した者達はアリゾナにその後ずっと住んでいて、略奪行為をしたと知られていたにもかかわらず、彼らは逮捕されず、同胞市民の財産を取り戻そうとするメキシコ人もいなかった。

メキシコ人の襲撃

1884年、1人の牛追いと4人のカウボーイが牧場から何頭かの太った牛をアリゾナのトームストーンの市場まで追い始めた。彼らが選んだ経路は、オールド・メキシコとアリゾナの一部を通っていた。ある夜、彼らはメキシコ国境のすぐ南の峡谷にキャンプした。翌朝未明、夜の後半に牛の番をしていたカウボーイがキャンプの者達を起こしに行った時、待ち伏せしていたメキシコ人が発砲した。牛追いとカウボーイの1人が最初の一斉射撃で重傷を負って、キャンプの荷馬車に隠れた。その場所から彼らは弾薬が続く限り発砲した。その他の3人は軽傷ですんで物陰に隠れたが、生きて逃げられた者は1人だけであった。その者は、仲間によって発見されるまで2日間ずっと隠れていた。彼は、メキシコ人が死者の体から略奪して、馬の鞍を奪い、破壊されたキャンプで朝食を作って食べるのを見た。彼は重傷を負って、弾薬をすべて使い果たしたのでただ機会を待った。

この襲撃から2日後、 何頭かの牛が元の牧場に戻ってきた。それによってカウボーイ達は何か悪いことが起きたと気づいた。彼らは、仲間達の腐った遺体の近くでうわごとを言いながら横たわっている負傷者を発見した。こうした殺人に関してメキシコではいかなる逮捕者も出なかった。略奪者が告発されたり、損害が補償されたりすることもなかった。上述の二つの事例は、アパッチ族が接触を持った二つのキリスト教国の住民の一部がどのような模範を彼らに示したのか読者に教えるのに役立っただろう。

アパッチ族の襲撃

この章において、ジェロニモによって語られていないアパッチ族による略奪行為をいくつか示すことは適切なことだと考えられる。そうした略奪行為は、我々自身の市民によって白人の視点に基づき語られている。

1884年、マコーミック判事と妻が息子を連れてシルバー・シティからローズバーグに向かった時、アパッチ族によって待ち伏せを受けた。大人達の遺体は食後に発見されたが、子供の遺体は発見されなかった。それから数年後、アパッチ族の女性が何人かのアリゾナの住民に語ったところによれば、もともと命を助けるつもりだったのに、小さな少年(8歳程度)が泣き叫んで言うことをまったく聞かなかったので殺さなければならなかったという。

1882年、ハントという名前の男性がアリゾナのトームストーンの居酒屋で起きた喧嘩で負傷した。その喧嘩に巻き込まれた2人の他の男性が死亡したが、逮捕を免れるためにハントとその兄弟は山中に行方をくらまして、ウィロー・スプリングスから10マイル(約16キロメートル)北の辺りでキャンプして、傷が癒えるのを待った。彼らがそこに来て数日後、アパッチ・インディアンが負傷した兄弟を攻撃して殺害した。しかし、兄弟の片方は馬を飛ばしてうまく逃れた。

1883年、2人の東部の若者が探鉱のためにアリゾナに入った。彼らの本当の遠征はウィロー・スプリングスで始まった。そこで彼らはカウボーイとともに2日間すごした。カウボーイ達は、アパッチ族について警告したが、恐れを知らない2人の若者は山中に分け入った。彼らが集落を出て2日目の朝、1人の若者が朝食を準備している間、もう1人の若者は草を食べさせるために前夜に放していた荷馬を捕らえに行った。馬を見つけたまさにその時、
2人のアパッチ族の戦士が隠れ場所から彼に向かって迫った。彼は急いでキャンプに引き返して崖を飛び降りて脚を折った。

それから2人の東部人は相談して、アパッチ族による襲撃について彼らが聞いた話がすべて本当であれば降伏するのが賢明だと決定した。そこで白いハンカチを棒の先につけて、それを崖の上に恐る恐る掲げた。10分くらい経つと、年老いたインディアンとその息子だと思われるまだ少年のインディアンがキャンプに駆けてきて馬を下りた。年老いた戦士は折れた脚を調べると、無傷の若者のシャツを無言で引き裂いた。年老いた戦士はその断片を使って折れた脚を縛った。その後、2人のインディアンは準備されていた朝食を食べてポニーに再び跨った。それから年老いた戦士は指である方向を指し示しながら「医者、ローズバーグ、3日」と言って静かに駆け去った。若者達はサンシモンまで25マイル[約40キロメートル]を駆けた。そこでカウボーイ達は彼らを荷馬車に載せて、75マイル[約120キロメートル]先のローズバーグまで旅を続けた。そこで医師の治療を受けることができた。

1883年、アルバースとリーズという名前の2人の探鉱者が1頭の馬と1頭のラバからなる一隊を率いてターキー・クリークの底を通っていた時、インディアンから銃撃を受けた。荷馬車と手綱は道路に残され、その場所から200ヤード[約180メートル]離れた路上でラバは死んで見つかった。インディアンは明らかにそれを無用だと思ったようだ。探索者達の銃は後に発見されたが、彼らが連れていた馬は発見されなかった。

上述の事例のいずれにおいても犠牲者の遺体は切り刻まれていない。アパッチ・インディアンが犠牲者の遺体を切り刻んだと言う例がたくさん記録されているが、そうした例はジェロニモによれば、無法者のインディアン達によるものであり、正規の戦士達は戦闘で殺害した者を除いて頭皮を剥がないように教育されているし、必要な情報を吐かせる時を除いて拷問することもない。

1884年、サンシモン・キャトル社に雇用されている2人のカウボーイがオールド・メキシコからほど近くスケルトン峡谷から18マイル[約29キロメートル]南東にあるウィロー・スプリングスにキャンプしていた。日没頃、彼らのキャンプは戦争の彩色を施したアパッチ族に包囲された。アパッチ族は、メキシコ人と戦争中なので合衆国に引き返したほうがよいと忠告した。全部で75人のインディアンがいた。女性達と子供達は後からやって来た。彼らは約150頭のメキシコの馬を連れていた。インディアンはキャンプを張っていて、そこに10日間、滞在して会社の牛を屠って肉を得た。

このインディアンの集団とともに14歳くらいの白人の少年がいた。明らかに子供の頃から彼らといるようであった。というのは彼は英語を一言も話せず、スペイン語もほとんど理解できず、アパッチ族の言葉を巧みに話したからである。

彼らは、カウボーイ達に一度に1人ずつしかキャンプを離れることを許さず、他の者達を監視した。彼らはキャンプの周りの丘陵や高台すべてに小型望遠鏡を持った歩哨を配置していた。

ある夜、ウィリアム・ベルヌという名前の1人のカウボーイがキャンプを出ることを許された。ベルヌは1人のインディアンが馬を下りたのに気づいた。ベルヌが近づいてみると、 そのインディアンはベルヌをライフル銃の射程内に収めた。ベルヌはすぐに馬を下りて、赤肌[インディアン]の反対側に立つと、馬の首に自分のウィンチェスター銃を置いた。するとインディアンは馬の背で跳ねながら全速力でベルヌのほうに向かって撃たないように手振りで示した。インディアンはベルヌの近くで馬を下りると、地面を指差してベルヌにたくさんの鹿の足跡を示した。それから誤解が解けると、カウボーイは再び馬に乗って道中を続け、アパッチ族は鹿狩りを続けた。

ある日、このカウボーイがキャンプから約10マイル[約16キロメートル]のところまで来た時、インディアンの2頭のすばらしい馬を見つけた。それは群からはぐれた馬であった。アパッチ族が食べてしまった牛に対する代償になると考えた彼は馬を 5マイル[約8キロメートル]ほど離れた草と水が豊富な峡谷に連れて行って放した。インディアン達が去った後、そこに戻って馬を自分のものにしようと考えた。

このインディアンの集団が到着してから10日後、調停のために派遣された2人のインディアンを伴った合衆国軍がキャンプに到着して、アパッチ族が食べてしまった牛の代金を支払って、インディアンと家畜を連れてフォート・ボウイに向かった。カウボーイ達は馬を放した峡谷にすぐに向かったが、あまり遠くまで行かないうちに、部族民に追いつこうと彼らの目前で馬を追い立てているインディアンに遭遇した。

アパッチ伝道所、メディシン・クリーク渓谷、フォート・シル軍用地

明らかに青白い顔[白人]の狡猾さは、赤い肌の人[インディアン]を出し抜けなかった。

ジェロニモは、ここで言及した出来事について詳しいことは知らないと言ったが、彼らについて何か知っているかどうか答えることを拒んだ。彼が責任を負うべき者達以外の赤い肌の人々の略奪行為について何か言うことは男らしくないことだと考えていた。

これらの事件は、ジェロニモが部族民の受けた「不正」に対して復讐するために戦士達を率いていた頃に 「アパッチ族の土地」で起きた事件である。この章は、ジェロニモが提供してくれたアパッチ族の無法行為の事例がたくさんあることを示すことに役立ち、ジェロニモが野蛮な無法さの教示において最も優れた教師であることを示すことに役立った。

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第2部 メキシコ人 第11章 激しい戦いに続く

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