finalvet読書会 初心者コース 市川沙央『ハンチバック』はなぜ初心者向けなのか?

このfinalvet読書会は初心者コース用である。ならば、市川沙央『ハンチバック』はなぜ初心者向けと考えられるのか。選者たちですら読み取りづらかっただろう「テキストの多相性」や、また「デヴィッド・リンチ作品における障害者表象」といった参照は初心者向けではないと言えるかもしえない。

だが、前者については、大衆向けのラノベ(ライトノベル)やコミックでも多世界の時間軸や作中作品などですでに多用されている陳腐な意匠だとも言えるし、後者の知的装置としての参照については存外に複雑なものはないように配慮されている。例えば、「デヴィッド・リンチ作品における障害者表象」のキーワードでググるだけで、『イレイザーヘッド』や『エレファント・マン』は見つかるし、その関連議論も容易に見つかるだろう。さらに丹念にググれば、『ツイン・ピークス』第2話の「赤い部屋」と小人にも至り、そこで『ハンチバック』という作品が『ツイン・ピークス』からインスパイアされている可能性も見いだせるだろう。

これらは文学的な意匠であり、しばしば初心者に向かないとみなされているようだが、文学の本質的な難解さを構成するものではない。

他方、本書が極めて初心者向けであるのは、その同時代性である。『ハンチバック』という作品は、私たち現存の、特に現在日本人社会の同時代にストレートに対応している。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を読むような、時代背景理解と作品理解から現在の読者への飛躍といった文学的な労苦を要する必要はない。

『ハンチバック』の、同時代の話題としてもっとも目立つのは、重度障害者についてであり、著者もマスコミ慣れしてきているのか、重度障害者の読書といったわかりやすい話題に大衆メディアを誘導しているように見受けられるが、作品固有の課題で言うなら、重度障害者の性の問題であり、定番的に言うなら、リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(Sexual and Reproductive Health and Rights: 性と生殖に関する健康と権利)の問題である。本書的に偽悪的に言うなら、重度障害者に適した売買春はなぜ認可されないのだろうか?という問いで近接線が描けるかもしれない。

こうした一見わかりやすい問題の一枚裏に、もはやまともに論じられることのない「弱者男性」問題が描かれている。およそある程度日本の知的風土における見栄えを考慮するなら、「弱者男性」はもはやタブーである、か、あるいは、それっぽいネット論壇というゴミ箱に安置すべき問題だろう。だが、この知的所作そのものが「弱者男性」の問題が強固であることを『ハンチバック』は明るみに出している。

社会的には性的快楽の追求があたかも倫理的に限定され、生殖も実質不可能のまま放置されている重度障害者の女性と「弱者男性」、という二者を、そもそも組み合わせるということが、芸術的な行為に他ならない。この作品はこの思考実験から逃げない。その結果は、倫理的に防衛されがちな重度障害者の女性を加害に置き、嘲笑が対価とされかねない「弱者男性」がとことん屈辱の被害に置かれる。

この作品の奇跡は、ここで開示される。「弱者男性」は憐憫といった社会の通俗倫理ではなく、自身の倫理性において、重度障害者の女性と対等で同一の地平に、人として現れることだ。聖書的に言えば、悪の誘惑は回避されたのである。そのことは処罰でもあった。わかりやすく、聖書まで引用されているではないか。

端的にこの問題を言うなら、重度障害者の女性と「弱者男性」はどのように生きるべきなのか? である。答え自体は単純である。人として、健常者と対等の地平に尊厳をもって生きるべきなのだが、それは実際的には不可能とする現在のこの日本社会だからこそ、その痛みを社会に押し返さなくてはならない。もっと端的に言おう、『ハンチバック』を読んで、返された痛みを感じないなら、およそこの作品を読んだことにならない。それが既存倫理でバッファされないように、初心者にもわかりやすいように、限りなくおぞましく描かれている。

この作品はこの点で、普通に読めばいいのだ。普通というのは、普通にこの日本社会の理不尽さが与える自身の痛みを読者は文学装置のなかで増幅し想像し、共感すればいい。自身の裸身のおぞましさを鏡を見るように、そのまま受け止めればよいのである。

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