『豊饒の海』の基本構造メモ

井上隆史の関連書を読み、また、『豊饒の海』の読後感も見つめながら、この基本構造についてメモしておきたい。

一つは、テキストの多重構造である。『春の雪』は比較的単相というか、古典的に描かれているが、『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』には、小説内小説とでもいうべきテキストの多層性がある。井上の研究では当初戯曲の挿入も検討されていたらしい。

『春の雪』のテキストの多層性は分離しがたいが、根幹になるのは、清顕の夢日記であり、これは繰り返すが分離されたテキストにはなっていない。

が、ここが『豊饒の海』の全体の基本構造を決定している。つまり、「清顕の夢日記」が『豊饒の海』の全体におけるリアル(実在)の世界であって、清顕、勲、ジン・ジャンは、その夢(夢日記)の派生である。むしろ、現実とは、夢の夢である。ゆえに、彼らは現世においては、転生なのであり、夢の夢としての私たちの「現実」は時間的な拘束を受けている。このため、本多繁邦は老いて行かなくはならない。が、転生者は老いることができない。

このことが、三島由紀夫の「阿頼耶識」の意味であろう。阿頼耶識が輪廻転生を生み出すのではなく、「阿頼耶識=清顕の夢=本質世界」が、夢の夢としての現実、としての本多の認識に転生として現れる。

ここから、本多の覗き趣味は、本質世界を覗き込む、ことの比喩になる。

現実として認識されている世界は、時間=老い、に支配されているため、肉体と意識の現実的顕現は、神々の黄昏的な崩壊に至るしかない。

ジン・ジャンの黒子はその衰退の過渡期であり、覗き見ることでしかもはや現れない。

では、透は?

透については、覗き見る=本質世界看取なくして黒子がある、という、現実における転生の象徴が現れることで、転生から断ち切られているかのようだが、では、勲との差はなにか? 大きな差は「清顕の夢日記」という統一性からの逸脱だろう。これが、透の「日記」に対応する。

透の「日記」は、三島由紀夫自身の青春の自意識象と同型であり、この部分は一種の彼の自虐として描かれているのだろう。

存外にスキーマティックに解けないのは、透が清顕の夢日記を見て、自殺を試みることだ。この理由は作品からはよくわからない。おそらく、転生者としての特権のような、現世世界の超越の不可能の絶望であろう。この点は、三島由紀夫本人をなぞってもいる。

あと、作品の最終部だが、井上の指摘にもあるが、11月25日に設定されたいわば演出であり、この最終部はかなり初期というか『天人五衰』の初期段階で決められていたものであり、『春の雪』においても大枠は決められていたものだろう。その意味で、この結末を意外とする評論は、おそらく全的に読解を外しているだろう。もっとも、井上によるノート研究では、最終部の意味づけは異なっていただろうが。

すると、『豊饒の海』の最終部とは、本多が聡子に会う決断に至る部分にあるだろう。つまり、聡子との対面はむしろエピローグに過ぎない。

では、本多の決断(聡子に会うこと)だが、これは仮託された人生の崩壊だろう。富も名声も崩壊させられたことである。そして、このことを惹起したのは、慶子と透の対決であり、この慶子は孔雀である。すると、透とは蛇である。

『豊饒の海』評論の全体像を私は知らないが、慶子=孔雀、もまた『豊饒の海』のもっとも需要な構造だろう。おそらく、ジン・ジャンは慶子によって守られていたともいえるだろう。

余談だが、村上春樹『1Q84』も『空気さなぎ』がリアルの世界を現すという構造を持っている。

テキスト中の非時間性テキストが現実を非現実化するためのリアルの装置であるという構造は、プルースト『失われた時を求めて』を求めてにも似ている。この作品では、非現実そのものは描かれていないが、現実世界に介在する記憶の運動が、現実世界とは異なるリアルな世界を描こうとしている。そして、『失われた時を求めて』においても、そのリアルは、現実世界のおぞましさによる崩壊、つまり、スワン、オデット、シャルリュス男爵、アルベルチーヌといった人々のおぞましさからを世界が亀裂させられる。

おそらく、世界の臨界は、世界を超える欲望によって幻視させるものであり、その世界を超える欲望は、「おぞましさ」によって形成されるものだろう。

「おぞましさ」=abjectionが(クリスティヴァのそれとはやや異なり)、テキストを介して、リアル=本質世界と結びつく、というスキームが、これらの作品にはある。

その意味では、三島由紀夫が最期に内蔵をぶちまけるのも、「おぞましさ」=abjectionの体現ではあっただろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?