finalvent 読書会 D 三島由紀夫『春の雪』を読んで

finalvent 読書会もお休み的な雰囲気かもしれないが、個人的には、この間、三島由紀夫『春の雪』を読んでいた。精読である。メモをとりながら、辞書を引きながら読んだ。なにより没頭した。ああ、小説を読むというのはこういうことだったのだという思いを新たにした。

圧倒的な傑作だった。読むにあたって一番懸念したのは、自分が66歳で三島由紀夫がこれを書いたときは40歳だったことだ。文章には、年齢が出る。自分が歳を重ねるにつれ、若い人の作品が若い文体であることに、ある、物足りなさを感じるようになる。それはちょうど自分が50歳のとき漱石の『明暗』を読んで感じたことだ。『明暗』は名作だが、読後、微妙な若さを感じてしまった。それは清々しい感じでもあるのだが、もし漱石があと10年生きていたら、その人間観にはさらなる深みがあるだろうという物惜しい感じが入り混じった。

『春の雪』はたしかに若い作家の作品であることは感じた。その膨大なエネルギーからだ。若さゆえの辛辣なそしてやや皮相な人間観も感じないではないが、それはむしろ老いがもたらす人間への憐憫のようなものであって、おそらく三島はそれこそを禁じたのかもしれない。それでも、辛辣さを突き抜けて、人間という存在への愛も感じた。特に、蓼科という女の描写には人の暗部を捉える愉悦のようなものを感じた。祖母も、おそらく三島には憎悪かもしれないが、美しく描かれていた。人間の隠された欲望の奇怪さへの洞察は剃刀のようだった。

人が、主人公らを含めて、愚かな人間であることには、それを見つめる、なんというのか冷たい超越者の視線を感じた。こうした作品はある種、なるほど仏典を感じさせるものだった。

そして、恐ろしく巧緻な作品だった。文章の完成度は極限に達していた。しかし、そうした表層的な面より重要なのは、恐ろしいまでの重層性だった。この作品は、一般に言われているような作品ではないだろう。もちろん、恋愛小説でもあり、ロマンでもあるのだが、それらは高度な比喩の外枠でしかないだろう。

この物語の本質は夢と象徴を介した形而上学的なテーマを扱っている。それは、自分の繰り返す表現が拙いのだが、小説に散りばめられている唯識哲学のことではない。犬や土竜の屍体、エメラルドの緑、性器(これがとても重要なパーツである)、そして一見乱雑に見える夢、こうしたものがある方向性を持っていることだ。

まだ一巻しか読んでいないので、この形而上学的的なテーマがどのような伏線となっているのかわからない。

人は私と限らず、ある種の名作は、もっと早い時期に読んでおけばよかったと中年期を過ぎて後悔するだろうし、『豊饒の海』はまさにそうであるかのようにも思えるが、むしろ、今の自分でなければこんな作品は理解できなかっただろうと思った。

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