なぜ「豊饒の海」なのか?

なぜ「豊饒の海」なのか? この単純な問いに答えた評論を私は知らないか、あるいは、私がまったくそれらの解を受け付けないかだが、ここで私の思いをメモしておきたい。単純である。

「豊穣の海」というのは、「豊穣」つまり「豊かさの海」だが、言うまでもなく、これは月面の地名であり、この「豊饒の海」には、水一滴すらない。まったく何もない。だ・か・ら、豊穣の海、なのである。

虚無そのものが豊穣なのである。無こそが森羅万象の帰結であり、またそれが生み出されるものである。

そして、この作品において、『春の雪』に明確に記されている。そしてこのことは、最終部の聡子についても。

『春の雪』p313(文庫)
「君はのちにすべてを忘れる決心がついているんだね」
「ええ、どういう形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いている道は、道ではなく桟橋ですから、そこかでそれが終わって、海がはじまるのは仕方がございませんわ。

この時点で、聡子はすべてを忘れることなり、そして、その物語の先は、海が始まる。忘却=非認識対象=虚無、という無の海。

『天人五衰』はすでに終わりである無の海を見つめるものから、逆のものが生み出され、また、それも消えていく。

転生とは、無の認識の一つのありかたであり、認識したいという欲望のなかで転生が現れる。

本多=認識は、聡子の忘却の意思のまえで、転生の欲望がすべて潰える。

であれば、認識の外=死の意志、によって、再度転生が意志として構築されるのだろうか?


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