ほめられることより大切なこと

誤操作だろう、「ほめられることより大切なこと」という記事が出てきた。れいの「嫌われる勇気」の古賀さんの文章である。短時間でさらっと読めるよい文章で、基軸はアドラー心理学によせて、褒められることより誰かに貢献できること、そうした意識が大切だとあった。いい話だと思うと同時に、自分には実際にはあまりそうした感性がないことに気がつく。理由は簡単で、貢献の意識は自己満足だが、ほめられることには微妙な客観性があり、人の傾向が後者になびくのは当然だろうなと思うからである。

という感覚すら実は、私の基本的な離人症的な性向が隠れている。自意識の、自己に起因するある確からしさの感覚が、原初的に欠落していることだ。より率直にいえば、自分が誰かに貢献できるためには、基本的な他者の認識とその敬愛のような基底を含まなければならないのだが、そういう自然的な感覚は自分にはないのである。

そういうものかと思って生きてきた。せいぜい、離人症的な傾向を病的にまでしなければよい。私がいわゆる鬱にならないのも、離人症的な傾向が保護になっている面もあるだろう。だが、数年前から、老いの自覚に関連しているだろうが、「私の感覚」ということが重要になってきた。思想的にいうなら、森有正が述べていた「経験」というのはこれに関連しているのではないかという思いがある。

私は「私の感覚」を持つ。当たり前のことのようだが、これを背理的に言うなら、私は他者の感覚を模倣しなくなったし、模倣感のあるとき、うーん、それはどうかなと離人症的な感性が道具的に現れるようになった。

世界や他者というものを、私が私の感覚において捉えてよい。というか私の感覚のなかに私に明晰に現れたものを、世界が、他者がなんと言おうが二次的に扱ってもよい、そういう奇妙な安心と存在の軸のようなものが生まれた。

こんなものは、普通の人間なら自我の目覚めと同時に、4歳くらいで習得するものかもしれない。私は自我形成に失敗しただけなのだとも思うが、ざっくり世間を見渡してみると、「私の感覚」という軸で生きている人はそれほどいないようにも見える。そこはなんというのか、「私の好悪感」が覆っている。

私が私の感覚を持つというのは、私の好悪感とは微妙に違う。この感覚というのは、ある種の論理的な判断に近く、つまり、デカルトなどがいうSensに近い。むしろ、Bon sensといのは、Mon sensの派生から生じるというか、Mon sensのあり方に思える。

私は私の感覚からものを考え、語るようになった。その奇妙な当たり前さをどう伝えてよいのかわからない。

話を起点に戻すと、「ほめられることより大切なもの」は、私の感覚だろう。ただ、これを上手に伝えることができない。





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