finalvent 読書会 D 三島由紀夫『暁の寺』『天人五衰』を読了

この間、感冒となり比較的安静にしていたが、気力を戻しつつ、三島由紀夫『暁の寺』『天人五衰』を読了した。『豊饒の海』全巻を読み終えた。ちなみに、ざっと調べると文字数にして原稿用紙3000枚ほどの作品で、村上春樹の最大長編『1Q84』が2000枚ほどらしく、『豊饒の海』は思い浮かべる日本現代純文学の最長作品ではないか。

『暁の寺』を読み終えたときは、体調が悪く、感想も書けなかった。この作品は二部構成で戦前と戦後、そして、日本の外のタイとインドを、対比的に描いている。転生はやや全面に打ち出され、タイとインドの光景に合わせて、唯識がかなり精緻に説明されている。が、この部分は三島由紀夫の独自解釈としていいだろう。この作品は『金閣寺』を自己模倣した印象がある。対して、『春の雪』は『潮騒』を連想させる。

『天人五衰』は偽の転生を巡る、本多のある意味、妄執の物語で、前半は『午後の曳航』のような港と海の、三島由紀夫らしい感性で緻密に描かれている。内部に、透の手記が長く挿入されているが、このあたりは、『仮面の告白』のような初期三島由紀夫の自己模倣も感じられる。

『暁の寺』『天人五衰』は小説としてのエネルギーが衰退しているとの感想を持つ人もいるようだが、作品としての緻密な構成と、文体、圧倒的な物語の構成力において衰えは感じられない。執筆ノートの乖離も注目されるが、この構成に三島由紀夫の決断はあっただろう。透と慶子の対決はドストエフスキー的でもあった。(慶子は孔雀でもあるのだろう)。

最終部だが、実際、こうして集中して読み通してみれば、あの日、1970年11月25日の秘密が納得できるのではないか。あるいは、私自身が、三島由紀夫に共感し、転生のようなある宗教信念を理解できるのではないかという期待もあった。が、それはなかった。三島由紀夫の死は以前、謎のまま残った。

意外なほど、この作品の集結と三島由紀夫の自決にはつながるものがなかった。むしろ、『暁の寺』における、実相の完全性のための死の要請や、『天人五衰』における、生に倦むことは三島由紀夫の厭世感を表していただろう。それをもってもそれなりに三島由紀夫の自死は説明は可能だ。

いずれにせよ『豊饒の海』はあまりにも圧倒的な作品であり、ドストエフスキーやプルーストに拮抗できる偉大な作品であるが、主要なテーマはよくわからないというのが読後の実感である。特に冒頭の日露戦争の亡霊のモチーフは行き場がなかったように思う。

そうはいっても、この作品が開かせる、「私の秘密」というものは十分に強烈だった。傲慢な言い方になるが、この作品の感性を、感性の次元で理解できる人は稀ではないかと思った。その稀に自分が選ばれているような倒錯したお喜びと絶望感を感じた。多くの人は、自分もその一人でもあるが、三島由紀夫をその思想や文学観において捉えようとする。しかし、彼は文学者であり、『豊饒の海』は文学的な達成であった。文学とは文体という肉体の香りそのものなのである。

この作品に選ばれたという感覚を、もっと率直言うなら、生きることの、行き場のない寂しさのようなものである。それが、圧倒的に迫る作品であり、それだけで、この作品が自分にとってかけがえのないものでもあった。

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