【 ガラテヤ3,4章 】信仰による恵み
ユダヤ人たちは、これまで厳しい基準の律法や掟を守ってきました。
そのためユダヤ主義者たちは、「信仰の恵みのメッセージは、異邦人キリスト者に合わせて律法遵守の基準を下げることとなり、キリスト教信仰の力を弱め、自分勝手でずさんな生き方を助長することになる」と、パウロを批判しました。
これに対しパウロは、「救いの基礎は神の約束にある」と、福音に条件を加えることで、真理を無効にしていると反論します。
アブラハムの子孫とは(3:1-14)
ガラテヤの信者の中には、五旬祭の日にエルサレムにいて聖霊を受けた人もいたことでしょう。そのほかにも、霊を受け、奇跡を目の当たりにしたこともありました。
それらの霊的体験について、彼らは、ユダヤ教の律法に従うことによって神の御霊を受けたのではないことを知っていたはずです。
パウロは、そのことを信仰の父アブラハムの例から、ガラテヤの人々に思い起こさせようとしました。
アブラハムの子孫とは、信仰による人々であって、律法を守る人々ではありません。
アブラハムは、主を信じることによって神の前に義とされ、割礼のしるしをもらいました(創世17:10)。
この神の約束は、信仰をよりどころとしています。神を信じるあらゆる時代、あらゆる人々は、このアブラハムの祝福を共有しているのです。
このことは、私たちにとって大いなる遺産であり、慰めとなる約束です。そして、この神の約束こそ、私たちが生きていくうえでの土台となる御言葉なのです。
これに対し律法ができることは、有罪の判決を下すことであり、有罪の判決を取消すためには、何もすることができません。
律法に従って生きていたとき、私たちは罪に縛られ、過去の過ちに打ちのめされ、欲望に抑えつけられていました(ガラ3:23)。
しかし、キリストは十字架にかけられたときに、この律法の呪いをご自身に負ってくださいました。
キリストが律法の呪いから、私たちを贖い出してくださったので、私たちは神の怒りを受けることはありません。
神は、イエス・キリストという脱出の道を与えてくださったのです。
アブラハムが主を信じたように、私たちも十字架の贖いを信じることで、アブラハムの祝福を共有し、大いなる相続財産である霊を受けることができるようになりました。
神の言葉を人生の土台として生きる人々、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子孫なのです(ガラ3:7)。
信仰と律法の関係とは(3:15-29)
『出エジプト記』には記されてはいませんが、十戒は御使いによってモーセに与えられました(使徒7:38,53)。
この律法には、①神のご性質と御心を明らかにして、人々に生き方を示すことと、②人々の罪を指摘するというはたらきがあります。
したがって、律法を完全に従うことによって、神を喜ばせることはできません。
律法の役割は、すべてのものを罪の中に閉じ込め、イエス・キリストの真実によって、アブラハムの祝福を信じる人々に相続させる養育者であり、財産の管理人であったということです。
ガラテヤの人々は、おもにローマ帝国の支配下にあるギリシア人でした。
そのためパウロは、ローマの法とギリシア人の慣習を通して律法のはたらきと、その呪いからの解放について話しをします。
ローマの法によれば、相続人である子どもが14歳になるまでは父親の定めた後見人、養育係のもとにおかれました。
養育係は、幼い子どもの学校の送り迎えや面倒を見て、成人するまでしつけをしていました。これは教育というより生活訓練のようなものです。
律法は養育係のように、悪いことを指摘して、正しい行いへと導こうとします。それは社会の中で生きていくための常識を身に着けるため、そして父親の財産を受け継ぎ、豊かに活用していくための人格を養うためです。
ローマの法によれば、財産の管理に関しては、相続人が25歳になるまでは、管理人の監督のもとにおかれており、いくら相続人であっても相続財産を処分する権限は与えられていませんでした。
律法は管理人のように、相続人に代わり財産の管理を行っています。しかしそれは、相続人が父親の思いを受け継ぎ、豊かに成長するまでの話です。
ローマの法によれば、養子がたとえ以前は奴隷であっても、父親の財産に対するすべての法的権利を保証されていました。
このローマの養子のように、私たちは、神とは無縁の者であったけれども、イエスを信じることによって、イエスの死によって与えられた相続財産、神の恵み、聖霊を受けることができます。
未成年者が成長し、また養子が受け入れられ、父親の相続財産を受け取るように、私たちは、神の約束を信じる信仰によって、アブラハムの祝福を豊かに共有することができます。
イエスは、人の身でありながら、律法に従い、完全に成就され、神の前で完全ないけにえとなられました。
このことを信じることが信仰であり、それに応答するのが律法なのです。なぜなら、信仰によって生きるとは、ローマ人の日常にたとえるならば、未成年者や養子が父親の模範に従って生きることだからです。
したがって旧約聖書は、感謝の応答として表すものであれば、今なお適用されます。
神は旧約聖書で、ご自分の性質や、人間への御心、道徳、生きるための指針を明らかにされているからです。
自由人と奴隷(4:1-5:1)
ガラテヤの人々は、良いことに熱心でした。しかし今は、神ではなく、人にとっての良いことに熱心になり救いの喜びを失っていました。
パウロは、はじめのときに立ち帰るように呼びかけ、サラとハガルの例から、自由人と奴隷について話しをします。
この2人の女は、2つの契約を表しています。ハガルはアラビアではシナイ山(律法)のことで、サラは神の約束による自由です。
当時のギリシアでは、人間は自由人と奴隷にわけて考えられ、誰にも隷属しない人が自由人であり、政治的・社会的・身分的な意味で自由が与えられていました。
このギリシアの奴隷と同じように、ガラテヤの人々は、ユダヤ主義者に律法を強いられ、奴隷になるように迫害されています。
もし割礼を受けるならば、律法全体を行う義務があります(ガラ5:3)。しかし異邦人は割礼を受け、律法と慣習に従うことによってユダヤ人になったとしても、ユダヤ人は、異邦人を完全には受け入れられることはありません。
エジプトの奴隷の子イシュマエルのように、先に生まれた自分を誇るからです。
ガラテヤの人々は、イサクが乳離れしたように、一人一人が信仰のもとに歩きだそうとしたときに(ヘブライ5:13-14)、ユダヤ主義者たちから迫害を受けました。パウロは、子を思う母のように、自由の子を取り戻そうとしています(サム下17:8、箴言17:12)。
パウロは、はじめてガラテヤの人々に福音を宣べ伝えたとき、「私のことを神の天使やキリスト・イエスのように受け入れてくれました(ガラ4:14)」と言いました。
そして、「あのとき、あなたたちが信じたそのパウロが今、取り戻そうとしているこの事実こそ、あなたたちが約束の子、自由の身から生まれた子の証しである」ということを言っているのです。
それはパウロの言葉が神の言葉であると信じる信仰によって確かなものとなります。
この『ガラテヤの信徒への手紙』は、今日では、神の霊感された言葉として聖書におさめられています。
そして、このあとパウロは、キリスト者の自由について話し始めます。
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