「姫小松子日の遊」翻刻 三段目

「〈二上り歌〉夢に戸叩き現に開けて、水のたる様な前髪様と、朝日さすまで寝てござる、ションガヱ、いとし男と伽羅の香は、一夜二夜はおろかのことよ、幾夜とめてもとめあかぬ、ションガヱ」〈ナヲス〉歌ふ声々、奈良坂や、このて柏の二面、裏も表も一つ家の、とにもかくにも商売を稼ぐ夫婦が手回しの、軽ふ見えても内証は、こり木商ひ、掛け分ける、追分村の束ね木に、夫は掛け矢、妻は妻木の束ね様、習ひ覚えてかいしょげに、「〈詞〉コレ万作殿、あたふたせずとちと休んだが良いはいの」と、〈地〉言ひつゝ差し出す汲み置きの、茶のがぶがぶもどこやらに、〈フシ〉花香残りてかはいらし。
茶碗手に取り「われも飲め」と一口飲まし、あと頂いてずっと飲む、「〈詞〉コレあほらしい、門中で人が見てゐるはいの」「見たらなんぢゃ。貴様は女房、おりゃ旦那、親父は留守なり、差し合ひなし。ハヽヽヽヽ、こりゃおやす、そちはもと康頼様にこしもと奉公、なかふど要らずのせゝくり合ひ、おなかにもの言ひひょんなことぢゃと、思ふ矢先三人の御流罪。屋敷々々は召し上げられ、そちもこの親里へ戻ったがもっけの幸ひ。心おやすに坊主めは生まれる。この亀王が身の置き所、随分あの小弁殿を大事にかけてくれ、真実の子の亀太郎はなんとも思はぬ。したが疱瘡がはやる、風ひかすな」「サイナ、わたしもそふ思ふていろいろのまじなひ。それはそふぢゃが、曇ったかげんが日足は見えねどモウ暮れ前。しまをぢゃあるまいか」「ヲヽしまふとも、しまふとも。サァサァ片付け」「〈地〉心得ました」と夫婦がてんでにおてゝの束ね木、仲良い中の鼻歌小歌、「サァほふるぞ。〈歌〉ソリャ一夜なれ一夜なれ、帯買ふてとらしょ、帯ぢゃ名が立つ、せうてたもれ、ションガヱ」〈地〉しゃんと片付け竹の簀戸、あらい焚き付け選り分けて、「〈詞〉これは勝手の下用焚き、気を入れずともくゎっくゎっと焚け。さっきにからいかふ寒ふなった、今夜は大方雪であろ。親父殿は寺参り、まだ戻らず。坊主めが寒がって震ひをろ。ドレそのふるひおこしゃ」と、〈地〉砂ぐち木屑掻き入れて、竹のとをしの粗い目に、〈フシ〉細かな始末しほらしゝ。
上の町から親次郎九郎、孫の亀太郎懐に、片手に小弁が手を引いて、息せき戻る我が家の門、あとから追っつく頼み寺の同宿が、「ヲヽイヲヽイ次郎九殿、親父殿と呼びかけて走り付き、「〈詞〉さっても達者な早い足」「イヤ早い足は俺よりこなた、〈地〉マァマァ内へ」と伴ひ入る。「〈詞〉ヲヽとゝ様戻らしたか。小弁さぞ寒からふ、マァ炬燵へ。ぼんが乳飲みたがる時分、ドレこっちへ。ほんにわたしとしたことが、こっちの言ふことばっかり、お寺の御苦労に、よふお参りなされてくださりました」と、〈地〉挨拶すれば聟万作、「〈詞〉イヤわがみより俺がうっかり。サァおたばこ上りませ」「イヤイヤお構ひなさるゝな、親父殿、コリャ聟殿ぢゃの、元服なされたでとんと見忘れた」「アヽ誰しも覚えのあること。前髪は早ふ下ろしたいもの。愚僧が扈従勤めし折、人が袖褄引いた故、懲り果てゝの行道。今でも扈従の時の癖がうさらず、おゐどもっ立て、逆さまになって寝る故、名を雲穴うんけつとつけられた」「ヱヽ坊様、あほう口きかずと念仏は申さぬかいの。娘も聞いてゐるのに、差し合ひを知らぬお坊ではあるはいの」「アヽ親父殿、悪い合点。けふこなたが入る仏事、非時代もお布施も持って参ったぢゃないか。それで弔ひは済んである、愚僧も朝晩仏壇へ向ふてもお経は覚えず、看経にも念仏、夜昼なしの常念仏、ほっとりと飽き果てた。こゝへきしなも、寺の門をぬっと出ると、極楽へ出た様な。アヽどふぞ願はくは三日念仏申さずに死にたい」「さてはこなたは逮夜に参ったのぢゃないか」「アヽ親父殿、無粋々々。逮夜とかこつけこそと出かける」「コレ坊様、三衣の手前もあるぞかし、その堕落はやめさっしゃれ」「コレ次郎九殿、こなたは談義を聞かぬか。すでに釈尊だにも、耶輸多羅女やしゅたらにょと契りをこめ、安倍童子を産み給ふ。〈地〉もとよりこの身は好きの道、必ず沙汰なふ頼みます」と、仏壇は見向きもせず、雪駄も足に横町の〈フシ〉こそこそ宿へ走り行く。
次郎九郎は呆れ顔、「〈詞〉聟殿聞いてか、取って行けなお坊。したが隠さぬところが出家気質、ドリャ仏壇へ御明り」と〈地〉納戸へ入るや入相の、鐘の数添ふ六つの花、しきりに降りて積もる夜の、花ぞ散りける東屋が母の命日同じ日と、親斎藤次が位牌もともに主と親とに香花を、弔ふのりの手向けの水。亀王はしほしほと、小弁が手を引き仏間に向ひ、「〈詞〉かゝ様やばゞ様の御命日のお逮夜、戒名を覚えてか」「アイかゝ様の戒名は智覚院貞心大姉、ばゞ様は妙法院無量大禅尼。頓生菩提、〈地〉南無阿弥陀仏」と回向の声。おやす親子、亀王も、南無阿弥陀仏の声ふるひ、〈スヱテ〉どふど座して泣きゐたり。
亀王やうやう涙を止め、「〈詞〉アヽ未練な、また泣いてのけた。改め言ふには及ばねども、東屋様の、あの子のことをくれぐれのお頼み、『お気遣ひなされますな。人に指も差さすことぢゃござらぬ』と、請け合ふて別れたあとで御自害。いっそその時御同道申したらばと思ふたばかり、我が親の敵飛騨左衛門めを討たふにも、あの子が枷となって討たれもせず、〈地〉うかうかとしてはなほゐられず、〈詞〉親父殿も存じの通り、この二ヶ月以前より、外を家を駆け回るは、なにとぞ源氏の余類を尋ね一旗揚げ、主人の仇、親の敵も討って、本望達せんと思ふ念力。天道にや通じけん、源氏手寄の余類こゝかしこに約諾し、〈地〉今宵も吉野辺まで立ち越え、坂東八ヶ国の武士どもへ、忍び忍びの手分けの相談。〈詞〉女房ども留守よふせい、〈地〉親父殿頼みます」と一腰ぼっこみ立ち出づれば、次郎九郎門の戸開け、「〈詞〉さても真っ白、コリャ大雪。今夜はよしにさっしゃれい。シテいつ戻らしゃる」「体によったら今夜直に戻ることもあらふ、それは不定、もし戻らずば四、五日も隙が入るでござらふ」と、〈地〉草鞋蓑笠取り出せば、女房おやすが心つき、「この寒いのにマァ一つ」と、ちろりに余る心の熱燗、精進なれど祝ふて旅立つ鰹節、行先祝ふ吉野盆、〈フシ〉心も丸き夫婦合ひ。
「〈詞〉娘よふ気がついた。言ふても大望の思ひ立ち、小なから酒で国が傾く。イヤこれもめでたい。俺も寝酒の相伴せう」「親父殿いて参らふ」と、〈地〉親の敵と主の仇、報ぜんための夜の旅、蓑笠引っ掛け出でゝ行く、雪の中なるたかんなに、劣らぬ孝行道はこふと、〈フシ〉足を早めて急ぎ行く。
あとは門の戸引き閉めて、「〈詞〉ヤレヤレ気さんじな男。この寒いのに隣歩きの様にしらるゝ」「ほんにとゝ様、寒いので思ひ出した。据風呂沸かして誰も入れず、寝しなに入って、寝酒に一つ飲んで御寝ぎょしなりませ」「ソリャ忝い。年寄りにはそれが薬。したがさら湯は毒ぢゃ、そなた先へ入りやらぬか」「とゝ様としたことが、いかに毒ぢゃてゝおまへより先に」「ほんに小弁殿連れて先へ入ろ。あとで坊主め〈地〉入れてやりや」と〈ヲクリ〉打ち連れ「納戸へ入りにけり。
やゝ更け渡る冬の空、雪もおやみて山寺の、鐘の音さへてもの淋し。雪踏み分けて足音もせぬが付け目のほくそ頭巾、目ばかり出せし大男、大だら差したる二人連れ、あたりをうそうそ小声になり、「〈詞〉コリャ動六よ、われがさっきに話した良い代物とはこの内か。とっくりと見定めず、無駄働きさすなよ」「ハテいはれぬ馬鹿念。お頭が指図で、この崖の動六、だくぼくの江吉めとはがんばり役、よふ見ておいた、気遣いすな。われ先へかまってしくじるなよ」「ソリャ合点。参るぞかゝるぞになっても、貧乏ゆるぎもさせぬこの生へぬきの岩、手筈はコリャかうかう」と〈地〉耳に口寄せさゝやけば、「こんだこんだ、首尾良ふせい。合図を待つぞ」とうなづき合ひ、〈フシ〉もと来し道へ別れ行く。
あとに残って生へぬきが、〈コハリ〉裏からそっと竹垣ふまへ、忍ぶ裏壁切り落とし、下家へ入る大男、板こぢ放し押し入れの、襖押し開け見回して、しすましたりと一人笑み、〈フシ〉また引立てゝ忍びゐる。
それとも知らず親子連れ、めいめい子供を抱きかゝへ、「〈詞〉ヤレヤレ結構な湯であった。万作は今時分はさぞ寒かろ。こちは極楽、ドリャ寝酒」と〈地〉ちろり引き寄せ「おやす一つ飲まんか」「〈詞〉マァそれへ上りませ。台所に精進の煮染め」「〈地〉ヲットぬかりは仕らん」と、茶碗でぐっと一刻飲み、「〈詞〉坊主めはもふ寝をったか。このぢいに似ても、とゝに似ても達者なやつ。ぢたいわれを産んだかゝが達者もので、俺が留守の間に取り上げばゞもいらばこそ、あんまり心安ふ産んだ故、われが名をすぐにおやす。そのわれが初産、この姉は腹一つ痛めずに設けた。そのあとへまたその坊主め、俺も万作も留守のうちに、にょろりと生まれてゐた。聟万作のあの達者では、なんぼう産もやらしれぬ。イヤこれを肴にも一杯。さっても良いは。おやす一口飲まんかい。おやす、ハァ寝たか、昼のくたびれで道理々々。〈地〉ドリャ酔ひの醒めぬうち、誰も寝よ」と戸棚より布団引き出し、「〈詞〉こいつをこふ敷いて、きゃつをかふ引っかぶって、イヤこれはさ」と〈地〉寝るより先に高いびき、〈フシ〉酒の添へぞきさんじなる。
この里外れの一つ家を、心あてたる夜働き、三人連れにてこぞり寄り、「〈詞〉今夜はどふしたかげんやら、行く先々がきついだいまち。いにがけの駄賃はこゝ、やってみようかい」「ヲヽ素手の孫三ではいなれまい。なんであらふとありたけこたけ、さらへてこませ」と〈地〉さゝやくがみども、鉄梃入れて戸尻をめっきり、引戸の下敷きこぢ放し、腕差し込んでかきがね外し、「サァしてやった」と戸を開くれど、親子は正体寝入りばな、内に忍びし以前の曲者、襖細めに差し覗き、「南無三、相客ごさんなれ」と身を潜めてぞ隠れゐる。表の方にはしすまし顔、「〈詞〉コリャコリャ、わいら二人は納戸のがらくた片付けよ。こゝは俺に任せておけ、手早に、手早に」「〈地〉ヲヽ飲み込んだ」と二人連れ、〈フシ〉納戸をさして忍び入る。
後に残って眼を配り、戸棚は楽しみ、まづ押し入れからさらへてこまそと、襖ぐゎらりの手先をぐっと締め上げられ、「アヽいたいた、〈詞〉コリャなにやつ」と言はせも立てず、〈地〉腰骨ぽんと蹴上げられ、親父が上へとんぼう返り、びっくりむっくり次郎九郎、「ヤレ盗人よ。おやす子供を大事にせい」と孫をだかへ、おやすも小弁後ろにかこひ、〈フシ〉うろうろうろつくばかりなり。
納戸の内より二人のがみども、抜き連れて斬りかくるを、「ちょこざいすな」とかいくゞり、右へころり、左へどっさり、起き上がるを踏みつけ踏みつけ踏み飛ばされ、三人ほうほう顔見合せ、「〈詞〉おのれはなにやつ。押し入れにかゞむからは、仲間外れの小働き、おいらとは一つ釜。その働きを見る上は、今からおいらが手下、この家内の道具、目に入ったものあらば、一つ二つはうぬにこます、持ってうせい」と〈地〉言はせも立てずくっくっと吹き出だし、「〈詞〉うぬらが心に引き比ぶどう盗人めら、昆布切れ一尺箸かたし、念がける男ぢゃない。道具ももとのところへ片付け、門の戸ももとの通りに打ちつけ、重ねてはこの内へ指もさすまいと、手形書きをろ、大盗人め」と決めつくれば、「ヤこいつが、盗人をつかまへて、盗人といや腹が立つ。〈地〉もふ許されぬ」とむしゃぶりつくをづでんどう、起き上がれば投げ据ゑられ、三人ながら手玉につかれひょろひょろひょろ、行灯はこけてまっくらがり。親子はハァハァ、次郎九郎はうろたへ声、「〈詞〉コレ初手に入った盗人殿、怪我さしゃんな」と〈地〉慌てふためく折も折、立ち帰る聟亀王、我が家の戸口「コリャなにごと、〈詞〉親父殿、おやすおやす」と呼ばゝれば、「ヲヽ良いところへ聟殿か。こちの内は盗人の稽古場、怪我せまいぞ」と呼ばゝる声。「〈地〉してこい合点」と腰刀ひらりと抜けば「南無三宝」と三人連れ、表をさして逃げ出づるを、眉間真っ向脛骨腰骨、当たるを幸ひ、逃ぐるをやらじと追っかくる。「コレコレ聟殿、長追ひ無用、怪我せまいぞ」と〈フシ〉表をさして慕ひ行く。
「サァしてやった」と以前の曲者、おやすを小脇に引っ抱へ、門口に飛んで出で、合図の呼子吹き鳴らせば、兼ねて合点の崖・だくぼく、長持かいて走りつき、「生へぬき首尾は」「上首尾々々々、蓋開けい」「ヲット合点」と受け取って長持へ打ち込めば、「コリャなにごとぢゃ、こちの人、〈詞〉万作殿、とゝ様のふ」と〈地〉わめけども、ぴっしゃりばったり籠の鳥、「かゝ様をどふする」と、小弁が走ってしがみつく。「ヱヽ面倒な」と振り放せば、むしゃぶりつき、足に食ひつくがむしゃ者、殺されもせず「アヽまゝよ、重荷に小付け」と一つに押し込み、錠前ぴんと棒差し込み、「夜明けぬうちにヤレ急げ、お頭へ手渡しせい」「まっかせ合点」とひっかたげ、いづくともなく急ぎ行く。遠目に見つける次郎九郎、こけつまろびつしがみつき、「〈詞〉娘をどこへコリャどふする。小弁といふは訳ある子、それを盗まれてはどふも聟へ言ひ訳がない。俺こそは町人なれ、聟は故ある侍。その侍から預かった大事の人、連れて行くなら、俺を殺して連れて行け。ことに懐に乳呑み子もあるはいやい。この坊主めはかつゑ死に、盗人なら盗人らしう、ありふれた道具は取りもせいで、これはマァ情ない。万作はなにしてぞ、万作ヤァイ」とおがる声、「〈地〉そいつが戻ればことやかまし」と、親父を引っ立てもとの門口、もとの内、押しやりへし入れ外からぴっしゃり、門の戸のかきがね閉めて懐より用意の金子五、六両、「〈詞〉コレ親父、その子めがかつゑぬ様、乳母取らしゃれ」と〈地〉門口の、窓から投げ込む小判の翼、飛ぶがごとくに曲者は、〈フシ〉行き方知らずなりにけり。
亀王はかくとも知らず、門の戸しゃくって「コリャどふぢゃ。〈詞〉親父殿、おやすおやす」「万作か、遅かった、さっきの盗人めがおやすと小弁を長持へ打ち込み、俺をこの様に立て籠めて、どっちやら行きをった」「〈地〉ヤァ南無三宝」と狂気のごとく大道を、西か東か南か北か、うろうろきょろきょろ「〈詞〉ヱヽしなしたり。女房はともあれ、天にも地にもたった一人の小弁殿、それ盗まれては生きても死んでも、〈地〉弓矢神にも見捨てられしか口惜しや、コリャどふせう」と行きつ戻りつ、「〈詞〉コレ親父殿、北か南か行き方は見つけずか」「それ見つけたらよけれども、立て籠められてなんにも知らぬ」「〈地〉ヱヽいひがいない」と、立って見ゐて見、足跡に心つくれどせん方なく、ハットとむねに即座の辻占、主人が譲りのこの魂と腰刀、雪かき集め「四つ辻の、うらまさしかれ辻占の神」と、唱ふる呪文、ばったりと東へこける柄頭、手に入る吉左右、瑞相と、押し頂き押しいたゞき、忠義の切羽抜け目なく、「坊主め頼む」と言ひ捨てゝ、〈三重〉跡を慕ふて「尋ね行く。
隠れ家は人里離れ高々と、男山の南に当たって、洞が嶽とて高山あり、頃しも二月の残雪に、枯木の枝の雪凍てゝ、剣を植へたる谷底は、鹿しゝ・猿・兎の道を断ち、空飛ぶ鳥も肝を消す、羅刹国とはこれやらん。こゝにも住めば住む人の、荒木を切って柱とし、屋根は木の葉の幾重八重、障子襖ももの詫びて、囲炉裏の煙のほとふりに、今年ぞ春を白梅や、吹雪に連れて庭の面、〈フシ〉白波とこそ見えにけれ。
この家の主の手下につく、節くれ立ちし深山の喜蔵、囲炉裏にまた火大あくび、「〈詞〉アヽぞっこんからぬくもったら、眠気がきた。兵よ、なめらはどこにをる。結構な火ができたが、当たらぬかい」〈地〉ヲット返事にこれもまた、雲つく様な大男、囲炉裏に馬乗り、尻引きまくり「〈詞〉さっても良いは、極楽ぢゃ」「なんとよかろがや。わりゃさっきにからなにしてゐた」「イヤお頭が薬煎じいと言はれたで、今までついてゐた。あのわろはなにしてゐるぞ」「サイヤイ、炬燵に当たって本見てゐらるゝ」「ヱヽ色の悪い、気味の悪い。意地の悪そふな顔つき」「そりゃわれが猿の尻笑ひ。あのわろぢゃてゝおいらぢゃてゝ、女房気のない気さんじ、湯かはゝせず髭剃らず、獣の交はり、〈謡〉頼みある中のまた火かな、〈フシ〉ハヽヽヽヽ」と高笑ひ。
一間へ聞こえてこの家のお頭、巌窟の来現、髪はおどろに生ひ茂り、延びたる眉毛にぎろつく眼中、朱鞘の一腰ゆるぎ出で、「〈詞〉存じの外の高笑ひはなにごと。今奥の御病人も、すやすやと寝入りばな、物音静かに静かに。コリャまだきのふから仕事にやった、三人の者どもは戻らぬか、首尾すれば良いがなァ」「イヤこれお頭、この兵や喜蔵はあとから来た今参り。新参ぢゃと思ふて、あいら三人は働きに出て、ナァ喜蔵よ」「ヲヽそれそれ、われが言ふ通りおいらも見立て、なんぞ仕事言ひつけてもらひたい」と〈地〉言ふに来現にこにこ笑ひ、「〈詞〉そふ思ふてくれるがすぐに働き、頼もしい。生へぬきに言ひつけしをなご連れてきたらば、お身たちもともども、夜前言ひ渡した通り、合点か」「それはぬからぬ、ナァ兵よ」「ヲヽサ飲み込んでゐる。もしそのをなごがいやと言ふたら、こちとらが血まぶれになる仕事」「シィ高い高い、奥へ聞こえる。その後の仕舞ひはそちとら二人に頼む。いやと言ふたらこりゃこふ」〈地〉と鼻付き合す三人が、噂半ばへ険阻の山道、「だくぼく合点か」「またげぢゃ崖道」二人連れ、〈フシ〉長持庭に舁き入るれば、
「〈詞〉動六・江吉戻ったか、仕事はどふぢゃ」「お頭気遣ひなさるな、まぶまぶ」「シテ生へぬきはなんとした」「〈地〉イヤ追っつけこゝへ」と詞のうち、木の根岩角飛ぶがごとく、深山・なめらが出向ふて、「〈詞〉岩戻ったか。まぶな様子は聞いた、大儀々々。〈地〉お頭が待ちかねて」と言ふに来現、「サァこゝへ。〈詞〉様子はどふぢゃ、それ聞きたい。マァ蓋開けてその人に」「イヤお待ちあそばせ。あの方の首尾お話申そふ。かの女を引っ捕へ、連れ帰らんとせしところに、八つばかりの娘の子、それがしに取りついて足手まとひ、面倒ながらこれもこの長持ちへ、一つに入るゝ折も折、六十あまりの老人、懐に乳呑み子を抱きかゝへ、『聟は故ある侍、その人に言ひ訳なし。我を殺して連れ行け』との一言。イヤイヤ殺しては後の災ひと、金子を与へ振り切って立ち帰る」「ムヽなに、侍の女房とな。よしよし、シテシテどふぢゃ」「それより道を急ぎ、この山へかゝる麓にて、なにとやら胸騒ぎ、合点行かずと振り返れば、五、六町も後より屈強の若者、追っかくる様に思へども、道もないこの険阻、よもやと思ひやりなぐれども、小事は大事のもと、ナ申し」「ムヽなるほど、千丈の堤も螻蟻より、焼き鳥に足緒へを。大儀ながら仕舞ふてこい」「〈地〉まっかせ合点」と駆け出せば、四人が口々「〈詞〉待てまて生へぬき、われが一人のくたびれ足心もとない。〈地〉なめらよこい」と駆け出す喜蔵、来現突っ立ち「〈詞〉ハテざはざはと仰山な。内にも大事の用事、何時知らず。たとへ五十、百伏せ勢あっても、しかねぬ生へぬき、早急げ」「〈フシ〉かしこまった」と駆け出だす。
あと見送ってなめらの兵、「〈詞〉ヱヽせめて俺一人なと連れて行かいで。コリャだくぼくよ、その役人を出さんかい」「ヲヽそふぢゃそふぢゃ」と〈地〉深山の喜蔵、崖の動六、四人が寄って棒外すやら錠突き開け、「サァ出やんせ」と呼ばゝる声々。おやすは小弁小脇にだかへ、飛んで出るより後ろに囲ひ見回せば、日の目拝まぬ荒男、色わる白くつっくつく、髪髭延びたる牛のごとし。一目見るより気も魂も消え入りしが、「コレ小弁、〈詞〉こはいことはなんにもない。わしにしっかと取りつきや」と〈地〉気は張弓でも膝がたがた、〈中フシ〉生きた心地はなかりけり。
来現じろじろ打ち眺め、「〈詞〉なんにも知らず、はるばるのところを、ヲヽヲヽ、ホヽホヽホヽよふこそよふこそ。そふして小さいのを連れてか、マァマァこゝへ。コリャ深山、なめらも出て挨拶をせんかいやい」と〈地〉言はれて二人が「〈詞〉ヲヽお内儀さん、よふござんしたの。コレぼん、おぢぢゃぞや。ムヽ良い子ではあるはい、なぁ動六よ」「ヲヽ夕べからおりゃ馴染み。コレお内儀さん、これの内には大切な御病人がある。その御病人についてこなさんがちっと入用、いやと言はんしてもおうと言はんしても、どふで血まぶれ仕事、ナ江吉よ」「ほんにわりない御無心、いやといふていにたうても、こゝは永沈ゑうちん同然。あの閻魔大王殿が連れて行けと、指図が出ねばいなれはせぬ。大儀ながら〈地〉奥へごんせ」と立ち寄れば、「マァマァマァマァ、待ってくださりませ。〈詞〉そんならどふでも、いぬることはならぬかへ」「ハテ知れたこと」「ハァア悲しや。そふしてまた血まぶれ仕事とあるからは、みなまで聞かねどわたし一人は覚悟の前。この子は夫から預かった大事の大事の訳ある子。申し拝みます、この子一人はお助けなされ、もとへ戻してくださりませ。申し閻魔様とやら、お聞き届けあそばして、ナァ申し、ならふことならわたしも次手に、ちょっと帰してくださりませ。この子さへ助けてくださりますなら、わたしが命は微塵さらさら惜しまねど、〈地〉さっきにからこの乳の張り、さぞぼんがひもじかろと、それが悲しい。たった今一度顔が見たい、コレお慈悲に頼みます、拝む拝む」と両の手に、流るゝ涙〈フシ〉深山木の、雪とけ初むるごとくなり。
来現は最前より、黙然としてゐたりしが、横手を打って「ハヽヽヽそふぢゃ、〈詞〉鹿を追ふ猟師は山を見ずといふ諺。はったりと忘れたり。このはうの言ふことばかり、後先の訳も言はぬ故、女心に我を殺さんために連れ来たりしとの推量はもっとももっとも。コリャ若者ども、この来現を始め、そちたちがなり格好、まことを言ふてもまことと思ふ者、一人もあるまい。この来現が頼み入る一大事、〈地〉合点のゆくやうにとっくりと言ひ聞かさん。お身たちは奥へ奥へ」「いかにも左様」と四人連れ〈ヲクリ〉伴ひ「奥に入りにけり。
「サァサァ女中、〈詞〉こはいこともなにもない。〈地〉イザまづこゝへ」とものやはらかほど気味悪く、たゞ「アイアイ」と後じさり。「〈詞〉ムヽこれもこっちが悪い。〈地〉落ち着くため」と腰刀膝元へ投げ出だし、「〈詞〉覚えのある業物、こなたも武士の妻とあるからは、腰に帯してしっかりと頼みたきことあり。〈地〉こゝへこゝへ」と招かれて、少しは心おやすが思ひ、小弁を後ろに押し囲ひ、心を配る目遣ひに、「なんの御用」と立ち寄れば、「〈詞〉イヤ頼み入りたき仔細、〈地〉口でまだまだ申さんより、しばらくそれに」と言ひ捨てヽ、奥の障子の立て明けも、心静かに押し開くれば、〈詞〉さもやごとなき上臈の、天上人と思しくて、〈地〉芙蓉のかんばせ気高くも、こぼれかゝりし品かたち、おもはゆげなる顔を上げ、重なる褥に打ちもたれ、「ヲヽ最前よりのあらましを、残らずこれにて聞きしぞや。〈詞〉のふ女中、自らは故ある身、仔細あってこのところに隠れ忍び、あの衆たちの介抱、心にたらはぬことはなけれど、ことにわらはゝたゞならぬ身、いつ安産か知らねども、乳人めのとの一人もあらばこそ。〈地〉をのこごばかりのその中でと、思へば心恥しく、いづくの誰か、いつしかまみえしことなけれど、女同士の情ぞや。生きる瀬か死ぬる瀬と常々噂に聞きつれば、我が身の上はいとはねど、〈詞〉おなかのやゝは忝くも」「イヤ、アヽそのあとは来現が」「〈地〉ヲヽとにもかくにもあの女中を、よろしう頼む」と〈フシ〉ばかりにて、打ち伏し給ふぞ理なる。
「大事の御身に風があたらばなにかの障り。お心あしくばいつなりとも、お手鳴らされよ」と障子引き立て一間を出で、「〈詞〉なに女中、そのもとの名はなんと申す」「アイ、わたしが名はやす」「なんぢゃ、おやす。産所には吉左右々々々。今聞いての通り、あなたのお頼み、我々がこの様に心を砕くもほかのことではない、右の訳。こふお頼み申すからは、あなたのお名も打ち明けて、お頼み申すはづなれども、サァそこが世を忍ぶ故、かくのしだら。見らるゝ通りの荒男、産みかゝってからあとのしゃうやく、どふして良いやら勝手を知らず。コレひとゑに頼む、コリャ皆も出てお頼み申せ」といふ声に、〈地〉四人おづおづ這ひ出でゝ、「〈詞〉なにも知らぬ不調法者、〈地〉よろしう頼み上げます」と〈フシ〉手を合すこそ殊勝なれ。
引くに引かれぬこの場の訳、「いかにも産にうみならひはなけれども、姫ごぜの大役、ことに初産、わたしとてもおぼつかなけれど、心いっぱい、お力になりませう」「〈詞〉ナニお世話なされてくだされうや。皆も喜べ」「〈地〉ハァ忝い」と、五人が頭畳につけ、打ってかへたる笑ひ顔、始めのこはさ引きかへて、おやす親子が安堵の思ひ、世次よなみの悪い疱瘡に、二番湯かけし心地せり。「〈詞〉イヤ申し来現様、あなたはこの月が産み月かな」「されば大方そんなことでがなござろ」「サァそれなれば、今も知らぬこぼれもの、むつきの湯上げの胞衣ゑな桶のと、その用意はあるまいな」「ヤァそりゃなんのこと。わいらは知らぬか」「ハテさてお頭、それを知って良いものか。なにやら覚えにくいことども、お頭しっかりと聞かしゃれ、俺ぢゃてゝたべつけぬこと宙では行かぬ。その硯おこせ、〈地〉心覚え」と紙と筆、「〈詞〉サァ今一度初手から言ふてくだされ」「荒薦あらこも二枚、湯上げ、むつき」「ヲット待ったり。そのむつきとはなんのこと」「なんぢゃあらふとその脇へ、綿と書いておかしゃんせ」「ヲット合点」「盥・手桶・湯次、あらましそんなもの」「よしよし。コレそこへ〈地〉見えるところへ貼っておけ」と、噂半ばに一間の内より「〈詞〉アレお手が鳴る。ちゃっといてくだされ、〈地〉早ふはやふ」に「心得ました」と〈フシ〉小弁が手を引き走り行く。
あとには五人がうろうろ眼、「〈詞〉もふぢゃあらふぞよ。アヽどふやら心細いもの」と〈地〉奥を見やって立って見ゐて見、小弁は鏡台おもたげに「申し申し。〈詞〉もふ追っつけでござんす。奥がせばい、この鏡台もそっちへ直して、湯も沸かしておかしゃんせ。それより先へむつきがいる、今取ってこいとでござんす、早ふはやふ」「そりゃこそ今のぢゃ。綿ぢゃ綿ぢゃ、といふて綿はない」「〈地〉ないではすまぬ」と動六・江吉、深山・なめらが帯引っぽどけば、「〈詞〉コリャどふする」「どふするどころか、早脱げ」と、二人かゝって真っ裸、奥へ持て行く当座の働き。二人はあとに顔見合せ、「また火の報いがこゝへきた。裸次手に湯を沸かそ」と〈フシ〉二人連れにて走り入る。
来現は暖簾押し開け、「〈詞〉湯が沸いたらば荒薦もなにもかも、〈地〉裏の縁から静かに奥へ」と言ひつくる折も折、おやすがとつかは「申し申し、〈詞〉はやめの用意はあるまいな。こんなことと知ったら、わたしが内から持ってくる。〈地〉アヽどふせう」と見回すうちに心の機転、これ幸ひとだくぼくが、背中踏まへて庭の白梅一枝手折り、「白湯々々」ヲット心得囲炉裏にちゃんちゃん茶碗に移し、「〈詞〉これがはやめか」「なんのいな。薬のないので思ひつき、〈地〉真っ先かくる心の早梅、はやめのかはり」と白湯に掻き立て走り行く、頓智早咲き発明かゝ、〈フシ〉もの馴れてこそ見えにけれ。
来現一人が心わくせき、「〈詞〉この生へぬきはなんとした。〈地〉これも気がゝり、奥も気遣ひ」「イヤ二人連れにて見て参らふ」と駆け出せば、「コリャ待てまて、〈詞〉あとが大事ぢゃ。俺一人では力ない。奥はどふぢゃなァ、〈地〉アヽしんきなもの」と腰すはらず、たばこ飲んでもきせるより〈フシ〉喉に詰まりし思ひなり。
奥は産の気汐満つる、誕生やすやすおやすが働き、産声高く聞こえけり。「そりゃこそ出たぞ、御誕生」勝手は用意の鰹節、掻くやら摺るやら擂盆すりこばち、持ち手がなふてぐゎらぐゎらぐゎら、「〈詞〉コリャ静かにせい、奥へ響くぞ。大裏へ持って行け、取り上げ内儀に叱られな」と〈地〉舌も引かぬに奥より小弁がいっきせき、「〈詞〉申し申し、お喜びなされませ。生まれたお子は玉の様な男のお子、〈地〉お二人ともにお達者な」と言ひ捨てゝこそ駆けり行く。来現ぞくぞく小躍りし、「〈詞〉なにおのこ御子とな。ハァア忝い、源氏の運の開け口。〈地〉ハァアありがたや」と思はず高声高笑ひ、天を礼し地を拝し、〈フシ〉喜び勇むぞ道理なる。
おやすは一間取り片付け、勝手へ出れば「〈詞〉これはこれはおやす女郎、きつい御苦労。お礼の申し様がない、サァサァこゝへ、〈地〉しばらくお休み」と奥底もなき喜び顔。「〈詞〉さればいな、案じるより産むが安いと、思ひのほか心安い御誕生。ことにおのこ子、さぞお喜び」「喜ぶ段か、今にこの胸がどっきどっき」「サァそのお喜びの次手に、ちっとお尋ね申したいことがある」「なにかなにか、なんなりとも」「イヤほかのことではない、おまへのお名はなんと申します」「ハテ知れたこと、来現」「イヤ来現とは仮の名、御本名が承りたい」「ヤ、そりゃまたなぜに」「先ほどのお詞に、『源氏の運の開く瑞相』とおっしゃったは、この方にちと耳寄り。御本名承ったその上では、我が夫の身の上も、打ち明けて申すまいものでもない。ナ、申し」と〈地〉問ひかけられて「〈詞〉ハテ異なことの詞咎め。なにか世話になった和女郎のことなれば、早速かうと言ひたけれども、今は言はれぬ、時節があらふ」「〈地〉フム御もっとも」とずんど立って、鏡台の二面の鏡、両手に携へ「鏡は神の御末、〈詞〉ナ申し、神の御末。すなはち女の魂、賤しけれどもわたしも武士の妻、お名を聞かばもし外へ漏れもやせんとのお疑ひ無理ならず。曇らぬ心の金打きんてう」と〈地〉振り上ぐるを、「〈詞〉コレ待った」「イヤお留めなさるゝな」「ハテさてしつこい」「マァ放せ」「放さぬ」〈地〉二面の鏡に二人の顔、きっと眺めて「ホヽヽヽあっぱれ、あっぱれ。〈詞〉鏡をもって金打とは、ひづまぬ心の武士の妻、女の生粋天下一。〈地〉その心を見るからは、物語らん」とひったくり、鏡に映る我が顔をためつすがめつ打ち眺め、「ハァア我ながらやつれたり、衰ふたり。唐土の屈原が、江潭かうたんにさまよひしもかくやらん。四年ぶりにて我が顔に初めて逢ひ、思ひ出だせし昔語り聞いてたべ。〈詞〉さるころ平家一門の咎めを受けし三人、鬼界が島へ流されし、康頼・成経二人は赦免、一人あとに捨てられし、俊寛でおぢゃるはいの」「ヱヽあのおまへが。ヱヽ」と〈地〉驚くおやすがびっくり、奥より走って出る小弁、「コレコレ、〈詞〉そなたはこゝへなんの用、奥へいてとっくりとあなたの御用をよふ聞きや。よふ聞いた上ではかゝが呼ぶ。言ひつけておくのに〈地〉聞き分けない」と目遣ひを、さとき小弁が「〈詞〉イヱわしゃ今の声にびっくりし、〈地〉思はずこゝへ出ました」と〈フシ〉言ひ紛らして奥へ行く。
「サァそのあとを聞いてたべ。〈詞〉赦免状は重盛の自筆をもって書かれし上は力なし、このごろまでは三人一緒にありつるに、なにとて一人この島にあるべき身とは思はねど、〈地〉さすが命の悲しさに、纜に取りつき縋り、『〈詞〉せめて向ふの島まで乗せてたべ』と引き止むれど〈地〉痩せ体、舟に引かれて磯端をころころころ。〈詞〉転んで引っ張る悲しさつらさ、情を知らぬ舟子ども、纜どうど打ち切って、海の深みへ十町ばかり、〈地〉折しも激しき〈コハリ〉荒波に、浮いつ沈んづ〈ナヲス〉沈んづ浮いつ、岩の狭間に舟陰の、見えつ隠れつ沖の方、〈詞〉岸の小松も恨めしく、たゞ手を上げて舟よのふ、舟よと呼べど叫べども、いっかないっかな、〈舞〉かの松浦佐用姫も、〈ナヲス〉我が身にはよもまさじ。波に争ふ我が涙、〈詞〉都に残りし東屋がこと、たった一人の徳寿がこと、胸に迫って目先へちらちら。〈地〉都にてもさぞ嘆かんことの不憫やと、夢ともなく現ともなく、その夜はそこに嘆き伏す。早明け方の朝嵐、ぞっと身にしみ目を開けば、〈詞〉思ひもよらず国に残りし有王丸、重盛公より密事の使。この密書に重盛が情をもって、一人島に残されし段々、『小督局の御懐胎、中宮の御妨げと、父清盛の放逸邪見、御身の上に過ちあらば、天の御罰空恐ろしく、重盛密かに小督局を奪ひ、この洞が嶽に忍ばせ申せし上は、俊寛早くもかの地に赴き、御誕生の若宮守護いたせよ、汝が魂を見抜きし故、すなはちその方が家来有王を忍びの使』との御諚。ハァアヽヽありがたき御恵み、忝しと、夜を日についで俊寛が、再びこの地へ現れ来る、心をすぐに来現と改名し、〈地〉思ひもよらぬお身たちまでに、苦労をかけしは天子の御ため。この巌窟の御住居あなかしこ、人に沙汰ばしし給ふな」と〈フシ〉始め終りの物語。
小弁は聞くより「のふ懐かしいとゝ様、逢いたかった」と抱きつき、声も惜しまず泣き出だす。思ひがけなき来現、「〈詞〉コリャこゝな子はなんで泣く。ヱヽ聞こえた、奥でうたゝ寝夢見たな。そふしてかゝ様と言ふを取り違へ、とゝ様とはアヽ粗相千万。かゝ様はアレあそこに。コレおやす女郎、これも泣くか、〈地〉なんとした」と問はれておやすがないじゃくり、「これが泣かずにゐられうか。その小弁といふは、おまへのお子でござります」「〈詞〉コナ女中はなにを言ふ。なるほど流罪の折から、あとに残せしは男子、この子は女」「〈地〉サァそれにつけても悲しきは、憎しみ受けしおまへのお子。〈詞〉男子と聞くならば平家の我儘、あの子に咎めもかゝらふかと、東屋様のそれはそれは、〈地〉その子一人が癪の種、女の子と言ひくろめ、我が夫の亀王殿と、わたしが中の娘にして、けふまでお命つなぎしぞや」「〈詞〉ヤァヤァ、ナヽなんと。これが我が子の徳寿か、こりゃ顔見せい。ホヽ幼顔覚えある。そふして母はなんとした。コレ泣かずとちゃっと言ふて聞かせ」と、〈地〉問はれて徳寿が涙ながら、首にかけたる守り袋を取り出だし、「かゝさんはこの中に」と差し出せば、「〈詞〉この中にかゝさんが、〈地〉とはいかに」と紐をとくとく押し開き、「〈詞〉智覚院貞心大姉」「アイ、それがかゝさんでござんす」と〈スヱテ〉わっとばかりに泣き沈む。
「〈詞〉なんぢゃ死んだか。ナヽヽなんとして、癪持ちであったか、そちがこと、この俊寛がことを苦にやんで、それで死んだか、かはいやなァおやす」「アイ」「様子はどふぢゃ」「アイ」「いや、あいではすまぬ。なんとした」「なんとしたとは、〈地〉よふ思ふても御らふじませ。二人はお許し、俊寛一人は叶はぬと、あたどうよくな使の口上。〈詞〉ことさら飛騨左衛門めが無体の恋慕、身を汚してはおまへへ立たずと思ひつめ、〈地〉あの子をわたしが在所へお預け、そのあとでの御自害。またその上にお袋様、〈詞〉生きながらへては義理立たずと、これもまた御生害。〈地〉あの子もわたしも、聞いてびっくり悲しさつらさ、思ひやってくだされませ。七日々々のとひ弔ひも、在所のことならそこそこに、四十九日がそのうちは、家の棟離れぬ魂魄と噂に聞けどなんのマァ、おまへを恋しい恋しいと、思ひ詰めたるお心が、鬼界が島をうろうろと、迷ふてござるがおいとしい」と、くどき嘆けば俊寛は、我が子を膝に抱き上げ、右に戒名左に我が子、「〈詞〉親子三人この様に、〈地〉顔合そふと思ふたに、この三人もまた一人、冥途へいたか悲しや」と前後不覚に嘆きしが、「〈詞〉アヽそふぢゃ。死して生まれてまた死んで、生まるゝことのあらばこそ、かゝるめでたき御誕生。嘆きは愚痴の至りなり。〈地〉おやすは奥の御介抱、我もその間に一間にて、別れし妻に閼伽あかの水、一遍の経陀羅尼。徳寿来れ」と手を引いて〈色ヲクリ〉勝手の「方へぞ入りにける。
かゝる折しも山道の、雪踏み蹴立て互の心は白刃と白刃、亀王は大声上げ、「〈詞〉ヤイ盗賊め、女房娘はいづくへやった。逃ぐるとて逃がそふか」とまた斬りつくれば丁と受け、「コリャ待て若者、逃ぐる様な男でない。我が行くところまでサァ歩め」「イヤサその手はたべぬ」と持って開いて打つ刀、手頃の松の木生へぬき打ちに丁と打つ、〈地〉拍子に刀谷底へ、あとは二人が〈コハリ〉枯木の力、引き離さんとたぢたぢたぢ、引き戻せばどろどろどろ、「放せ」「放さぬ」松脂力、さしもの大木ほっきと折るれば、「さしったり」と四つ手になり、組む手薙ぐ手大童、崖踏み崩す力足、亀と岩とが〈ナヲス〉ころころころ、頃しも二月と雪道山道、〈三重〉板屋の霰「板返し、
組んづ転んづ谷底へ、踏みかぶったる頬被り、頭巾も脱げて顔見合せ、「〈詞〉わりゃ亀王ぢゃないか」「そふ言ふうぬは」「有王ぢゃが見忘れたか」「〈地〉有王なればなほ逃さぬと、落ちたる刀振り上ぐれば、同じく取って身構へし、「〈詞〉コリャ聊爾すな、言ひ訳あり」「ヤァどこへ言ひ訳。〈地〉主人を見限る盗賊め」とまた斬りかくる血気のはやりを、さしもの有王〈フシ〉あしらひかねて見えたるところへ、
江吉・動六飛んで出で、「仔細は聞いた、もっともぢゃ」と二人を二人が押し分くる。おやす声かけ「〈詞〉コレコレ亀王殿、わしぢゃ。息災でこゝにゐる」「ヤァおやすか。シテ小弁様は」「小弁様も俊寛様も達者でござる。様子は段々良いことだらけ、有王殿は重盛様のお使で、鬼界が島へ大忠心、必ず粗相せまいぞや」「なんぢゃ俊寛様はこゝにござる。〈地〉とはとはいかに」と驚くうち、小弁が手を引き「ヤレ懐かしや亀王、〈詞〉様子は残らずおやすに聞いた。この年月のそちが世話、世話がひあって達者な我が子の顔は見たれども、〈地〉今一人が残念な」とあと言ひさして涙ぐむ。亀王側につっと寄り、「〈詞〉東屋様のことはいふて返らず。我が親の敵飛騨左衛門めを始め、平家一門のやつばらへ、一太刀恨みを報いんと、忍び忍びに源氏の余類を駆り集むるところに、〈地〉コレ御覧ぜ」と懐中より、一巻を取り出せば、「〈詞〉ヲヽこの有王も主人の仰せを蒙り、源氏の残党一味の連判、これ見よ」と〈地〉互に一巻取りかへて、「フムその方には近江源氏の父子兄弟、坂東八ヶ国の源氏の輩。「〈詞〉この一巻にも信濃源氏、大和源氏の誰々も読むに及ばず。両方合せて都合三万六千余騎。ヤレ亀王、やがて平家を取りひしぐ吉左右、喜べよろこべ」「ヲヽ亀王も親の敵と一くるめ、〈地〉平家へ恨みを散ずるはまたゝくうち」と浮き立つ亀王、血気も有王、勇み進めば、「〈詞〉ヲヽなるほど、この俊寛もさのごとく、一たび思ひ立ったる故、島守とまでなり果てゝ、再びこゝに来現が、命延ばゝるもとはと問へば、皆小松殿の御情。〈地〉重盛ながらへあるうちは、たとへ勝利を得るとも武士の道立つべからず。〈詞〉動六・江吉といふも仮の名、本名は宇野七郎・山田次郎、なんとそふは思はずか」と〈地〉詞も未だ終らぬところへ、障子の内より声高く、「〈詞〉ヤァヤァ法性寺の執行俊寛はいづくにある。小松内府重盛公よりの使者、見参やっ」と呼ばゝったり。「〈地〉コハなにごと、思ひよらず」と窺ふうち、障子をさっと深山の喜蔵、なめらの兵、烏帽子引き立て大紋の袖たぶやかに大小も、〈フシ〉さすがは使者のそのもったい。
錦の袋物恭しく手に捧げ、上座に通ってむずと座し、「〈詞〉ホヽ不審もっとも。それがし二人は重盛公の、御諚を受けたる忍びの目付。源氏の余類と入り込みし、この深山の喜蔵は越中次郎兵衛盛次、なめらの兵とは主馬判官盛久」と〈地〉聞いて人々また仰天。「シテその御両人が、なに故の御使者」とせき立つ顔色、主馬判官盛久、錦の袋物俊寛が前に押し直し、「〈詞〉重盛公の御諚よく聞かれよ。鬼界が島に残りし俊寛、有王もろともこの洞が嶽にて、小督局を守護いたさんは必定なれども、御安産の安否心もとなし。汝ら二人急ぎかの地に赴き、男子にもせよ女子にもせよ、御誕生あらば早速に告げ知らせよ。さりながら隠れ家へ忍びの使、父清盛公へ漏れ聞こえては、いかゞあらんと肺肝を砕かれしこの三千両、唐土育王山いわうざんへ納めおかば、平家滅亡の後、弔ひ供養ともならんと、それがし二人に仰せつけられしは表向き、まことは若宮御誕生を寿くための貢ぎ物、王を育つの文字によって、育王山へ納めよとは一門の人々へ、方便の御情、ありがたく思はれよ」と〈地〉言ふに皆々飛びしさり、「ハァアヽヽありがたしとも忝いとも、心にも詞にも、お礼の申し様がない。とかくよろしうよろしう」と頭をさぐれば次郎兵衛も両手をつき、「〈詞〉貴殿最前の詞に、『重盛ながらへあるうちは、まづゆるがせに旗上げせん』との一言、恩を恩にて報ずる道理、〈地〉もっとももっとも。御平産めでたく相済む上からは、この家にあってなんの益なし。早お暇」と立ち上がれば、俊寛も一間に入り、御誕生の御うぶ子、抱いてさそふの詔、こともおろかや源氏の代に、後鳥羽院と申せしは、〈フシ〉この若宮の御ことなり。
小督局は産所の床、「たゞ良い様に」と御礼も詞少なの御別れ、盛次・判官若宮を祝ふ印の三千両、朽ちぬ黄金の育王山、山といふ字に鳥の字を、一字加へていわうが嶋、島より山へ俊寛が、使者を見送る有王・亀王、宇野七郎・山田次郎、式礼黙礼門送り、日頃にかはるこの場の礼儀、二人の使者もにこにこ笑ひ、「〈詞〉ホヽヽヽヽヽさっても堅い仲間内。生へぬきよ、動六よ、江吉も亀も大儀であった。マァ休め」と〈地〉言ふに四人が顔見合せ、「まことにそふぢゃ。戦場にては敵味方、マァ〈詞〉それまではもとの傍輩。深山よ、なめらよ、さらばさらば」「重ねて逢はふ」「なにさ何さ、〈地〉戦場にて再会せば、〈詞〉盛次・判官」「有王・亀王」「こっちの首か」「そっちの首か、〈地〉取るかやるかは時の運。〈詞〉この場の別れは、お頭さらば」と〈地〉言ひ捨てゝ、山路をさして急ぎ行く。


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