堀越 仁

故白川静博士より名を授かり、白川先生を師と仰ぎ生きてきました。 2015年1月、海将槻…

堀越 仁

故白川静博士より名を授かり、白川先生を師と仰ぎ生きてきました。 2015年1月、海将槻木氏の家系図を訓読し、喜んでいただいたことをきっかけに、私の使命を見出し、文書研究室「静香堂」(せいこうどう)を開設いたしました。https://www.seikodo.me/about

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  • 浄瑠璃翻刻

    主に宝暦(1751〜74)前後の浄瑠璃の翻刻です。順次増やす予定です

  • 「鶴梁文鈔」私家訳

    幕末期の文人で幕臣であった林鶴梁の文集です。以前ご依頼いただいて訳したものに若干手を入れました

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「昔男春日野小町」翻刻 二段目

〈地〉すぎはひをあだにはなしそ著き、神の教へもそれぞれに、商ひ神や寿命神、病ひ疫病風除け火除け、水も漏らさぬ神垣は、山城国葛野郡、七野社の縁の綱、結ぶの神と諸人の〈フシ〉参詣日々に群集せり。 恋せぬはわしらばかりといふ化粧、雪と埋みし愛宕のお花、穂に顕れし緋桜の、お七といふてぼっとり者、どこに置いても〈ヲンド〉危なげの、独り歩きの名はお染とて、年は二八の二膳込み、〈ナヲス〉三十路一文字草深き、在所娘の三人連れ、〈フシ〉思ひありげに詣でくる。 中にもお花がどってう声、「〈詞〉コ

    • 「昔男春日野小町」翻刻 初段

      ※テキストはhttps://iiif.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/repo/s/kuroki/document/8f4d0305-13ed-41ea-a8ce-3a913b7df278#?c=0&m=0&s=0&cv=1&xywh=144%2C98%2C310%2C393を用いました。 要領は前作に準じます。 昔男春日野小町        作者 故竹田出雲                    竹田滝彦 〈序詞〉雲には衣裳を想ひ花には容を想ふ、明皇の解語の花

      • 「姫小松子日の遊」跋

        「姫小松子日の遊」は、宝暦7(1757)年2月に、竹田小出雲・近松半二その他によって作られた五段続きの時代浄瑠璃で、顔ぶれは中邑閏助が入っていないことを除くと、先の「平惟茂凱陣紅葉」とほぼ同様です。平家打倒を図って流罪となった俊寛の事跡に、源氏再興の機会を狙う常盤御前のこと、平宗盛に囲われている熊野御前のことなどを絡めたものです。大筋は大近松の「平家女護島」に負うところが多いようですが、三段目のドンデン返しや、全体のまとまり具合などの洗練の度合いを見ると、「藍より出でて藍より

        • 「姫小松子日の遊」梗概

          以下、段名は仮につけたものです。 初段 (大序・北野の段) 時は高倉帝のころ、中宮は懐妊の祝いに北野で初子の日の遊宴を催し、父の太政大臣清盛、母の時子、清盛の嫡子たる小松内大臣重盛の奥方園生も列席している。天子を聟に取ったと得意満面の清盛だが、行方不明になった帝の寵姫小督への同情を中宮が口にすると不機嫌となる。ところへ重盛の弟、右大将宗盛が兄の名代として現れ、中宮安産の祈願のため、鬼界が島の流人、丹波少将成経・平判官康頼・俊寛僧都の三人に赦免を与えるよう申し出る。清盛は、最

        「昔男春日野小町」翻刻 二段目

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          「姫小松子日の遊」翻刻 五段目

          〈地〉年光止まらざることは奔泉下流の水のごとし。さても源牛若は、なにとぞ平家を討ち滅ぼし、父義朝の孝養に備へんものと思ひ立ち、夜毎々々に貴船の宮、祈誓をかける帰り足。鸞鳳は卵のうちより声諸鳥にすぐるゝと、心も功に〈ウフシ〉不敵なり。 まだ十才の細眉に、烏帽子にあらぬ稚児髷や、絹紋紗の狩衣も、かりそめならぬ御粧ひ、百万騎の大将と、いはねど姿かんばしき、僧正が谷に立ちやすらひ、「〈詞ノリ〉アヽ嬉しや。今宵ぞ満つる我が願ひ、平家の大将清盛を始めとし、宗盛・通盛・家盛・維盛、一門残ら

          「姫小松子日の遊」翻刻 五段目

          「姫小松子日の遊」翻刻 四段目

          [道行心の竹馬] 〈歌〉ふりにける松を主と木の下陰に、落ち葉の茵〈ナヲス〉かくばかり、世は定めなき飛鳥川、常盤御前の御有様、親子御三人もつれ寝は、ふすゐの床もよそならず。人目忍ぶの市女笠、笠の軒端に朝こちの、ぞっと身にしみめざむれば、こゝは大和の伏見の境、早明け暮れの横雲や、〈表具〉ほがらほがらと明くる夜の、高円山に出づる日に、連れてねぐらの夜の鶴、今若・牛若御手を引き、京都をさして出で給ふ、〈フシヲクリ〉心の「内こそ便りなき。 去年は都をおちこちの、こゝやかしこに忍べども、

          「姫小松子日の遊」翻刻 四段目

          「姫小松子日の遊」翻刻 三段目

          「〈二上り歌〉夢に戸叩き現に開けて、水のたる様な前髪様と、朝日さすまで寝てござる、ションガヱ、いとし男と伽羅の香は、一夜二夜はおろかのことよ、幾夜とめてもとめあかぬ、ションガヱ」〈ナヲス〉歌ふ声々、奈良坂や、このて柏の二面、裏も表も一つ家の、とにもかくにも商売を稼ぐ夫婦が手回しの、軽ふ見えても内証は、こり木商ひ、掛け分ける、追分村の束ね木に、夫は掛け矢、妻は妻木の束ね様、習ひ覚えてかいしょげに、「〈詞〉コレ万作殿、あたふたせずとちと休んだが良いはいの」と、〈地〉言ひつゝ差し出

          「姫小松子日の遊」翻刻 三段目

          「姫小松子日の遊」翻刻 二段目

          〈地〉神さへも時世につれて盛衰の、平家信仰の神なればとて、都に移す今熊野、群集もよくる大男、せなに大紋閂差し、刀も一風ある作り、編笠まぶかに茶屋が床几、あたりをきっと窺ひうかがひ、よしよし〈フシ〉葭簀の内に入る。 旅人ながら風俗は、京のきっすい、乳呑み子を親珍しくひけらかす、孫を背中に遅ればせ、「おいおい」茶びん頭に湯気を立て、「〈詞〉さっても歩いた。足はせっかい、若いと思ふて親を追ひ抜くな。俺も足は負けねども、この小弁女郎でどふもならぬ。ことにおいらは道歩くとてもうっかりと

          「姫小松子日の遊」翻刻 二段目

          「姫小松子日の遊」翻刻 初段

          要領は先に準じるものとしました。http://image.oml.city.osaka.lg.jp/archive/detail?cls=ancient&pkey=21700010を底本としました。   常盤御前・熊野御前  姫小松子日の遊 〈序詞〉清都の聚木すべて栄芬、伝へ道ふ孤松最も群を出づと、流膏の仙鼎を助くることを惜しまずんば、願はくは楨幹を将て明君に捧げんと、松に諷ひし詩の、ためしをこゝに日の本や、高倉院のしろしめす〈ヲロシ〉雲井の空ぞ静かなる。 〈地〉時の中宮

          「姫小松子日の遊」翻刻 初段

          「平惟茂凱陣紅葉」梗概

          初段 (大序・大内の段)※以下、段名は仮につけたものです 時は村上天皇の治世、上総介平惟茂(以下表記ママ)と太宰大弐阿曇諸任は勅を受けて信州戸隠山の鬼神を退治し、凱旋して参内する。このとき諸任は恩賞として、預かっていた平国の御剣か、もしくは帝の姉宮たる女三の宮を妻として申し受けたいという。これに関白忠平が難色を示すと、諸任は腹を立てて「宮を賜るまでは預かりおく」と言い御剣を持ち去ってしまう。この態度に野心を見てとった惟茂は、関白に糾明を約する。 (序中・柏木館裏門の段) 代々

          「平惟茂凱陣紅葉」梗概

          「平惟茂凱陣紅葉」跋

          「平惟茂凱陣紅葉」は、先に翻刻した「崇徳院讃岐伝記」と同じ宝暦六(1756)年の10月に竹本座で初演された五段続きの時代浄瑠璃で、作者の顔ぶれも、近松景鯉が入っているほかは、同様に二世竹田出雲・近松半二・三好松洛・中邑閏助です。内容は王朝物と言って良いもので、天下を狙う阿曇諸任の野望を挫かんとする平惟茂(正しくは「維茂」ですが、ここでは浄瑠璃の表記によります)・柏木左衛門と、その周辺人物の苦衷を描いております。 平惟茂は貞盛の養子で鎮守府将軍にまでなった人物で、すでに「今昔物

          「平惟茂凱陣紅葉」跋

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 五段目

          〈謡次第〉おとづれ遠き庵住の、おとづれ遠き庵住の、涙よりほか友もなし。〈ナヲス〉御痛はしや女三の宮、雲井の花の御袖も、花の帽子に墨衣、御髪は切らせ給へども、神に等しき御身にて、恋故にこそ捨船の、尼御前の御供には、権内一人付き添ひて、都は敵に狭められ、捨てし御世をこゝかしこ、〈フシ〉さまよひ給ふぞあはれなる。 折もこそ有井玄蕃、青柳主税、手の者引き連れ出で来り、「ソレ逃すな」とおっ取り巻く。〈詞〉権内驚き、「ヤァこれこれ、聊爾せまい。何故の狼藉」と、〈地〉言はせも果てず「ヤァぬ

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 五段目

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 四段目

          「〈詞〉お立ち合ひの中にも、お江戸へお下りの方には御存じあること。拙者親方は武州東叡山池の端、勧学屋大助と申して、さる宮様家より御許しくだされ、売り広めまする万病錦袋円と申すは、男女に限らず積聚・つかへ・目まひ立ちぐらみ、あるひは霍乱・暑気・寝冷、一切の難病を退けますこと神のごとし。代物はわづか八銭、十二銭より段々三十二銭、〈地〉お求めなされてござれい」と、三十ばかりの大男、鰭と髭との江戸育ち、〈フシ〉声も立田のお宮前。 参詣目当ての休み床、見せ一ぱいに群集の老若、「〈詞〉ア

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 四段目

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 三段目

          〈地〉ありありと声もなまめく女中の鞠、惟茂の館には、落葉の姫を慰めんと、妼ども打ち混じり、ついに蹴もせぬ高足は、天井へ当たり鴨居を越し、横に行くのを追ひ歩き、汗を流して蹴る鞠に、所体も崩れあげくには、鞠をぴっしゃり踏みつぶし、〈フシ〉笑ひこけたるばかりなり。 「〈詞〉アヽしんどうやのふ藻塩殿。きのふ落葉様のお館へお帰りなされてから、お慰め申してもお心が浮かなんだに、ちっとばかりお笑ひ顔」「ヲヽ緑殿そふはかいの。恋しゆかしと思し召す、左衛門様のお家の鞠、〈地〉所縁ぢゃと思し召し

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 三段目

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 二段目

          [道行恋の初雪] 〈半太夫〉恋せずば今の憂き目は白雪の、木々に積もりて〈ナヲス〉柏木の、左衛門は大内を、逃れ出でしは出でしかど、いづくをさして行くぞとも、身はおちこちの落葉姫、女三の宮となりかはり、科を北山嵯峨の奥、しるべを出でゝこゝかしこ、昔のゆかり帯刀が、すみかは野越え大和路の〈フシヲクリ〉小泉「さして行く道も、 霜に枯野の薄原、露と答へて消えなまし、なれも恋路に踏み迷ふ、都離れて暁の、櫛もそのまゝ宵のまゝ、柳の髪の枝垂れて、花も紅葉も我が家の、かゝりに植ゑし木々なれど、

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 二段目

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 初段

          ※テキストはhttps://www.dh-jac.net/db1/books/results1280.php?f1=SO12109&f12=1&enter=shochiku&lang=ja&max=1&skip=2&enter=shochiku&lang=ja を用いました。要領は先二作に準じます 平惟茂凱陣紅葉 〈序詞〉いにしへ今も日の本の、史を記せしつかさとや、紫式部の筆の花、五十四帖に咲き匂ひ、人の教への鑑とも、なりて和らぐ巻々の、若菜の巻をかりそめの、世の諺に及びな

          「平惟茂凱陣紅葉」翻刻 初段