「昔男春日野小町」翻刻 二段目

〈地〉すぎはひをあだにはなしそ著き、神の教へもそれぞれに、商ひ神や寿命神、病ひ疫病風除け火除け、水も漏らさぬ神垣は、山城国葛野郡、七野社の縁の綱、結ぶの神と諸人の〈フシ〉参詣日々に群集せり。
恋せぬはわしらばかりといふ化粧、雪と埋みし愛宕のお花、穂に顕れし緋桜の、お七といふてぼっとり者、どこに置いても〈ヲンド〉危なげの、独り歩きの名はお染とて、年は二八の二膳込み、〈ナヲス〉三十路一文字草深き、在所娘の三人連れ、〈フシ〉思ひありげに詣でくる。
中にもお花がどってう声、「〈詞〉コレコレ二人の衆、わがみたちの願参りは知らぬが、わしはこの美しい顔に似合はぬ、どふしたことやら縁遠い。あったら花を埋もれ木にしておくが残り多さに、どふぞ良い男を持たしてもらはふと、それ故の神参り」「アレお花の良い男とは栄耀らしい。わしらはどんな男でも、大事ないと思へども、わしが顔を見ては、秋の田ぢゃと嫌ふ故、なんのことぢゃと思ふたりゃ、コレ聞いてたも、穂が赤いといふことぢゃげな。それで随分嗜んでも、げにや紅は白粉で埋んでも顕るゝ。しんきなことぢゃないかいの」と〈地〉言ふにお染がしゃしゃり出で、「〈詞〉コレコレわがみたち、必ず嫁入りせうと思やるなら、半櫃の底を、随分丈夫にしてもらや。わしが半櫃の底はたこになった」「ソリャまたなぜに」「はていの、去られるたびにあちらへ持っていたり、こちらへ持っていたり、いたり戻ったり戻ったりいたり、今度でちゃうど二十四度。どふぞ今度は去られぬ様に、神様を頼まにゃならぬ。〈地〉サァサァおぢゃ」と打ち連れて、〈フシ〉宮居へこそはさゞめき行く。
後へ来るは女中乗り物、忍びと見えて供回りも、並木の陰に六尺が乗り物下ろして小腰をかゞめ、「〈詞〉もはやこのところが七野の社、御参詣なされませ」と、〈地〉知らする詞に戸を押し開け、四十ばかりの女房の、恋する身とは見えねども、昔残りし御所染の、色は姿に顕れし。「〈詞〉ヲヽ二人ながら大儀々々。宮居へ参詣する間は、こゝでゆるりと休んでくだされ」「アヽなるほどなるほど。私どもはあの茶店で、しばらくのうち休んでをります、ゆるりと御参詣」「ヲヽそんなら茶店で待ち合して、後にのちに」と〈地〉言ひ捨てゝ、左右へこそは〈ウフシ〉別れ行く。
我が思ひなにぞと問へば恋の道、お露といふて色盛り、娘盛りの後ろ帯、結ぶ心は深草の、少将ならぬ恋しさを、神に祈りをなほ頼む、七野の社へ詣で来る。「〈詞〉ヲヽしんど。〈地〉こゝをちっと借ります」と、茶店に腰をかけ香の、匂ひもてくる鳥居の方、御所の女中のざはざはと、宮の下向の帰り足、つきづきが口々に、「申し申しお姫様、誰あらふ小野小町様ともいはれるお方が、恋なればこそかちはだし。その美しいお姿を、こっちから四位少将様に、女房の罰が当たろぞへ」となぶる詞に打ち笑ひ、「〈詞〉サァその少将様に、枕は一度かはさねど、〈地〉互に変はるな、変はらじと誓ひしことの忘られず、無理な願ひを神様へ御苦労かけるもったいなさ。かちゞひらふがせめてもの神様への宮仕へ」と、よその噂を身の上に、お露は小町と聞くよりも、飛び立つばかり嬉しさの、こはさも先に胸ときとき、なんのまゝよと気を静め、手をもぢもぢと側に立ち寄り、「〈詞〉馴れ馴れしいことながら、小野小町様と承り、お願ひ申し上げたいこと、お聞きなされてくださらば、〈地〉忝ふござりませふ」と、ものごしのしとやかさに、小町は聞いて不審顔、「〈詞〉これはまぁまぁ、ついにまみえしことなけれど、身に叶ふことならば、をなご同士は相互ひ。〈地〉そのまぁ品は」と尋ねられ、「〈詞〉ハァありがたい、忝い。私はお露と申して賤しい者、身の上に過ぎたことながら、おまへの恋しう思し召す、深草少将様を、〈地〉御修法の護摩で見初め参らせ、あんな殿御もあるものかと、思ふがすぐに恋草の、恥しながら人づてに、文の数々送りしに、〈詞〉小町様に訳ある仲、他に枕はかはさぬと、つれないお返事、聞いて身もよもあられませず、どふぞこの恋叶へてたべと、この御社へ参る道で、おまへ様に逢ふといふも、少将様をもらへとある神様の教へ、お聞き分けあそばして、どふぞ私におくれなされてと申すは、どふやら欲がましい。たった一夜の添ひ臥しを、お許しなされてくださらば、〈地〉忝ふござりますでござりませふ」と後や先、恋に心はとまくれて、〈フシ〉なにをいふやら訳ぞなき。
小町はとかふなかりしが、「〈詞〉コレお露殿とやら、切なる頼みと言ひながら、〈地〉自らとても少将様に、枕かはしたといふではなけれど、御手洗川にせし禊、神に誓ひし互のかため、こゝをよふ聞き分けて。〈詞〉また世には忘れ草とやらもあるならひ、モウ少将様のことはふっつりと」「イヱイヱ思ひ切らるゝほどなれば、恥しいこのお頼みはいたしませぬ」「それでもそんな無理なこと、〈地〉コレをなごども、どふ言ふてよからふ」と赤らむ顔の色争ひ、おぼこ同士の立て引きの、〈フシ〉果ては涙にあやぞなき。
こしもとどもはもどかしがり、「〈詞〉ヱヽお姫様のお気弱い。どこの世界に人の殿御を、くれといふ様な無理なことがあるものか。あんな女に構はずとも、〈地〉サァサァお帰りあそばせ」と、無理無体に引っ立つるを、お露がすがって「コレ申し、どふぞお慈悲に聞き分けて」と取り付きすがるを振り放し、「〈詞〉さてもきつい千枚ばり。〈地〉あたしつこい」と振り切り振り切り、〈フシ〉小町をいざなひ立ち帰る。
後打ち眺め恨めしげに、「〈詞〉ヱヽ心強い小町様。おまへに逢ふたらこの願ひ、叶はぬまでもと思ひしに、もはや頼みも切れ果てた。〈地〉聞こえませぬは少将様、これほど恋ひ焦がれてゐるものを、せめては一度しほらしいお返事さへもくださらぬは、焦がれて死ねとのことかいな」とかっぱとまろび嘆きしが、「〈詞〉ヲヽよしない恨みごと。むごいといふもこちの無理、少将様はつらふない。つれないものは恋ひ初めし〈地〉この心ぞ」と身を恨み、もと来し道へすごすごと、涙ながらに立ち帰る〈ヲクリ〉心の「内ぞいぢらしゝ。
かゝる折節家来引き連れ足柄平太、右手に若宮ひんだかへ、弓手に大小面長づら、鳥居の前に立ちはだかり、「〈詞〉さてもほへる小倅め。ほふばらした地黄煎玉、皆になるととこぼへる。コリャコリャ家来ども、擒にせし陽成院、なにものが奪ひ取りしやら、かいくれに行方知れず。その倅のこの定省さだみの宮助けおかば、また盗み出されんも図られずと、基経公の宣旨により、帯取が池へ沈めにかける。したがあまりとこぼへる故、ほっとして腹ががっくり、後へも先へもいごかれず。帯取が池もこゝら近所。ソレこのあたりを尋ねてこい」と〈地〉言ひつけられて投首し、腹は減れども家来ども、褌しめて帯取の〈フシ〉池を尋ねに急ぎ行く。
後へ戻る三人連れ、「〈詞〉ナントお染、お七、見やったか。いとしらしい殿御ぢゃないか。あんな殿御としっぽりと、〈地〉抱かれて寝たい」といふ声の、平太が耳へ炒り豆に花の咲いたる心地して、ぞくぞくと床几を下り、「〈詞〉イヤなに女中方。拙者めは足柄平太と申して京家の武士、イヤモすんと情深い者。頼みたきことあらば、一人でも二人でも三人でも大事ない。叶へてやるが武士の情」と、〈地〉側に立ち寄る顔見てびっくり、「コリャなんぢゃ。〈詞〉テモきついお多福、一人ならず三人まで。これがほんの三幅対、なんぼひだるくてもコリャ食はぬ」と、〈地〉突き飛ばされてつらふくらし、「〈詞〉なんぢゃ、わしらをお多福ぢゃ。こりゃきかれぬ」と〈地〉平太が胸ぐらしっかと取り、「〈詞〉コレこゝな男づら、〈タヽキ〉どふしたことの縁ぢゃやら、〈サハリ〉おまへの顔を見初めると、どふもこふもならぬほど、惚れてゐるこのわしを、お多福とはどふよくな」「〈詞〉イヤその恨みはそなたより、わしも言ふことたんとある。〈地〉こっちへおぢゃ」と手を取るお七、「〈詞〉こりゃこりゃ、ふはふはすな」と〈地〉嫌がる平太二人して、あちらへ引っ張りこちらへ引っ張り、てうさい坊に引きずられ、短気の足柄むくりを煮やし、「ヤァめんどい」と三人ともに、投げすへ投げすへ投げすへられ、笄折られ、簪のいがみづらしてつと裏も〈フシ〉拾ふ間遅しと逃げ帰る。
「ヱヽいはれぬやつらに隙取りし」と若宮だかへ立ち出づる、後ろに窺ふ以前の女、やり過ごして平太が刀、取るより早く肩先ずっぱと斬りつくれば、うんとのっけに反りかへるを、起こしも立てず止めの刀、指す間もありや泣き入る宮、後ろにしっかと遠近の〈三重〉行き方知らず「なりにけり。
世渡りのからき戦に弓取りも、弓は売り果て矢種尽き、具足も質に奥丹波、閑居も本意ならねども、屋根から内まで苔むして、貧乏がさす物好きの、外に似合はぬ高札は、敵を狙ふ身のしるし、五大三郎時澄と書き記す、かゝる貧しき中なれど、売られぬものは忠孝の〈フシ〉誠ぞ武士の宝なる。
薮のねきの初右衛門、手織縞の羽織福々しく、「さぶ内にか」とぬっと入る。「〈詞〉ヱイ旦那衆、お出で。雪空でさぞお寒かろ」「イヤ外は寒ふないが、こゝの内へ入ると閑古鳥、いつ見ても名の様に、さぶそふな顔ではあるはいの」「そのはづそのはづ。二、三日も火の気のない二つべつい、つらゝの張った鼻の穴が呆れます。さてもこの間の暇さ、雇はれも明きませぬ。小しほらしい葬礼なとあるなら、桶持ちにでもいかふのに」「ほんにおまへのところのおふくろ様はまだかへ」「ヲヽめっぽうな。先度の風気はとう治って、ぴちぴちはねてゐらるゝ。ホイしまふた、相棒と喧嘩して、小揚仲間ははねらるゝ、按摩けんびきも掴み探すとて呼び手なし。〈地〉せうことなしに団扇の骨削ったり、昨日からこの銭差し、〈詞〉千筋なふて三十の手間賃。〈地〉差しは悩めど肝心の地蔵様の右の手、取っても取っても下地の乾いてあるところへは、水風呂桶へ有平糖、あるものは借銭。これほど火がふればちっとは暖かにありそふなもの、〈詞〉かゝよ、御馳走にくゎっと奢ってこけらでほやほや、荒神様の笑ひ顔見せませい」「アイアイほんに気のつかぬ」と、〈地〉押しやるよその賃仕事、我着るものは肌薄き、頃は霜月つい立ちし、雪の素足の冷え凍る、この辛抱を苦にもせぬ、女房ぞ〈フシ〉ほんの女房なる。
「〈詞〉イヤイヤ構はしゃんな。泣きごと聞いて茶を飲むと喉をこくる。めったに馳走ぶりは合点がいかぬ。我らが内証の温かなを見込み、薬食ひの牛を胡麻飼にする格で、あとで御無心ながらではないかの。名代の始末で設けためた身上、慈悲をすると金銀の冥加に尽きる。良い恰幅なあったら男を貧乏さすことではある。マァいったい貴様は好き好んでする貧乏。なぜといや、いかに昔が侍ぢゃとて、働きする者が、立つにもゐるにも赤鰯を離さず、あれで按摩取り歩いたら、家尻切りぢゃと思ふて嫌がるはづ。そして門には獄門場の様に仰山な高札。村中の物知りが寄っても一つも読めぬ。この汚い門口へ、塵芥捨つべからずでもあるまいし、俺が推量には、貴様はどふでも貧乏が好きぢゃによって、福の神堅く入るべからずといふ禁制札と思はるゝ。〈地〉但し様子のあることか」と問ひかけられて顔を上げ、「〈詞〉御不審御もっとも千万。元来我らは敵討。親五大玄蕃といっし者、大伴黒主に討たれ、〈地〉敵の行方を詮議すれども今に知れず、無念骨髄に通って、せめて敵の片割れ、黒主が親山主、〈詞〉九十有余に老いさらぼふて脚腰立たぬやつなれども、都に残りをりし故、刺し殺して少しは鬱懐を晴らせしが、〈地〉このことを聞かばいかな臆病の黒主も、口惜しと思ひ勝負しに来そふなものと、あの高札に書きつけたは、〈詞〉汝が親山主は我が手にかけたれば、これからは互に親の敵同士、無念と思はゞ名乗ってこいとの文言。〈地〉敵の顔を見るまでは、砂を噛み泥をすゝっても死ぬることのならぬ体、恥を知らぬも親孝行、一腰を放さぬ仔細〈フシ〉かくの通り」と語るにぞ、
初右衛門もほろりとなり、「〈詞〉様子を聞けばいとしやなふ。がなんぼいとしうても、無心は聞かぬ」「〈地〉アノ気の回ったことばかり。御無心でなけれど、主のいはれます通り、この間は仕事も暇なり、借銭方はせがむ、お家主様からは毎日の家明け、〈詞〉諸道具質に置いてなりと、当分の間に合はそふと思へど、こちの顔が悪いか、質屋にも合点せず、〈地〉御ねんごろなおまへ様へ、質物に入れましたいとこの間から」「〈詞〉ムヽ質とあるからは、ハテいとしいが高。損の行く合点で少々は貸して進ぜふ。マァ代物そこへ出してみたり」「〈地〉ハァ忝いかたじけない。まづ値打ちの粗い道具から、さらば御目にかくべし」と、夫婦内より〈コハリ〉恭しく、御輿のごとく舁き出づるは、崩れかゝりし炬燵の櫓、〈ナヲス〉布団はとふに飛んでしまふた時鳥、大損かけたか借銭の、ふち高の欠け椀、世帯道具の棚下ろし、わさびおろしで身代は、掃きちぎったる荒神箒、擂粉木摺鉢〈コハリ〉せっかいは、我が家の三種の神宝、そのほか茶碗皿鉢まで〈ナヲスフシ〉傷のつかぬはあらざれば、
さしもの初右衛門ほっとして、「〈詞〉いかさまこりゃ質屋が受け取らぬはづ。一つにして売らふなら、十文にはならふかい」「〈地〉それで足らずばこの鍋釜も、持ってござってくださんせ」「〈詞〉アヽめっそふな。それがなふてけふから飯はなんで炊く」「それはぬからぬ、兼ねて調へおきました、この焙烙で間に合します。それよ肝心のものを忘れた。〈地〉我らが家の守り本尊、この紙屑籠、すぐにおまへへ譲ります」「〈詞〉ヤレ情なや、貧乏神の玉子がうざうざ。それよりそこに小綺麗な枕屏風」「アヽこれ、そこに坊主めが寝てゐます。〈地〉風邪ひかしてはなりませぬ」と、押し止むれば感じ入り、「〈詞〉鍋釜は売る気でも、風の当たるを厭ふ屏風、子はかはいひものぢゃのふ。誰しも身に引き当てゝ痛はしい。なんのこれしきのもの、かたに取ったとてかいしょにゃならぬ。〈地〉もふ片付けておかしゃれ。〈詞〉こゝに十二匁ほどこまがねがあり合ふた。これで大概まかなふて、仕合せしたら返さしゃれ。俺も男ぢゃ、貸すからは〈地〉涙はかけぬ」と言ひつゝ涙、鼻紙袋開けて取り出す一雫。「〈詞〉これはあまり冥加ない。なんとお礼の申しやう」「ハテさて、礼受けふとてしやせぬ。初右衛門は男ぢゃ、とはいふもののこれまでついに、文字きなかやったことのない男。十二匁といふ大まいの銀、どふしたはづみでやる気にはなった知らぬ。思へば今の貧乏神が、〈地〉乗り移ってはゐやせぬか、〈詞〉どふやらしはしは〈サハリ〉寒なった」と、おどおど震ふて紙屑籠、尻目に睨んで帰りけり。
「〈詞〉ヤレヤレ神か仏か、かゝよあだ疎かに思ふな。丁子頭が当たって儲けにくいこの銀、〈地〉ありがたい忝い」と頂く夫の顔打ち守り、「小野の家の執権にて、刃金を鳴らした五大三郎時澄様、昔の世なら若党おとなに打ち任せ、手にも触れぬ金銀を、押し頂いての嬉しがり、姿ばかりか心まで身すぼらしうおなりなされた」と、嘆けば夫も涙ぐみ、「〈詞〉一旦の了簡を翻さぬ親玄蕃殿、〈地〉諫言過ぎて勘当受け、一生親子睦まじからず暮らしたほど、なほいやまさる恋しさ、敵黒主を討って妄執を晴らし申さんと思ふばかりを楽しみのそれがしはそのはづ、縁に連れ添ふおことが親切、過分なぞや」「〈詞〉アヽお詞とも覚えず。〈地〉わらはがためには舅の敵、分け隔てのあることか。知れにくい敵故、苦労をあそばすおいとしや。〈詞〉けふは朔日、式日に〈地〉このおぐしは」と撫でつける、木櫛もいつか油気は、涙ばかりの水櫛に、けづるは神の祈祷とや、盃とても欠け茶碗、煎茶一つと〈フシ〉差し出だす。
「〈詞〉ヲヽ奥」「今日は三郎様、おめでたふ存じます」と〈地〉詞に残る移り香は、昔の留め木、挽き殻も湿りがちなる冬の空。「〈詞〉アヽよしない繰りごと。ばらばらの来ぬ先に、なにやかや調へもの、いてきませふ」と〈地〉内の時雨に濡れまじと〈ヲクリ〉表へ「こそは出でゝ行く。
雨宿り、仮の宿りと捨つる世に、宿り兼ねたる一人旅、女修行の殊勝げに、姿は墨に染めねども、〈歌〉仏の道に入相の、〈ハルフシ〉鐘鳴る野辺を臥し所、おぼつかなくもこの家の軒、歩み悩みて高札の柱にはたとつまづきて、草にも切るゝ女足。「〈詞〉ヲヽいた。これでは一足も引かれまい。もふ日は暮るゝ。かうこけたところがすぐに宿屋、この高札は幸ひな嵐を防ぐ板庇。〈地〉雀殿と相宿、たばこの火がな星月夜」卯の葉は内より透かし見て、「〈詞〉コレ誰ぢゃ、人の軒下断りなし、〈フシ〉アヽ無遠慮や」とありければ、
「〈詞〉これはこれは御許されませ。私は親にも子にも死に別れ、この世に便りのない者、丹波の水尾寺はこの前の帝清和天皇様、頭陀修行なされた尊いところ、これへ参って尼になり、亡き人の菩提を弔ふと、〈地〉このごろ思ひたった一人、とぼついて足は怪我する、どなたの軒か知らねども、〈詞〉今宵はこゝを借りまし、明日は早々お寺へと思ふたばかり、〈地〉断りませぬは不調法」「〈詞〉ムヽさてもさてもお殊勝や。〈地〉死に別れとあるからは、身につまされていとしぼい。その草の上で冷え上がり、どふ明日まで明かされふ。修行者とあるからは、この方も後世のため。〈詞〉見やしゃんす通りの不自由な暮らし、月より他に貸さぬ宿、〈地〉いざ」とて内に伴へば、「それはまぁまぁお嬉しや」と、気の合ふた同士をなご同士、涙を夜のものとして、〈フシ〉襖引き立て入りにけり。
細謹を顧みぬ、樊噲が勇、蕭何が忠、胸中に充ち溢れ、六十余州を住処とする大伴黒主、義兵の旗を見るまでは、恐れぬ敵に身を隠し、夜さへ人目深編笠、盤桓として来りしが、薄明りに読み下す札の文言、「ムヽ噂に違ひなかりしよ」と、ぐっと引き抜き戸口に向ひ、「誰そ頼まん」と言ひ入るゝ。「〈詞〉どなたぢゃ、こちへお入りなされ」「イヤ苦しうない。高札の面について参った者、五大三郎に逢ひ申そふ」と、〈地〉笠取ってつっと通るその骨柄、「〈詞〉ムヽ高札について来たとあるお侍の御仮名はな」「大伴黒主といふ者」と、〈地〉言ひも果てず駆け入って、夫の差し添へ引っ提げ出で、「〈詞〉コレ三郎殿、敵が来たはいの。ヱヽ折悪い他出かな。我がためにも舅の敵、かやうのために残し置かれしこの差し添へ、〈地〉一寸も動かさじ」と鍔元くつろげ詰め寄れば、「〈詞〉ムヽなに夫は他行したか。黒主は五大三郎を殺しに来た、女を斬りには来ぬはい。しかし留守なればとて、今宵中には帰るであらふ。退屈ながら待ってやらふ、しばらくこゝに休息せん。枕よこせ、たばこ盆」と〈地〉真ん中にしりうたげ、きょろりとしたる面魂。さすが見て取る武士の妻、「〈詞〉ムヽ夫の帰りを待って勝負せうとは、敵ながらも情ある黒主。女に助太刀頼むやうな夫かと、さげしみも恥し、手向ひいたさぬ、ゆるりとなされ。〈地〉いざおたばこ」と差し出だし、心は許さぬ身構へ気配り。夫は買ひ物いかきに取り入れ、片手に提げしはした銭、ぶらぶら帰る我が家の門、高札なきは心得ずと、内を覗けばこの日頃待ちに待ったる黒主、覚えず小躍り飛んで入り、「ハァ嬉しや我が妻女房、天道未だ捨て給はず。ヱヽありがたや、サァ黒主立ち上がれ、〈フシ〉なんとなんと」とせき立てたり。
「〈詞〉ハテ騒ぐな若い者。その方からせかいでも生けてはおかぬ。天下の大事を抱へた黒主、小町が家に使はるゝ五大玄蕃とやらん雲雀親父、何千何百殺しても、高が蟻同然のやつ、殺したやら殺さぬやら一々は身も覚えぬ。しかし汝がためには親なれば、無念と思ふは理なれども、尋常の勝負はせで、九十に余る父山主を殺したる未練卑怯。よしそれもまたものの根性相応、所詮父を都に残せし黒主が一生の粗忽。おのれごときの匹夫下郎、敵といふは心外ながら、打ち殺して心ばかりの我が手向け。覚悟よくばサァこい」と、〈地〉一度に抜いて結んだり。互に白刃、卯の葉もハァハァ、もしも夫が危ふくばと、差し添へしっかと目も離さず、孝行忠義の切先に、仁義のしのぎを〈フシ〉削りしが、
なにとかしけん五大三郎、たぢつく後ろの障子引き明け、打ち合ふ刃の真ん中へ、つまづきつまづき出でたる老人、「〈詞〉ヤァ親人、御安体にましますか。〈地〉ハッハッはっ」とばかり飛びしさり、〈フシ〉呆れて詞もなかりけり。
山主ものを言ひたげに、を振り胸をさすれども、歯のなき口は息漏るゝ、思ひに老いを噛み混ぜて、しばし涙にくれけるが、「〈詞〉ヤレそれがしが起き合はぬは、勝負を見届け、おのれが討たれば続いて我も自害せん、もし三郎討たればおのれが元首取っておさへ、お内儀に首討たせんと、空寝入りして控へたり。おのれ父山主を討ったりとの高札を見て、只今斬りかけし心、さぞ無念にありつらん。我が身の無念を知るならば、三郎の父玄蕃を汝に討たせし、この年月の無念さを思ひやらざるぞ。〈地〉我も奪ひ取られし時、死なんとすれど刃物は隠す、舌を噛まんも歯とてなし、縊れ死なんとせしところ、〈詞〉夫婦の衆がすがりつき、涙を流し、『これは黒主を釣り出すまでの囮。親の敵が討たれぬとて、敵の親を殺して、さもしき三郎が意趣返し、人違へ同然のうろたへ者、武士に似合はぬ仕方と笑はれては、侍の名を下す。随分老体の身を大事に頼み入る』と起き臥しまでの心付け、〈地〉これを見よや」とよろぼひよろぼひ、臥所の障子押し開くれば、緞子・繻珍の色々に取り重ねたる夜着布団。「〈詞〉この寒夜にあれ見よ、その身は袷一つ、妻子まで肌薄に、我にばかりもの取り着せ、〈地〉誠の親より親切の志は浅からねど、このぢいが身になってみよ。我ばかり暖かにあらふものかあるまいか、身を切り裂くがごとくなり。〈詞〉もし年寄りの風邪引いて煩ふか、凍へ死んでは三郎の悪名。その悪名の立つと思ふばかりの身養生、ヤレ死なふ死なふと思ふより、生けふ生けふと思ふのが、〈地〉年寄りはなほ苦しいぞや。〈詞〉ことにこの歯抜けが歯に合ふ食ひものはなし、せん方なさにお内儀が、一人子の飲む乳を、〈地〉朝夕我に勧めらる。様々辞退し断っても、飲まねば却って恨みの色、是非なく乳房に命を繋ぎ、老いの憂き身を長らへたり。〈詞〉偽りならぬ証拠には、このぢいが肌はかやうに潤ひて、幼い子は骨と皮、〈地〉可愛やこの子がやつれ顔、一目見ん」と立ち寄って、抱き起こさんとするところを、女房おさへて「イヤイヤ見れば涙の種」と押し隠すを、押し取って抱き上ぐればこはいかに、餓鬼の様なるみどり子の、のどぶゑを一と刀、突き殺したる死骸なり。「〈詞〉ヤァこの子は斬られて死んでゐる。〈地〉何者のしはざぞ」と〈フシ〉驚き騒ぎうろたゆれば、
女房わっと声を上げ、「〈詞〉深ふ隠しおきしもの、〈地〉よしないことを見給ひし。わらはゝか弱き生まれつき、一人にさへ足らぬ乳を、この子が飲みたい飲みたいと、夜昼わかず泣きわめく。〈詞〉すかしてもたらしても、乳は細し、せん方なくてゝ御前の手にかけて、〈地〉おとゝひの暮れ方」と、かっぱと伏して身をもだへ、消え入り消え入り泣きければ、三郎声を荒らげ「〈詞〉ヤ誰にかこつその涙。但し人々を迷惑がらする涙か。倅を殺して介抱するも、山主殿へするではない、親舅への孝行。恩にかける方もなく、礼を受ける人もなし。死骸を見て悔しくば山に捨てよ」「イヤ悔やみはいたさねど、〈地〉おとゝひより泣きたいを、こらへこらへて包みしもの。これほどは泣かせてくだされ」と、抱きつけば三郎も、「それなら我も今少し」と、夫婦死骸に抱きつき、声も惜しまず嘆きしは、〈中フシ〉理過ぎて哀れなり。
黒主大きに恐れ入り、「〈詞〉かばかり義心ある五大三郎、父の命に従ひ、この方より望んでも討たれて死にたく候へども、君を御代に出すまでは、黒主が命は黒主がまゝならず。親人にも聞き分けられ、〈地〉三郎の了簡あるやう御取りなしくださるべし」と言はせも立てず、「ヤァ卑怯者、〈詞〉誠君への忠義を思はゞ、御心そゞろなる陽成院、佞人の見入れあるを知りながら、など殿上に御守護は仕らず。かやうの草村にうろたへ歩くが忠臣か、言ひ訳あらば言へ聞かん」と〈地〉決めつけられてさしもの黒主、「ハアヽ重々誤り奉る」「〈詞〉誤らば討たるゝか」「イヤその儀は」「その儀はとは偽り者、命惜しさの間に合ひ、ヱヽ未練さんざん。子を見ること父にしかずと雖も、黒主が魂は見違へたる残念や。老人の腕は弱くとも、誠といふ拳をもって、〈地〉土性骨をぶち直さん」と、よろめきながら立ち上がる。三郎押し止め、「御粗相千万。〈詞〉我らが大事の親の敵、いっかな余人に指も差させぬ。御老人の気を揉み上げ、病とならば我が志はむだになる。ソレ女房、お寝間へ入れて御休息させませい。平にひらに」と〈地〉親切に、さすがはゆるむ張弓の、屈んだ腰を抱き抱へ、〈中ヲクリ〉やうやう「一間に伴ひけり。
立て切る障子をとっくと見届け、黒主むんづと居直り、「〈詞〉さてさて三郎、このほどは親人を我にかはっての介抱、忝しとも過分とも、一朝一夕の詞には尽くされず。まづこの礼はこれまで、改めて五大三郎、夫婦ともに覚悟せよ。只今返り討ちに討ち放す。恩知らずとも言はゞ言へ、黒主が体は蚤にも食はされぬ一大事、身体髪膚を受けたる親山主にさへ、明かさぬ心底なれども、只今死人となる汝ら故、語って聞かす。謹んで承り、冥土黄泉の土産にせよ。そも唐土は四百余州、我が国は東西わづかの小国なれども、日本と号し、君子国と呼び、異国の夷までもおぢ恐るゝはなにをもって。神国のありがたさ、天照大神の御血筋ならずしては、天子の位に備はること叶はず。これ異国の及ばざるところにして、日本の国の誉れ、この上やあるべき。然るに浅ましや、当今陽成院は清和天皇第一の皇子とは偽り、誠は在五中将業平が倅なり。母二条后の淫乱不義、業平がせなに負ひ、武蔵野まで逃げ行きしこと、下々の絵にまで書いて玩ぶ。密通の仲の倅とは、黒主が眼に遮り、龍顔拝謁もむやくしく、病気と偽り参内せず、内裏を見限り身退きしはこのいはれ。我さへ憤りやまざれば、天照大神の御無念はいかばかり。神代より三千年相続いて、水晶のごとき南面の御位、平人の脛に穢せし陽成院、大切に思ふとは大きな嘘、我が本心はぶち殺して人臣の根を断つ。王孫は天下にいくらもある、その中に器量を見立て、天子と仰ぎ、再び神国に返さんものと、女房に恋慕せしを幸ひ、内裏に残しおきつるは、人知れず刺し殺させんため。きゃつを助けおくならば、この後天下は長く匹夫のものとなって、神の御末は絶え果て、たちまち国の滅亡。冠を着し沓を履けども、この心のついたる者一人もなし。然れば黒主が五尺の体は、日本六十六ヶ国、三種の神器より大切な命。親の詞の、武士の義理のなんど、些細なことに構はぬかまはぬ。汝が親への孝心感じ入って不憫千万には思へども、日本にはかへられぬ。この大事を明かすからは一人も生けてはおかぬ。むごいと思ふな、成仏せい」と、ことを分けたる〈フシ〉義臣の詞。
三郎あざ笑ひ、「〈詞〉ヤァ理屈らしう言ひ廻せども、陽成院を弑せんとは底の知れた謀反人。親の敵は私ごと、これからは天下の敵。サァこい勝負」と落ちたる刀一度に押っ取り〈フシ〉立ち上がれば、いづくよりかは女の声、「〈詞〉しづまり給へ黒主殿、勅諚あり」と〈地〉襖の内、金巾子の冠、袞龍こんりゃうの御衣、笏に打ち掛け立ったるは、「〈詞〉ヤァ女房水無瀬、陽成院がたゞ中刺し通せと、言ひつけし詞を忘れ、色にほだされ黒主が〈地〉天照大神への忠勤、よっく水の泡となせしよな。神罰思ひ知らせん」と斬りつくる太刀、御笏にてうど当たって物打ちよりほっきと折れて散ったるは、怪しや不思議と黒主も、〈フシ〉柄投げ捨てゝ呆然たり。
水無瀬するすると立ち出で、「〈詞〉その太刀の折れしこそ、勅諚の趣なれ。わらはも夫の仰せに従ひ、折を窺ひ一討ちと、突きかけし懐剣が、まっその様に折れ散って、初めて知ったる陽成院、業平の種と疑ひしは誤り、やっぱり清浄きっすいの、御裳濯川の御末とは、君にも初めて知ろし召し、わらはへ宣旨ありけるは、『今日までは世の取り沙汰を誠とし、我と我が身を業平が種と思ひ込み、公事節会に百官の拝を受くるその時は、玉体に玉の汗、天子の胤の時康親王、基経が養子と追ひ下ろし、血筋でもなき陽成院、位にはゐられずと、自ら退く作り気違ひ。懐剣が折れずんば、いつまでも浅ましき、平人と思ひゐるべきに、ひとへに汝が忠節故』と、もったいなくもわらはが手を取り、三度頂戴なされしぞや。『その上黒主が、朕を殺さんとせし忠義のほど、感じても余りあり。昔の武内の大臣おとゞは、六代の朝廷に仕へしさへ、忠臣と言ひ伝ふ。天照神、神武天皇より、五十八代の忠臣とは、大伴黒主。その心を見届けし故、水無瀬に恋慕と見せたるも、大事を頼まんためばかり。天孫とも知らず今日まで、心の中では業平に、親子の礼儀をなせしこと、さぞや遠津神の御怒り、いよいよ我は位をすべり、頼みおくは定省の宮、朕にかはって黒主に、〈地〉良きに頼む』と綸言にて、この御衣冠を賜りし。必ず疑ひ給ふな」と、捧ぐる衣冠、神の徳、女房が顔威あって猛く、次第に下がる我が頭、鉄杖をもって打つがごとく、〈フシ〉体煮え込み見えけるが、
御衣冠受け取って、押し頂き押しいたゞき、「もったいなし、恐れあり。〈詞ノリ〉たとへ剣は折れずとも、その御心のうるはしさ、天孫ならであるべきか。よっく思へば神と人とは、御相好にも知るべきに、俗説を誠として、愚かにも疑ひ詰めし二十年来、剣も胸もほっきと折れ、天地の間に初めて生まれ出でたる心地。これより誠に陽成院の忠臣となって、〈地〉定省の君の御行方を尋ね、義兵の旗上げ、さりながら万乗の君を殺さんとせし黒主、〈詞〉いにしへの大友真鳥、大友皇子にも遥かに勝って大事の朝敵。〈地〉君には許しおかるゝとも、只今より心は遠島配流の身。今月今日誠の天子の勅勘受けし我が心の嬉しさ。ハヽァ本望や、喜ばしや」と衣冠を取って上座に直し、躍り上がり飛び上がり、三千世界の喜びを〈フシ〉一身に得し心地なり。
三郎しさって「ハヽァ忠臣かな、忠臣かな。かばかり誠ある黒主の手にかゝったる父が本懐、敵などゝはもったい至極。〈詞〉弓矢神も照覧あれ、毛頭恨みの心なし。いざむつましく親子の対面、女房これへ伴へ」と〈ハルフシ〉詞のうちに引き開くる、内には山主数ヶ所の手傷、黒主これはと駆け寄れば、「ヤァ寄るなよるな。〈詞〉大切の敵討、大伴黒主、只今五大三郎に討たれたぞ。なふ三郎、御身の差し添へで山主が体、ずだずだに切り裂いたは、せめて玄蕃の無念の腹いせ。〈地〉一分試しに刻まれても、みどり子のしゝむらをくらひ込んだその恩が、なんと返弁なるべきぞ。〈詞〉馬鹿な長生きけふの今、倅が忠臣聞いたる嬉しさ、心も体も一体の、我は黒主、他人よさらば」「〈地〉ハッア他人とは御もっとも。勅勘受けしそれがしが、朝家の臣たる父の側、寄るに寄られぬ」血潮の波の、どうど座しては立ち帰り、女波男波の袖の淵、水無瀬を突きのけ立て切る障子、はたと塞がる夫婦が胸、五大夫婦はいとし子の、もぬけの亡骸取り上げて、「〈詞〉いっそ産まずば良いものを」〈地〉乳を止めしも父のため、恩にかへたる愛の道、親の名残を捨て行けば、孝にかへたる忠の道、たゞ一人の形にて、朝敵なり忠臣なり、敵ともなり味方とも、親とも子とも大伴黒主が、所存のほどこそ頼もしき。


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