『鶴梁文鈔』巻4 訳

謄本「胡邦衡 こほうこう の高宗にたてまつる封事」の序
南宋の名臣で、天地間にみなぎるばかりの忠義心にあふれていた人物といえ ば、胡邦衡であろう。当時の貴人たちは、皆気息奄々として、ろくに発言することがなく、畏縮し、たじろいでいた。そして、君主に媚を売って安楽をむさぼろうとし、天下国家のことをまったく考えようとしない姦臣がいるばかりであった。あぁ、なんと不忠不義のはなはだしいことであろうか。そこで邦衡は勇を奮って封事を奉った。心ある人はこれを、才能の人が運に巡り合って世に出ることができたと考え、その論駁することが、忠義ゆえの憤激の表れであり、当時の弊害を摘発し尽くし、肺腑をえぐるもので、不正を攻撃して余すところなく、姦臣の心を責め、義士の心を励ますに十分であり、その言葉に従えば、きっと宋の天下を再興させることができよう、とも思った。しかし高宗皇帝は激怒し、彼を左遷した。実に不明のはなはだしいことである。そのような君主であるから、国家が衰えても、ついに自分の失敗に気づかなかったのもとうぜんである。朱子はこの書を評して、日月と争うばかりに光り輝き、宋中興の頃の上奏文では、これが第一である、と言っている。あぁ、邦衡という人物は、高宗のために左遷されたけれども、のちには朱子に称揚されるに至ったのである。この書の公論が定まった以上、後世の人も疑いをさしはさむことはできないであろう。わたくしは封事一通を書写 し、座右に置いている。そして日夜朗誦し、友のごとく親しんでいる。もし邦衡のように忠義心にあふれていたならば、実に素晴らしいことではないか。のちの人で朱子を学ぶ者は、ただ道学を机上で講じるばかりで、天下国家のなんたるかもよく知らず、ややもすれば邦衡は狂人、封事は妄言だと言う。あぁ、このような者は、天下に対して罪人である。天下に対してだけでなく、邦衡に対しても罪人である。そればかりでなく、朱子にとっても罪人である。

群瞽 ぐんこ図巻模本の序
僧月仙の「群瞽行旅図」一巻は、瑞念寺の所蔵するものである。わたくしはこれを借りて見てみた。この一巻に描かれているのは、杖をついて行く者が一、二人、あるいは五、六人、連れ立つのもありばらばらになって行くのもあり、不規則に進む。これが巻頭である。琵琶を背負って行く者、互いに話しながら行く者、犬の吠える声を聞いて驚き走る者、驚いて倒れる者、杖を振り上げて犬を追う者、杖をふるって打とうとする者、誤って人を打つ者、打たれて倒れる者、琵琶を弾く者、琵琶を聞いて驚く者、口から煙を吐きつつ煙管をいじる者、左手に煙管を持ち右手で火をつけようとする者、按摩する者、按摩される者、放屁する者、顔をしかめ鼻をつまむ者、笑いながらそっぽを向く者、団扇を揺すって臭気を避ける者などが、巻の中ほどに描かれている。裾をからげて川を渡ろうとする者、這って橋を渡る者、橋が壊れていて川に落ちる者などが、巻末に描かれている。合わせて百三人の盲人の、さまざまな動きや表情が精巧に描かれ、ひとつひとつ真に迫っており、筆使いも変化に富み、実に奇抜な画と言えるものである。わたくしはこれを見て、賞賛に堪えなかった。そしてひとつ感じるところがあった。歴代の史書を見てみると、勢いに任せて突っ走る者は、巻頭に描かれた盲人たちのようである。わけもわからずに妄動して身を誤り、人の身をも誤らせる者は、巻の中ほどに描かれた盲人たちのようである。晩節を汚して身を滅ぼす者は、巻末に描かれた盲人たちのようである。月仙は老年まで禅とともに生きた人物である。あるいは戒める意を込めて描いたのであろう。見終わって、吉田久道(江戸後期の幕臣)に一巻を模写させ、所蔵している。そこでその巻頭にこの文を記すものである。

『信山ぎん 稿』の序
『信山唫稿』一巻は、岡本花亭(江戸後期の幕臣)君が、代官として信州に赴任したときの作品である。詩は数十篇、ことごとく実際の経験を詠んだものである。わたくしはこれを一読して感銘を受け、彼が政務を行い民を慰撫する様子を見てみたくなった。その厚い至誠が、詩の素晴らしさとよく合って、ともに見事なものとなっている。以前、花亭君はわたくしに序を頼んできた。わたくしは武器庫をつかさどる役人であるので、武器にたとえてこのように言った。詩を作るというのは、銃を放つようなものであろう。忠誠の士が詩を作ると、必ず読む人に感銘を受けさせるのは、銃に鉄丸を込めて一発放つと、たちまち堅固な城壁をも打ち破るのと同じである。忠誠の実のない人が詩を作ると、読む人にはまったく感銘を与えない。それは紙の弾を銃に込めて放つのが、何度やってもいたずらに音ばかり大きくて、その実まったく打撃力がないのと同じである、と。花亭君は笑ってうなずいた。やがてわたくしは序を書き上げた。天保十一年六月、鉄砲箪笥同心組頭、林長孺が記す。

怕笑録 はしょうろく 』の序
わたくしは若い頃、文を作るのを好んだ。そののち激職にあり、しばしば任地を変え、書類を読む煩わしさと、出勤する忙しさとの中に十数年あった。遠州に来てから、地震や洪水があって代官としての事務が忙しく、さらに三年過ぎても、のんびりと文を書くことができなかった。始めから終わりまで二十年、安政三年以後はようやく無事となり、政務を執るのに余裕ができ、再び文芸に親しみ、物に感じ興に触れ、詩文数篇を作り、また以前作ったものを改作することができた。時には夜中まで続け、老妻や下女に不思議がられることもあった。いまは羽州に転任するので、ひとまず江戸に帰ることになった。そこで最近の稿本を読んで、そこから抄録して文四巻、詩一巻とし、さらに古い詩文各一巻を加え、『怕笑録』と名付けた。これは欧陽脩の語から取ったのである。欧陽脩は、かつて自分の文を改めるとき、非常に苦心した。これを見て夫人が「なぜそのように苦しむのですか、先輩が怒るのを恐れるのですか」というと、欧陽脩は笑って「先輩が怒るのを恐れるのではない、後輩に笑われるのをおそ れるのだ」と言った。わたくしの文は拙く、欧陽脩には及ぶべくもない。しかし文に苦心したのは、ひそかに 彼を慕うところがあったからである。そこで彼の言葉を取って、名付けたのである。安政五年五月二十一日、鶴梁老吏林長孺が、中泉代官所の私室で記す。

『十日録』の序
わたくしは数十年激職にあったが、一日で職を辞し、身も心も安らかになり、官界を脱して山水の間にのんびりと遊ぶような気持ちである。ここに至って、詩興が次第に湧いてきて、目や耳に触れるものから、次々と詩が生まれるようになり、五十余首の詩ができた。辞職して十日経ち、再び学問所学頭に任じられた厚恩には、感激するばかりである。昔、欧陽脩が帰田してから、翰林院 かんりんいん (主に詔書の起草に当たった役所)にあったときの遺稿に序して、かつての盛衰を追憶し、これによって栄光や君主の寵愛は虚名であることを知り、ひとつの笑い話とすることができるであろう、と言った。わたくしは彼のこの言葉は、心中に激するところがあって言ったのであろう、と考えた。しかし辞職後、欧陽脩は胸中をそのまま表したのであり、けっして世に対して憤ったためではないということがわかった。そもそも、欧陽脩は辞職してからついに出仕しなかった。わたくしは幕府のご厚恩に浴した以上、老いてなお職務に従事しないわけにはいかない。しかしながら、わたくしはもうそろそろ還暦で、日ごとに衰えている。ゆくゆくは職 を辞して、山林の間で体を休めるに至るとなれば、ちょうど欧陽脩と同様であろう。そのように余生を送れたならば、さぞ悠々自適の日々は十日にとどまらず、詩篇の数もそれ以上となるのではあるまいか。文久三年十二月二十八日、鶴梁半隠が記す。

岩田緑堂書画帖の序
元治元年、幕臣で職を辞した者が数人いたが、先の目付岩田緑堂もまた、その一人であった。そののち復職した者は少なくなかったが、緑堂のみは復職しなかった。しかし彼はまったく怒る様子もなく、野外を散歩し、釣り糸を垂れ、のんびりと逍遥して、まことに楽しそうであった。そして一冊の帖を作り、諸家の書画を求めて、常にそれらを清らかな部屋の中で眺め、目を喜ばせ心を楽しませ、これには君主となる楽しみも代えられないと思っている。あぁ、退いてよく身を処することができる者は、他日栄進したときにも身を処することができる者であることがわかろう。そもそも出処進退は、士たる者のもっとも重んじるべきものである。しかし世道は次第に衰え、武士の節操も地に落ちた。そして身を安らかに保とうとし、心が静かで動くことなく、出処進退の際に善処する者は、百人に一、二人もいない。しかし緑堂は出処進退をよくする者の中でも飛び抜けている人物である。わたくしは老いて職を辞し䣍、世に用いられることを求めず、重要ではない地位に甘んじる者であるが、緑堂に言葉を求められたので、喜んで彼のために言うのである。あぁ、この帖は一冊の小冊子にしかすぎないが、いまの世の士を諷することができよう。

岩瀬蟾洲 せんしゅう を送る序(以下「序」は離別に際して励ますための文章)
古人が、史書を作るには才・識・学の三つを兼ね備えていなければいけない、と言っている。しかしわたくしは、史書のみならず、天下のことに処するには、常にそのようであらねばならない、と考える。なぜならば、才がなければ難事を解決することはできないし、識がなければ道理や時勢を観察することができない。また学がなければ、二つのことの当否を弁別することができない。そして才と識とは天稟によるものであり、学は人が行って成すものである。わたくしから昨今在職中の人々を見ると、これらを兼ね備えた人物は少ない。ただ目付岩瀬肥後守君(号は蟾洲)と永井玄蕃頭君とは、兼ね備えた人物といえよう。両君は天性の才と識とが凡人をはるかに超え、これに学識の深さが加わっている。俗に「鬼に金棒」というのは、両君のことを言うのであろうか。そもそも目付の職は、君主の徳の明暗、国政の得失、万民の安危について進言することであり、天下のことについては、言うべきでないことはない。両君が互いに力を合わせ、助け合って、その職に従事すれば、天下の人々は大いに信頼することができるであろう。またわたくしはこうも思う。両君は才識ともに凡人をはるかに超えているが、ごく細かいところで比べてみると、岩瀬君は才にもっとも長じ、永井君は識にもっとも長じている。これらは両君の天性であって、変えることはできないのであろう。昔、房玄齢 ぼうげんれい 杜如晦 とじょかい とは唐の名宰相であった。玄齢は謀をよくし、如晦は裁断をよくした。そして二人は力を合わせ、その長所をもって助け合い、職に奉じたために、貞観の治と言われる泰平をもたらしたのである。後世、天下はこれを美談としている。いま、両君もまた力を合わせて、その長所をもって助け合い、職に奉じて政治の欠けたところを補う功績を挙げたならば、我が国において極まりない大業を成しうるであろう。そうなれば、後世において両君を賞賛することは、房・杜の二宰相にも劣らないはずである。これが、わたくしが常々両君に期待していることである。最近になって、岩瀬君が甲府から帰るとき、わたくしは中泉の代官となったので、見附の駅で出会った。そして常日頃心にあったことを述べて、その行を送るのである。岩瀬君が果たしてわたくしの言葉を受け入れてくれるかどうか。そして岩瀬君が江戸に帰って、永井君と会ったとき、このことについて相談するかどうか。

名倉生が蝦夷に行くのを送る序
蝦夷は東北の万里の外にある僻地で、土地は広いが人は少ない。論者はこの地を開拓するのが難しいと考えているが、これは事情をよく知らない者の論である。そもそも土地が広ければ必ず耕すべきところがあり、人が少なければ人を集める方法がある。なぜこのように言うのかというと、およそ天下の人は、必ず利を喜ぶ。そして利のあるところならば、死を招くようなことをしても求めようとするのである。わたくしが聞いたところによると、蝦夷の様子は次のようである。山には金銀銅鉄があり、海には魚介や鯨などがおり、その他ハヤブサやヒグマなど珍鳥・珍獣が群れをなして住んでいる。これは利が満ち満ちている場所というべきではあるまいか。しかしながら天下の人には、行ってその利を得ようとする者がいない。それは官許が得られないからであろう。もし官許を得られるならば、人々がその利を得ようとして、先を争って集まるはずである。人が集 まったら、地を開き畑を耕すのは難しいことではあるまい。浜松藩士、名倉松窓 しょうそう は、蝦夷に行って地理を見ようとしている。これも蝦夷の利を測ろうとしているのであろうか。松窓は早くから儒学を奉じ、経書の句をそらんじ、義と利を弁別すべきことを知っている。このたびの行動については、不思議に思う人もいる であろう。そこでわたくしはこう考える。松窓が利を測るのが単なる私事であって公事でないのであれば、それはよろしくないことであるから、言い聞かせて止めようとするであろう。もし公事であって私事でないのであれば、わたくしはけっして止めはしない。のみならず積極的に勧めるであろう。ただ一人の身の利益となるものは、私利である。天下の人々の利益となるものは、公利である。松窓の常日頃の心掛けから考えると、彼が測ろうとするのは、明らかに公利であって私利ではない。いま、松窓は蝦夷に赴いて、地理を見、その開墾・耕作、人民の生業に適するか否かを調べることができたら、天下の人もその利潤を被るであろう。そうなれば古の聖人が万物の道理に通暁し、それによって成功を得たのと同様であり、その志もまた立派なものである。さらに君子は公利を測って、私利を測らないものであるが、人を利するものであれば、私利でも十分携わって良いであろう。これもまた自然の理である。松窓は是非行くべきである。わたくしは、函館奉行の堀殿が賢明で事情に通じておられると聞いた。松窓が謁見したら、わたくしの言葉について質問してみるがよい。

伊沢兌堂 だどうの町奉行転任を祝賀する序
わたくしと伊沢兌堂君とは、文と酒とで親しく交わって二十余年となる。伊沢君は生来䣍、才たけて見識高く、飲酒を好み、花が咲く昼や月の出る夜には、必ず詩人仲間と酒盛りをした。そして伊沢君は激しく飲み、数百升飲んでも乱れず、声高く歌っては、しばしば人を驚かせた。安政四年、町奉行に転任となった。わたくしはこれを聞いて欣喜雀躍に堪えず、急ぎ序を作ってこれを祝賀するものである。そもそも町奉行は、地位はそれほど高いとは言えない。伊沢君の才識を考えると、祝賀するべきことではない。しかしながら町奉行は、その地位はそれほど高くはないけれども、職務ははなはだ重要である。訴訟・裁判のみならず、幕府の大小の政務には、常に預かっている。いま、伊沢君がその職に任じるのは、 まさにその才能を伸ばすときが来たというべきである。昨今、外国がわが国に迫り、国家は多事となり、幕府の会議で、ひとつでも失当なものがあれば、他日、天下の安危はどのようになるかわからない。きっと伊沢君が職を拝したのちは、日夜大杯を傾け、壮大な詩を作ったら、いよいよその壮烈な気概を奮い立たせ、そして公明正大な判決で事件を裁き、はばからず直言して幕政の欠けたところを補うことができよう。そうなれば、他日その功業がひときわ抜きん出て、誉れを当世に馳せる者は、伊沢君以外の誰でもあるまい。昔、于定国 うていこく(前漢の大臣)は裁判官となったとき、酒を飲んで事件を裁いたが、民は冤罪を被ることがなかった。いま伊沢君の飲む酒量も才気も、于定国に劣らない。その支配する町には、冤罪を被る民はきっといないであろう。しかし于定国のときは、天下は無事であったから、その功績は冤罪を被る民がいなかったというだけにとどまるのである。伊沢君は、天下有事の日に、交渉で武力を用いることなく勝ちを収め、万里を隔てた外国に名を轟かせるであろう。そうなればその功績は于定国にも勝るはずである。それを考えると、わたくしは伊沢君の転任を祝賀せずにいられないのである。

貞婦某氏について
この貞婦は、ある萩藩士の娘である。名ははっきりしない。顔は黒く不器量で、眉や目は鬼のようであった。成人しても、彼女を娶る者はいなかった。父や兄はこれをかわいそうに思い、「もし娶ってくれる人がいるなら、どんな貧乏人でも娶らせたいものだ」と言った。しかし彼女は自ら配偶者を選び、常に人に「滝鶴台 かくだい 先生(江戸中期の儒者)のような方を夫にすることができれば十分です」と語っていた。鶴台はこれを聞いて、「彼女はわたしの知己となるべき人である。きっと家をよく治めてくれるであろう」と言った。そして彼女を娶った。娘は滝氏に嫁いでから、日夜ことあるごとに忠実に従ったが、その見識もまた高かった。鶴台が客と話しているとき、彼女は常に屏風の外に座って聞いており、話が国政に及ぶと諌止した。嫁いで数年経ち、ある日夫を世話しているとき、とつぜん袖の中から赤い鞠が落ちた。夫が不思議に思って問うたところ、妻が恥ずかしげに言うには「わたくしは愚かで、日頃行いを後悔することが少なくありませんでした。そこで過ちを少なくしたいと思い、赤と白の二つの鞠を作り、つねに袖の中に入れて、悪心が起これば赤糸を結び、善心が起これば白糸を結ぶことにしておりました。一、二年の間は、赤鞠がますます大きくなり、白鞠は元と同じでした。それを見てはたと気づき、さらに振る舞いを省みるようにしておりました。いま、赤白二つの鞠の大きさはちょうど同じになっておりますが、これも旦那さまからお教えを受けたからです。しかし恥ずかしいことですが、まだ白鞠が赤鞠より大きくなっておりません」と。言い終わった後、袖の中から白鞠を出して見せた。あぁ、古今の婦女に貞淑をもって称えられる者は多いが、この妻のように見識高く、つねに身を修めている者は聞いたことがない。不思議なことである。

月仙について
僧月仙は、伊勢の人である。絵をよくしたが、描いた報酬の金をひどく貪り、絵を頼んでくる者がいると、必ず先に値段を交渉してから筆を執った。そのため非難する声が高かったが、月仙は顧みなかった。ある名高い遊女が、彼が絵をよくするのを聞いて、下男に呼んでこさせた。月仙は先に値段を交渉した。下男は帰って報告した。遊女は「値段ならお望みにお任せしましょう」と言った。絵が出来上がると、月仙は自身絵を持ってやってきた。ちょうどそのとき、遊女のところに客がいた。宴たけなわとなり、月仙を末席に座らせ、いくらかの金を取り出し、席上に投げて月仙に与え、言うには「金は絵を買うものです。あぁ、しかし絵を売る人は相手にすべき人ではありませんし、売ってもらった絵は掲げるべきものではありません」と。そして衣装を脱ぎ、大勢の中に進み出て、自ら腰巻を解き、絵の代わりに壁に掲げた。そして笑って「良い絵は得られませんでしたが、良い腰巻は持っています」と言った。一座は目を覆ったが、月仙だけは恥じる色もなくじっと見つめていた。そののちはますます値をつり上げ、利子をとって金を貸すこともあった。そして得た金はついに巨万となった。やがて月仙は少しずつその金を散じて、貧しい者たちを救った。貧しい者は彼を頼って、自分たちの生活を助ける者が非常に多かった。いまに至るまで伊勢の人はその金を「月仙金」と呼んでいる。これは佐藤良仲の話したことである。僧は忍辱をもって苦行の第一とすると聞いたことがあるが、月仙はまさにそのような人であろう。

熊沢助八の事跡について
備前国に、金持ちの町人で資産を争う者がいた。それぞれ百余人が徒党を組んで応援し、町奉行が尋問したが、何年経っても裁き得なかった。熊沢助八(熊沢蕃山の弟)が町奉行となったとき、兄弟二人を呼び出し、ともにひとつの部屋に座らせた。このときは冬で寒さが厳しく、火鉢がひとつ部屋の真ん中に置かれていた。助八は終日何も問わず、日が暮れるまで食事を出しては、二人に並んで食べさせていた。このようなことを三日続け、助八はつねに襖を隔てて座り、その二人の息子に、彼の膝下で世話をさせ、子供らが仲良く語り合う声を、それとなく兄弟二人に聞かせた。二人はすぐにそれが自分たちを諭そうとしているのだと気付き、次第に恥じる心が生じ始めた。初め二人が部屋に入ったときは、分かれて一方に座っていたが、ここに至って互いに、寒いから火に当たろう、と思った。そして火鉢に近づき、思わず互いの手を取って泣き、以前からの恨みはすっかり 消えて、訴えを取り下げ、応援していた者たちも取り下げたという。あぁ、数年続いた案件を、少しの発言もせず、一日で解決してしまうのは、訴えを聞くことをよくする者というべきであろう。しかしそれは日頃の行いで人から信頼されている者でなければ、できないことであろう。世の裁判官たる者は、このことを思うべきではあるまいか。

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