日記11月17日

 突然だが司馬史観によると伊賀・甲賀忍者は自己犠牲に対して褒賞の少なき多きに関係なく、喉元に刃を突き付けられる緊張感に自己研鑽による技の高さを持って挑む自慰的行為を誉れとしていたらしい。
 
 それが本当に彼らが忍術を極めせし真の理由とは到底思えないのだが、どこかブラック企業でのやりがい搾取の様な気風を感じてしまう。

 梟の城を読み進めていくと「一夜のうちに甲賀から京や奈良まで野盗を働きに行って戻ってきた」。とあったが、京都から奈良まで9時間かけて歩いたことのある私からすれば物理的に不可能ではないか?と思わず笑ってしまった。

 いや、穿った見方ばかりしていては小説に面白みを見出すことはできない。もっと芯から実を知らない目線で見る必要がある。と肝に銘じた。

 では、私は自己犠牲の上に金も貰えない部活動広報の仕事を一体何のためにやっているのだろうか。メンタリティーは圧倒的にことなり忍者と比較するのはおこがましいが、どこか「自分はできるんだ」とアピールしたい心の側面があるのかもしれない。

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