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謝名利山という男

私は沖縄が好きだ。なかでも琉球王国は大好きで、ちょうど首里城が落成した際に訪れた時には正殿前にある御庭(うなー)で三跪九叩頭(中国の皇帝に対して家臣が敬意を表す儀式)の礼を取ったほどだ。

私が琉球史にはまったのは紛れもなく母の見ていたNHKドラマ「テンペスト」の影響だろう。「首里天加那志」。琉球国王を意味する言葉や数々の不思議な文化、官職名、固有名詞。

ドラマで気になり始めてからは、何度も行ったことのあった沖縄が光り輝く宝石のように見えた。

訪れれば道脇にあるグスクの入り口や蔡温の植えた琉球松、読谷の喜名番所なんかに反応してしまい、はち切れんばかりの興奮が収まらなかった。

中学校時代からは、ただひたすら札幌のわしたショップ(沖縄県産品販売店)で本を買いだめしていた。

頭の中にはハチマチをした首里氏族。重税に苦しみに晒されつづけた人々、那覇の華人が浮かんでいた。妄想で涙を流すほどだ。

中学校1年生のときにテンペストという日本で言う幕末に当たる時代の琉球王国をモデルにした本を読んだ。同じクラスの女の子が奇跡的に読んでいて話のウマがあったのを思い出す。

今思えば自分がただ沖縄を観光が好きで好きだとか景色がきれいだから好きになったとかではなく、沖縄でとりわけ社会問題に挑もうと決心したのはこの波瀾の歴史を知る経験があったからに違いない。

歴史を顧み初めて、真剣に今の沖縄に本土の人間として向きあうことができるのだと思う。

謝名親方利山という人物を知っているだろうか。琉球の風という作家の陳舜臣さんの著作にも登場する人物だ。

蔡温具志頭親方や向象賢(羽地朝秀)より早く生まれた那覇久米村出身の三司官(琉球王国で最も位の高い行政官)だ。

謝名親方は反骨の人として名高い。尚寧王に仕え、薩摩による琉球侵攻の際には那覇港封鎖を断行し、侵入してきた薩摩船を砲撃。久米村(那覇市内にあった華僑集落)の砦に立て籠もり、果敢に戦ったのだという。

そして琉球が降伏して薩摩に国王以下数百人の重臣らが連れ去られた際にも同行し、薩摩の地で従属を意味する誓文押印を拒み続け、琉球高官で唯一処刑された。

謝名は明政府に援軍を派遣してもらえるよう、薩摩による侵攻を伝える皇帝宛の密書を渡していた。

結局これは池城安頼という進貢使(貿易責任者兼中国大使)が持ち帰り返送されそのまま薩摩の手に渡ることになり、露見してしまった。

薩摩側が謝名を処刑したのは、琉球の中で最大の脅威かつ抵抗者を見せしめにするつもりだっだのかも知れない。

だが謝名自身も国土が占領され、独立を奪われた指導者としての責任を感じていたのではないか。彼が責任を取ったことで、尚寧王に対する責任追及が緩和したのに違いはないと個人的には解している。同時に琉球の国家としてのメンツも守られた。

彼が反対しなければ琉球が薩摩軍に蹂躙され灰燼に帰することもなかったという人もいる。司馬遼󠄁太郎の峠で有名な河井継之助と似ているところだ。

だが時代の流れに逆らい地域・国家の自主独立と主権維持のために命を懸けた人間が沖縄にいたことは忘れてはいけないと思う。

自分が尊敬する政治家で2018年に亡くなった故翁長雄志沖縄県知事とも似ている。大切なアイデンティティを守るために、文字通り命を削って戦ったこの知事と謝名は似ている。

琉球は悪い国だったとして、薩摩支配を正当化する人がいる。一連のなかでは南西諸島の人頭税が何故適用されたのか?という疑問で首里王府が搾取して利益にして自分の懐に入れていたと糾弾する人間もいる。確かにその見解もすべて間違いとは言えない。

だが元を辿れば謝名の死後薩摩支配の中で貿易不振と仕上世(しのぼせ)と呼ばれる薩摩に対する貢納に迫られるなか、王府財政が圧迫され二重課税にするしかなかったからだ。

また薩摩は琉球特産の商品作物であるサトウキビやウコンを安く買い叩き、江戸や大阪で数百倍の値で売り捌きその利益を明治維新の軍備拡張に繋げていった。その流れで琉球はサトウキビ畑の耕地面積を広げざるをえなくなった。結果商品作物のために国民の食物生産が圧迫され、貧困や餓死者が出た。

謝名は薩摩支配後の琉球がどれだけ辛酸を舐めることになるか、無抵抗がさらなる従属を迫られる口実にならないかと危惧してもいたのではないか?そう思えてならない。






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